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第四十六話:それでも、北へ

 

 司令天幕の中は、若き王が下した、あまりにも無謀な決断の前に、重い沈黙に支配されていた。


 北へ進む。


 退路も、援軍も、勝利の算段すらない、死地へと。


「……御意」

 最初に沈黙を破ったのは、老獅子バルカスだった。


彼は、苦渋に満ちた表情を、しかし、その奥に揺るぎない覚悟を宿した目でアレクシオスを見据え、ゆっくりと、そして深々と頭を下げた。


「このバルカスの命、どこで捨てようと、陛下の剣であることに、何ら変わりはございません。最後まで、お供つかまつります」

 その言葉には、もはや軍司令官としての合理的な判断を超えた、一人の騎士としての、主君への絶対的な忠誠が込められていた。


「わたくしも、ですわ、陛下」

 リリアナもまた、涙の痕跡が残る瞳で、しかし、強い意志を持って立ち上がった。


「仲間を見捨てぬという、陛下のお覚悟。それこそが、わたくしが、この国の民が、信じる光です。私の魔法の全てを、陛下と、エルヴァンの仲間たちのために」

 二人の、最も信頼する側近の言葉に、アレクシオスは静かに頷いた。


 だが、その覚悟は、すぐに次の壁にぶつかることになる。


 バルカスとリリアナが、王の決定を先遣隊の各部隊長に伝えると、天幕の外に集められた歴戦の騎士たちの間に、絶望的な動揺が走った。


「馬鹿な! それでは犬死にではないか!」


「帝国に見捨てられ、辺境伯に裏切られたのだぞ! このまま北へ進むなど、正気の沙汰ではない!」


「我らには、守るべき家族がいる! 祖国へ帰る道すら断たれた今、なぜ、見込みのない戦いに命を捨てねばならんのだ!」

 恐怖、怒り、そして絶望。兵士たちの間から、異議の声が次々と上がる。


それは、当然の反応だった。彼らは、死ぬために、ここまで来たのではない。


「静まれ!」

 バルカスの一喝が飛ぶが、一度広がった動揺は、簡単には収まらない。軍の統制が、内側から崩壊しかけていた。


 その時だった。


 アレクシオスが、静かに天幕から姿を現した。


彼は、動揺する部隊長たちの中央へと、ゆっくりと歩を進める。


その手には、剣も、王笏もなかった。


ただ、一人の人間として、彼は、自らの兵士たちの前に立った。


「皆の言う通りだ」


 アレクシオスの、静かだがよく通る声が、ざわめきを切り裂いた。


「この戦は、無謀かもしれん。生きて、再び故郷の土を踏める者は、一人もいないかもしれん」

 彼は、真実から目を逸らさなかった。


甘い言葉で、兵士たちを騙そうとはしなかった。


「ガルニア帝国は、我らを見捨てた。マーカス辺境伯は、我らを裏切った。我らの退路はない。前には魔王、後ろには反逆者。我らは、まさに袋の鼠だ」


 兵士たちの顔に、より一層、深い絶望の色が浮かぶ。


だが、アレクシオスは続けた。


「だから、問いたい。我々は何のために、ここにいる? 騎士とは、なんだ? 王とは、なんだ? それは、地位や名誉のことではない。ただ一つ、『民を見捨てぬ』という、誓いによってのみ存在する、魂の在り方のことだ」

 彼の視線が、一人一人の部隊長の顔を、射抜くように捉える。


「今、北のエルヴァンで、我らが同胞が、血を流している。彼らは、我々を信じ、この国の民を信じ、絶望的な状況の中で、今この瞬間も戦っている。その声を聞きながら、己の保身のために踵を返す国に、未来などあるものか。そんな王に、誰が忠誠を誓う? そんな騎士団に、誰が民の守りを託す?」


「そうだ、我々は死ぬかもしれん。だが、意味のない死ではない! 我々は、仲間を見捨てなかったという誇りを、ロムグール王国、最後の騎士としての誇りを胸に、死ぬのだ! それこそが、我らが守るべき、最後の城壁だ!」

 その言葉は、もはや王の命令ではなかった。


一人の男としての、魂の叫びだった。


「……故に、私は選択を強制しない。この場で、剣を置き、自らの道を行く者がいても、私はそれを咎めない。家族の元へ帰りたいと願うのなら、それもまた、一つの正義だろう。だが」

 アレクシオスは、そこで一度、言葉を切った。


「だが、もし、その胸に、まだロムグール騎士としての誇りの欠片が、仲間を見捨てられないという人の情けが、わずかでも残っているのなら―――」


 彼は、北の、エルヴァン要塞があるであろう方角を、その指で力強く指し示した。


「―――私と共に、死地へ行け!」


 大音声ではない。


しかし、その声は、吹雪を貫き、全ての兵士の魂を、直接揺さぶった。


 誰もが、言葉を失い、ただ、目の前の若き王の、あまりにも巨大な覚悟の前に、立ち尽くしていた。


 長い、長い沈黙。


 それを破ったのは、新生騎士団の、若い部隊長の一人だった。


彼は、アレクシオスの前に進み出ると、その場に片膝をつき、力強く自らの剣を抜き放ち、その切っ先を天に向けた。

「この命、陛下と、ロムグールの誇りのために!」


 その声が、狼煙だった。


 一人、また一人と、部隊長たちが、次々とその場に膝をつき、剣を抜いて忠誠を誓う。


「我らも!」


「陛下と、エルヴァンの仲間たちと共に!」


「たとえ、この身が滅ぶとも!」

 やがて、その声は、一つの巨大な雄叫びとなった。


「「「うおおおおおおおおおおっっ!!」」」


 恐怖と絶望は、極限の覚悟と、王への絶対的な忠誠心の前で、完全に焼き尽くされていた。


彼らの士気は、皮肉にも、この絶望的な状況の中で、史上最高潮に達したのだ。


 その、鬼気迫る兵士たちの輪から少し離れた場所で、我らが勇者、田中樹だけが、腕を組み、つまらなそうに足元の雪を蹴りながら、盛大にため息をついていた。


「えー、南に帰るんじゃないのかよー。南の方が絶対あったかいし、美味いもんもありそうなのにー。王様、空気読めねーなー」

 そこまで一気に不満を垂れ流すと、彼はもう一度、今度は諦めたように、ふう、と息を吐き、両手を頭の後ろで組んだ。


「まぁ、しゃーねーかっ!」

 その声は、英雄の決意とは百万光年かけ離れた、ただの、やけくそ気味な独り言に過ぎなかった。


 アレクシオスは、再び北へと向き直った。

「―――全軍、進め」


 その号令と共に、ロムグール先遣隊は、再び歩み始めた。

 それはもはや、ただの救援軍ではなかった。


 自らの死地を悟り、それでもなお、誇りのために前へ進むことを選んだ、気高き魂の集団だった。


 吹雪がますます激しくなる中、彼らの掲げる獅子の紋章旗だけが、この世の終わりのような景色の中で、 反抗するように、赤く燃えていた。

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