第四十五話:届かぬ援軍、絶望の報せ
竜哭山脈の麓に続く道は、もはや道と呼べるものではなかった。
降りしきる雪と、ぬかるんだ泥が、兵士たちの足を容赦なく絡め取る。
アレクシオス率いる先遣隊は、不眠不休の強行軍を続けていた。
その誰もが、遥か北で今も戦い続けているであろう仲間たちのことを思い、奥歯を噛みしめていた。
希望だけが、彼らを前に進める唯一の力だった。
対魔王連合。
大陸中の国々が、今、自分たちの背後から駆けつけてくれているはずだ。
特に、大陸最強を誇るガルニア帝国の北方軍団が合流すれば、戦況は一変する。
その希望が、彼らの凍えそうな身体を内側から温めていた。
その、脆い希望が打ち砕かれたのは、日が暮れかけた頃だった。
「陛下! 連合後方司令部より、緊急の魔法通信にございます!」
通信魔術師が、血の気の引いた顔で、携帯用の水晶をアレクシオスの前に差し出した。
水晶に映し出されたのは、シルヴァラント公国の公女、セレスティナの、苦渋に満ちた表情だった。
彼女の声は、魔力のノイズ混じりに、震えていた。
『アレクシオス陛下……! 申し訳、ございません……! ガルニア帝国が……ヴァレンティン将軍が、正式に、出兵の延期を……!』
「なんだと!?」
アレクシオスの隣にいたバルカスが、思わず叫ぶ。
『彼の領地の近くで、小規模な魔物の越境があったと……それを理由に、「国境線の防衛を優先する」と! 我が国の諜報部によれば、それは、彼の軍を動かさぬための、あまりにも見え透いた口実に過ぎませぬ!』
セレスティナの言葉は、怒りと、そして無力感に震えていた。
「あの、臆病者の犬が……!」
バルカスは、怒りのあまり、近くにあった樫の木を、その拳で力任せに殴りつけた。硬い樹皮が、彼の鋼の籠手によって砕け散る。
「我らを見殺しにする気か! エルヴァンと、我ら先遣隊を魔王軍にぶつけ、共倒れになったところを、漁夫の利を得るつもりなのだ、あの男は!」
司令部の天幕に、重い沈黙が落ちる。最大の頼みとしていた帝国の援軍が、来ない。それは、この救援作戦が、もはや無謀な賭けでしかないことを意味していた。
しかし、本当の絶望は、まだ始まったばかりだった。
セレスティナとの通信が切れた直後、今度は、王都の宰相府から、王家の紋章が刻まれた、最上級の緊急通信が飛び込んできたのだ。
水晶に映し出されたのは、宰相イデン・フォン・ロムグールの、いつもと変わらぬ、感情の読めない顔だった。
だが、その声には、隠しようもない緊迫感が滲んでいた。
『―――陛下。ご無事ですかな。申し上げにくいことですが、緊急のご報告が』
「何があった、イデン。簡潔に述べよ」
アレクシオスは、自らの動揺を押し殺し、努めて冷静に問いかける。
『はっ。マーカス辺境伯が、動きました』
「……北へか? 救援に向かったか、あの男も」
バルカスの声に、わずかな期待が混じる。だが、イデンは、静かに首を横に振った。
『いえ。……逆でございます』
イデンの言葉に、天幕の空気が凍りついた。
『辺境伯は、「国王陛下ご不在の王国の安寧を守る」と称し、その全軍を発進。しかし、その進軍先は北のエルヴァンではございません。我が国の生命線、大河アデルに架かる王の橋を、昨夜、完全に制圧。さらに、別働隊は、ミレイユ平原にある王家直轄の大食糧庫を、ことごとく「保護」の名の下に接収いたしました』
「な……なんだと……!?」
今度こそ、バルカスは言葉を失った。
リリアナは、信じられないといったように、わなわなと唇を震わせている。
イデンは、淡々と、そして残酷な事実を告げた。
『辺境伯は、今や、王都と北方とを結ぶ全ての主要街道を、その手中に収めております。つまり、陛下。我らの……貴方様の退路は、完全に、断たれました。シルヴァラント公国の援軍も、これではたどり着けないでしょう』
―――二正面作戦。
アレクシオスの脳裏に、その絶望的な言葉が浮かんだ。
前には、数万の魔王軍。
後ろには、王国最強の私兵軍団を率いる、最も狡猾な裏切り者。
そして、頼みの綱であった帝国の援軍は、来ない。
彼らは、この極寒の地で、完全に孤立したのだ。
司令天幕の中は、まるで葬儀のような静けさに包まれていた。
床に広げられた地図の上で、北の「魔王」と、南の「辺境伯」の駒が、アレクシオスの軍を挟み撃ちにする形となっている。完全な、詰みだ。
「……陛下。もはや、エルヴァンは……」バルカスが、苦渋に満ちた声で進言する。「今すぐ、我々は転進すべきです。辺境伯の軍が布陣を固める前に、南へ強行突破し、あの裏切り者を討たねば、この国そのものが奪われますぞ!」
それは、軍司令官として、最も合理的で、そして最も苦しい判断だった。
「ですが、それでは、グレイデン殿たちが……!」リリアナが、涙ながらに反論する。
「彼らを見捨てて、生き延びることなど、どうしてできましょうか! それでは、何のために連合を!」
二人の意見は、どちらも正しかった。そして、どちらも、地獄への道だった。
アレクシオスは、二人の激論を、黙って聞いていた。
彼は、おもむろに立ち上がると、何も言わずに天幕の入口の分厚い布を押し開け、外の吹雪の中へと足を踏み出した。
凍てつく風が、彼の頬を叩く。眼下には、束の間の休息を取る、疲弊しきった自軍のキャンプが広がっていた。兵士たちの数は、あまりにも少ない。
だが、彼らは、絶望してはいなかった。
ある者は、黙々と、凍える手で剣を研いでいる。
ある者は、故郷に残した家族への手紙を書いているのだろうか、小さな灯りの下で、ペンを走らせている。
そして、その誰もが、時折、王の天幕がある方向を、不安と、そしてそれ以上の信頼を込めた目で見上げていた。
彼らは、信じているのだ。自分たちの王が、必ずや正しい道を示してくれると。
アレクシオスは、その光景を、ただ黙って見つめていた。
地図の上にある、ただの駒ではない。一人一人に、生活があり、家族がいて、そして、未来への願いがある、かけがえのない命。
彼の表情から、迷いが消えた。冷たい決意が、その瞳に宿る。
アレクシオスは、再び天幕の中へと戻った。
彼を待っていたバルカスとリリアナは、息を呑んだ。
そこにいたのは、もはや迷える若者ではない。
数千の命と、国の未来をその双肩に背負う、覚悟を決めた「王」だった。
「バルカスの言う通りだ。軍略としては、南へ転進し、辺境伯を討つのが正しい。リリアナの言う通りでもある。仲間を見捨てるなど、人の道に悖る」
彼は、静かに、しかし、揺るぎない声で告げた。
「だが、私は、ロムグール王国の王だ」
アレクシオスは、地図の上、遥か北に位置するエルヴァン要塞の駒を、その指で力強く指し示した。
「我々は、北へ進む」
「陛下!?」
「退路も、援軍も無いのですよ!?」
「ああ。退路はない。援軍も来ない。我々は、死地に飛び込むことになるだろう。だが、王とは、国とは、なんだ? それは、民を見捨てぬという、ただ一点の誓いによってのみ成り立つものだ。エルヴァンで、グレイデンが、我らが民が、血を流している。その声を聞きながら、己の保身のために踵を返す王に、誰がついてくる? そんな国に、未来などあるものか」
彼は、驚愕する二人を見据えた。
「我々は、北へ進む。そして、エルヴァンを救う。その後だ。生きていれば、の話だがな。我々は、凱旋の軍として、あの裏切り者の元へ向かう。そして、王の怒りが、どれほど恐ろしいものか、その骨の髄まで教えてやる」
「……しかし、陛下、それでは……」
「もし、我々がここで全滅するようなことがあれば」アレクシオスは、静かに続けた。
「その時は、イデンと、フィンと、ロザリアが、残った民を率いて、この国を再建するだろう。俺は、彼らを信じている。―――これは、決定だ」
その言葉には、もはや、いかなる反論も許さない、絶対的な王の意志が宿っていた。
バルカスとリリアナは、言葉を失い、そして、自らが仕える王の、そのあまりにも巨大な器の前に、ただ、深々と頭を下げることしかできなかった。
絶望の淵で、若き王は、最も困難な、しかし、唯一、王として選び得る道を選んだのだ。
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