第四十三話:辺境伯、動く
北のエルヴァン要塞が血と炎に包まれ、アレクシオス王が雪中の強行軍を続ける、まさにその時。
ロムグール王国北東部に位置する、マーカス辺境伯領。
その居城である城塞都市アルツフェルトは、北の喧騒が嘘のような、静かで、重々しい空気に支配されていた。
城主の間に、当主エルンスト・フォン・マーカスは座していた。
彼の前には、血相を変えた密偵と、一族の重臣たちがひざまずいている。
「―――以上が、現在までに判明している状況にございます。エルヴァン要塞は、”魔王”を名乗る者の大軍に包囲され、落城寸前。そして、アレクシオス国王は、王都の主力を割いて編成した僅かな先遣隊を率い、救援のため北へ向かった、と」
密偵の報告に、重臣たちの間に動揺が走る。
「マーカス様! 今こそ、我がマーカス家の忠誠を示す時! 直ちに兵を発し、国王陛下のご救援に駆けつけるべきです!……汚名を晴らす絶好の機会です!」
声を上げたのは、先代から仕える老臣、コンラート卿だった。
彼の顔には、王国への純粋な憂いが浮かんでいる。
「何を言うか、コンラート! これは好機だ!」
それに噛みついたのは、辺境伯の三男、エルドリッジだ。
彼の瞳には、野心と恨みの炎がギラギラと燃えていた。
「父上! アレクシオスは、自ら虎の口に飛び込みに行ったようなもの! 我らがここで兵を挙げれば、王都はもぬけの殻! 長年、我らマーカス家を虐げてきた王家から、実権を奪い返す、またとない機会ではありませぬか!」
「お黙りなさい、若様。事を急いてはなりませぬ」
冷静な声でそれを制したのは、辺境伯の腹心である軍師だった。
「魔王軍の戦力は未知数。ここで我らが兵を動かし、国王軍と魔王軍がぶつかった後に、疲弊した勝者を叩くのが、最も確実な策かと…」
忠誠、野心、そして策略。
三者三様の意見が飛び交う中、マーカス辺境伯は、目を閉じて静かに耳を傾けていた。
やがて、彼はゆっくりと手で制し、その場を静まらせた。
「……皆、下がれ。一人で考える」
その有無を言わせぬ声に、重臣たちは黙って部屋を退出していった。
一人残された広間で、マーカスはゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた巨大なロムグール王国の地図の前へと歩を進めた。
その老獪な瞳が、盤上の駒を眺めるように、地図の上を滑る。
(……魔王、か。エルヴァンが落ちれば、次に奴らが牙を剥くのは、間違いなくこの我が領地。ただ座して見ているわけにはいかぬ)
彼の思考は、まず自領の安全確保へと向かう。
帝国のように、高みの見物を決め込めるほどの地理的余裕は、彼にはない。
(だが、ここでアレクシオスを助ければどうなる? あの小僧は、この一年半で、国を着実に立て直し、我ら旧貴族の力を削いできた。奴が魔王を討ち、英雄として凱旋すれば、その権威は絶対的なものとなる。そうなれば、我がマーカス家は、ただの一地方貴族として、その翼をもがれることになるだろう。それだけは、断じて許せん…)
彼の脳裏に、王家にいいように利用され、煮え湯を飲まされてきた一族の歴史が蘇る。
建国の功臣の末裔としての誇りが、アレクシオスへの協力を拒絶していた。
忠誠か、野心か。救援か、静観か。
どちらを選んでも、待っているのは茨の道。
彼の視線が、地図の中央、王都カドアテメとミレイユ平原、そして、それらを結ぶ大河アデルに架かる、唯一の巨大な橋に注がれた。
その瞬間、マーカス辺境伯の口元に、まるで蛇が獲物を見つけたかのような、冷たく、そして酷薄な笑みが浮かんだ。
「……ふっ。ふははは。小僧め、致命的な過ちを犯したな。王たる者、手足を守るために、己の心臓をがら空きにするものがあるか」
彼は、第三の、そして最も狡猾な道を見出したのだ。
マーカスは、再び重臣たちを呼び戻した。彼の纏う空気が、先ほどまでとは明らかに変わっているのを、誰もが感じ取った。
「皆、聞け。我がマーカス家の総力を挙げ、出陣する」
その言葉に、老臣コンラートは安堵の表情を浮かべ、三男エルドリッジは歓喜の声を上げようとした。だが、辺境伯の次の言葉が、その両方を凍りつかせた。
「我らが向かうは、北ではない」
彼は、地図の一点を、その皺深い指で力強く指し示した。
「国王陛下は、国の全てを賭して、北の脅威と戦っておられる。その間、誰がこの王国の心臓部を守るのだ? 陛下不在の王都周辺で、魔王の息のかかった者どもや、不心得な盗賊どもが好き放題することを、このマーカスが見過ごすと思うか?」
その声には、大義名分という名の、厚い仮面が被せられていた。
「我らは、陛下に代わり、王国の中枢をお守りするのだ! 全軍、直ちに出陣! 目標、大河アデルに架かる『王の橋』、及び、ミレイユ平原の王家直轄大食糧庫! これらを『保護』下に置き、王国の生命線を、あらゆる脅威から守り抜け!」
その宣言に、議場は静まり返った。誰もが、その言葉の真の意味を理解したからだ。
それは、救援ではない。裏切りですらない。
王国の危機を大義名分とした、最も狡猾な「国内制圧」。
アレクシオスの退路と補給路を断ち、彼を生かすも殺すも、全てを自分の掌中に収めようという、あまりにも悪辣な策略だった。
「急ぎ、王都のイデン宰相に使者を送れ。『辺境伯エルンスト・フォン・マーカス、国王陛下のご武運と、王国の安寧のため、不肖ながら、王国の心臓部をお預かり仕る』…とな。あの古狸なら、わしの真意を理解し、迂闊な真似はすまい」
辺境伯の、その、あまりにも狡猾な宣言に、息子のエルドリッジは、歓喜の表情を浮かべ、軍師は、その深謀遠慮に、戦慄を覚えた。
だが、その中で、ただ一人、顔面蒼白となって、震えている老臣がいた。
コンラート卿だった。
「お、お待ちくだされ、マーカス様!」
コンラート卿は、辺境伯の前へと、よろめくように進み出た。
「北では、国王陛下が、我らが王国を守るため、その命を賭しておられる! その背後から、剣を突き立てるがごとき、この、あまりにも卑劣な行い……! それが、建国以来、王家を支え続けた、我がマーカス家の、誇りある道と、本気で、お考えか!」
その声は、悲痛な叫びだった。
しかし、マーカス辺境伯は、動じない。
その老獪な瞳で、長年連れ添った忠臣を、冷ややかに見下ろした。
「誇りでは、腹は膨れんよ、コンラート。これは、我が家が、この乱世を、生き残るための、最善の策だ」
「生き残る、ではありませぬ! これは、ただの、火事場泥棒! 騎士の風上にも、置けぬ、恥知らずの行いにございますぞ!」
「……もうよい。下がれ」
辺境伯の、その、冷たい一言に、コンラート卿は、全てを悟った。
もはや、言葉では、この主君を、止めることはできない、と。
彼は、ゆっくりと、しかし、覚悟を決めた動きで、自らの腰に佩いていた、長剣を、抜き放った。
「なっ!? コンラート卿、貴殿、正気か!」
エルドリッジが、驚愕の声を上げる。
だが、コンラート卿は、その剣を、主君には向けなかった。
彼は、その切っ先を、自らの、皺深い、首筋に、ぴたり、と当てたのだ。
部屋の空気が、凍りつく。
「マ、マーカス様……!」
コンラート卿の声は、震えていた。
だが、その瞳には、最後の、そして、絶対的な、忠義の光が宿っていた。
「どうか、ご再考を! この、卑劣な道をお進みになるというのであれば、このコンラート、もはや、貴方様にお仕えすることはできませぬ! この場で、自らの命を絶ち、我がマーカス家の、最後の忠義と、させていただきまする!」
それは、老騎士が、その生涯の全てを賭けた、主君への、最後の諫言だった。
誰もが、固唾をのんで、辺境伯の反応を見守った。
マーカス辺境伯は、表情一つ変えなかった。
彼は、ただ、静かに、自らの首に剣を当てる、最も忠実であったはずの家臣を、まるで、道端の石ころでも見るかのような、冷たい目で見つめていた。
そして、言った。
「……好きにせよ」
その声には、何の感情も、込められていなかった。
「だが、覚えておけ、コンラート。貴様一人の命で、我が家の、そして、この私の、決断が、揺らぐことなど、ありえぬとな」
「…………っ!」
コンラート卿の目から、光が消えた。
忠義も、誇りも、自らの命の価値も、全てが、主君の、その、たった一言で、無に帰した。
彼の、震える手から、剣が、カラン、と、乾いた音を立てて、床に落ちた。
老騎士は、その場に、力なく、崩れ落ちた。
マーカス辺境伯は、そんな彼に、一瞥もくれることなく、他の家臣たちに、命じた。
「出陣の準備を、急がせよ」
その背中は、もはや、ただの、野心ある地方領主ではなかった。
自らの目的のためには、長年の忠臣の命すらも、躊躇なく切り捨てる、冷酷非道な、修羅の姿、そのものだった。
◇
その日の午後。
城塞都市アルツフェルトの城門が、重々しい音を立てて開かれた。
マーカス辺境伯家の紋章旗が、風にはためく。
その下に、整然と隊列を組んだ辺境伯軍が、地響きを立てて進み始めた。
彼らの進む先は、助けを求める友軍がいる、極寒の北ではない。
味方であるはずの王が、その全てを賭けて守ろうとしている、祖国の、暖かく、そして無防備な心臓部だった。
獅子が北の狼と戦う間に、巨大な毒蛇が、その巣穴へと、静かに、しかし確実に入り込もうとしていた。




