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第四十一話:老獅子と駄々っ子、一年半の攻防

 

 アレクシオス国王率いる先遣隊の北への強行軍は、困難を極めていた。


 雪混じりの冷たい風が容赦なく吹き付け、ぬかるんだ道が兵士たちの体力を奪っていく。


 誰もが口数を減らし、ただひたすらに、己の使命と王の覚悟を胸に、足を前に進めていた。


 ただ一人、その男を除いては。


「おい、バルカスのジジイ! いい加減にしろよな! これは契約違反だぞ! 俺は『勇者』として召喚されたんだ! なんで兵卒と同じレーションを食って、この泥道を歩かされなきゃなんねーんだよ! 人権侵害だ! 王様に訴えてやる!」


 我らが勇者、田中樹は、この一年半という月日を経て、単なる駄々っ子から、妙な知識で武装した、より厄介な駄々っ子へと進化していた。


 彼の不平不満は、もはや芸術の域に達しつつあり、そのレパートリーは尽きることを知らない。


 それに対するバルカスの反応もまた、一年半の間に洗練されていた。


 当初の激しい怒りは、長い年月を経て、深く、そして重い、鋼のような諦観へと変わっていた。


「やかましい、この大馬鹿者が! 貴様の言う『ジンケン』とやらが、魔王の爪牙そうがを防いでくれるのか! 兵と同じ釜の飯を食い、同じ泥にまみれてこそ、兵の痛みを知り、兵を導くことができるのだ! 勇者である前に、まず一人の人間として、己の足で立つことを覚えんか!」


「うっせーな! 俺は特別なの! スペシャルなの! そもそも、俺が本気出せば、こんな道、一瞬でひとっ飛びだし!」


「ほう、では、その『本気』とやらを今すぐ見せてみよ! まさかとは思うが、口だけではあるまいな?」


「ぐぬぬ……そ、それは、まだ魔力を温存してるだけで……」


 このやり取りは、もはや先遣隊の名物詩となっていた。


 兵士たちは、最初は驚き、次に呆れ、今では「また始まったか」と、戦場の緊張を和らげる一服の清涼剤として、生温かい目で見守るようになっていた。


 この一年半、来る日も来る日も繰り広げられた光景。これが、老獅子と駄々っ子の、日常だった。


 その、いつもの日常が破られたのは、斥候からの緊急報告が届いた時だった。


「敵襲! 前方の森に、魔物の斥候部隊! 数はおよそ五十!」

 その言葉に、兵士たちの顔に緊張が走る。


 隊列の若い兵士の一人が、恐怖に顔を青くして叫んだ。


「こんなところに魔物が!? まさか、エルヴァン要塞が陥落したのか!?」


 兵士たちの間に、動揺がさざ波のように広がる。


 その不安を、バルカスの一喝が断ち切った。


「怯むな! いや、この程度なら、要塞をすり抜けてくることは珍しくない! 竜哭山脈には無数の獣道があり、空を飛ぶ畜生もおるからの。おそらくは、山脈を越えてきた少数の手練れが、この辺りのゴブリンどもを扇動したのだろう。だが、油断はするな! 数は力だ! 全軍、戦闘準備! 陣形を組め!伝令は本体の陛下に急ぎ知らせい!」

 バルカスの経験に裏打ちされた冷静な声に、兵士たちは落ち着きを取り戻し、すぐさま臨戦態勢に入る。



「ひいっ! 魔物!? マジかよ、聞いてねーぞ!」

 樹は、さっきまでの威勢はどこへやら、顔面蒼白になってバルカスの背後に隠れようとする。


「抜かせ! 貴様も戦え、勇者殿! 貴様が貯蔵していた、あの大量の干し肉を積んだ荷馬車が、今、最も狙われやすい位置にあるぞ!」

 バルカスの言葉に、樹の顔色が一変した。


「な、なんだとー!? 俺の…俺のスペシャルビーフジャーキーがぁぁぁっ!」


 彼の反応は、兵士たちの危機よりも、自らの食料の危機に対しての方が、遥かに迅速で、そして切実だった。


 案の定、森から現れたオークやゴブリンライダーの混成部隊は、最も手薄に見えた補給部隊の荷馬車を狙って殺到してきた。


「させるか!」

 ロムグールの騎士たちが、勇敢に立ちはだかる。


 だが、敵の勢いは強い。


 一匹の巨大なオークが、騎士たちの防御を突破し、樹の干し肉が積まれた荷馬車へと、その巨大な棍棒を振り上げた!


「俺の非常食がああああああっっ!!」


 その瞬間、樹は動いた。


 もはや恐怖も、勇者としての体面もかなぐり捨て、ただ己の食欲という最も純粋な衝動に突き動かされて。


 彼は、足元に転がっていた手頃な大きさの石を掴むと、オークに向かってではなく、荷馬車の車輪のすぐ手前の地面に向かって、全力で投げつけたのだ!


 石は、狙い通り(?)荷馬車の車輪のすぐ近くの凍った地面に当たり、甲高い音を立てて跳ね返った。


 そして、その跳ね返った石が、信じられない軌道を描き、棍棒を振り上げていたオークの眉間に、クリーンヒットした!


「グェッ!?」


 巨体を誇るオークは、予期せぬ一撃に目を白黒させ、その場で前のめりに昏倒した。


 指揮官格を失った魔物の斥候部隊は、一瞬にして混乱に陥り、その隙を突いた騎士団によって、あっという間に掃討された。


 後に残されたのは、静まり返った雪道と、呆然とする兵士たち。


 そして、荷馬車に駆け寄り、必死の形相で自分の干し肉の安否を確認している、一人の勇者の姿だった。


「す、すげえ……」


「勇者様は、石つぶて一つで、あの巨大なオークを…」


「なんという、神業…!」


 兵士たちは、樹の真の動機など知る由もなく、ただただ、その「奇跡」に畏怖と尊敬の念を深めていた。


 バルカスは、その一部始終を見ていた。


 彼は、ゆっくりと樹の元へ歩み寄る。


 その顔には、怒りも、呆れもなかった。ただ、途方もない、魂の底からの疲労だけが浮かんでいた。


 彼は、干し肉の数を数えて安堵のため息をついている樹の肩を、無言で掴んだ。


「……貴様は、本当に……」


 一年半分の、ありとあらゆる感情が凝縮されたような、深いため息。


「もはや、天災か何かだな」


 そう呟くと、バルカスは、もはや殴る気力すら失せたように、樹の襟首を掴んで、行軍の列へと引きずっていく。


「離せジジイ! 俺は手柄を立てたんだぞ! 今夜の晩飯はステーキにしろ!」

「黙って歩け、この穀潰しが。わしは陛下に報告してくる……」


 その光景は、彼らにとって、そしてロムグール先遣隊にとって、いつもと何ら変わらない、戦場での日常の一コマでしかなかった。

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