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幕間:王都の野良猫

 

 マーカス辺境伯の独断専行を退け、王都カドアテメに、束の間の平穏が戻っていた、ある日の午後。


 国王アレクシオスは、その執務室で、フィンがまとめた、王都の治安報告書に、深く、眉をひそめていた。


「……ひどいものだな、これは」


 報告書には、スラム街を中心に、犯罪発生率が急増していること、そして、その背後で、正体不明の「影の組織」が、暗躍していることが、記されていた。


「ああ。衛兵たちも、必死に動いちゃいるが、連中は、ドブネズミのように、狡猾で、尻尾を掴ませねえ。特に、この、王都で最も巨大なスラム『澱み(よどみ)』は、もはや、法の支配が及ばない、独立国家みてえなもんだ」

 フィンは、地図の一点を指差した。


「……その『澱み』を、牛耳っているのは、誰だ?」


「それが、妙な話でな。いくつかの、チンピラ崩れの集団や、悪徳商人が、縄張りを主張しちゃいるが、本当に、このスラムの『空気』を支配しているのは、ただの、子供の盗賊団らしい」


「子供?」


「ああ。リーダーは、まだ、十代半ばの、小娘だという話だ。だが、その統率力と、情報網は、そこいらの、大人の組織を、遥かに凌駕する、と。誰も、その顔を知らねえ。ただ、『野良猫』とだけ、呼ばれてる」


「……面白い」


 アレクシオスは、その報告に、口の端を上げた。


「フィン。供を、数人だけ付けろ。―――王の、お忍び視察だ。その『野良猫』とやらを、この目で、見てみたい」


 ♢


 その日の夕暮れ。


 アレクシオスは、上等な商人の服に身をやつし、フィンと、数名の護衛だけを連れて、スラム街「澱み」に、足を踏み入れた。


 腐った食べ物と、汚水の匂い。


 人々の、希望を失った、虚ろな目。


 そこは、同じ王都とは、到底、思えない、別の世界だった。


 アレクシオスは、わざと、護衛から少し離れ、金持ちの商人のふりをして、一人で、薄暗い路地裏へと入っていった。


(……来たな)


 彼は、複数の、小さな気配が、自分を、まるで獲物を狙う獣のように、取り囲んでいるのを、肌で感じていた。


 その瞬間。


 ドン、と。


 背後から、走り込んできた子供に、わざとらしく、突き飛ばされた。


「わっ! す、すみません!」

 子供が、謝るふりをして、アレクシオスに、しがみつく。


 その、ほんの一瞬の隙。


 別の子供が、まるで風のように、彼の横をすり抜け、その腰に下げていた、重い金貨が入った革袋を、鮮やかに、抜き取っていった。


 さらに、別の方向からは、屋根の上から、小石が投げられ、護衛たちの注意を、一瞬だけ、逸らす。


 全てが、計算され尽くした、完璧な連携。完璧な「仕事」だった。


 革袋を盗んだ子供は、そのまま、迷路のような路地裏へと、消えていく。


 アレクシオスは、追いかけようとはしなかった。


 ただ、その、見事な手際に、感嘆の息を漏らしていた。


(……あの小娘。ただの子供じゃないな。あれは、軍隊の指揮官に匹敵する、天性の将才だ)


 アレクシオスは、財布を盗まれた、哀れな商人を装い、わざと、途方に暮れたふりをして、その場に立ち尽くした。


 やがて、一人の、みすぼらしい格好をした少年が、彼に、おずおずと、話しかけてきた。


「……旦那。財布、スラれちまったのかい? 俺、犯人を知ってるぜ。情報料をくれるなら、教えてやってもいい」


 その少年の目には、アレクシオスを試すような、鋭い光が宿っていた。


 アレクシオスは、笑みを浮かべ、懐から、一枚の銀貨を取り出した。


「案内してくれ。お前たちの、ボスに、会わせてほしい」



 ♢



 少年が案内したのは、打ち捨てられた、古い倉庫だった。


 中には、十数人の子供たちが、息を潜めて、アレクシオスを待ち構えていた。


 その視線は、飢えた獣のように、鋭い。


 そして、その中央。ガラクタを積み上げて作った、粗末な椅子の上に、一人の少女が、ふてぶてしい態度で、座っていた。


 痩せてはいるが、その双眸には、どんな大人をも射すくめるような、強い意志の光が宿っている。


 彼女こそが、このスラムの子供たちを束ねる、「野良猫」ファムだった。


「……何の用だい、金持ちの旦那」

 ファムは、アレクシオスが盗まれた革袋を、指先で弄びながら、言った。


「返してほしけりゃ、それ相応の、身代金ってもんが、必要になるけどね」


「いや」アレクシオスは、静かに首を横に振った。


「それは、くれてやる。それよりも、お前に、一つ、取引を持ちかけに来た」

 アレクシオスは、ゆっくりと、彼女に近づいた。


「―――お前の、その『力』を、俺に貸せ。その、見事な統率力と、このスラムに張り巡らされた、情報網。その全てを、俺のために使え」


「……はあ? 何言ってんだ、てめえ。馬鹿じゃねえの」

 ファムは、鼻で笑った。


「その代わり」アレクシオスは、続けた。


「俺は、お前たち、このスラムの子供たち全員が、毎日、腹一杯、温かい飯を食えるだけの、安全な『居場所』と、真っ当な『仕事』を、与えてやる。……この国の、王として、な」

 その、静かだが、有無を言わせぬ響き。


 そして、その身体から自然と放たれる、隠しようのない、王者の覇気。


 ファムは、息を呑んだ。


 彼女は、目の前の、ただの商人の格好をした男が、あの、辺境伯の企みを挫いた、新しい王、アレクシオス・フォン・ロムグール。


 その人であることを、直感的に、理解した。


「……王様が、なんで、こんな、ドブみてえな場所に……」


「お前を、スカウトしに来た、と言ったはずだ」

 アレクシオスは、ファムの目を、まっすぐに見つめた。


「俺は、この国を、変える。そのためには、光だけでなく、影の力も必要だ。お前は、その、俺の『影』の、筆頭となれ。」

 ファムは、ただ、呆然と、アレクシオスを見つめていた。


 彼女は、これまでの人生で、貴族や、役人たちから、数えきれないほどの、侮蔑と、差別の視線を、浴びてきた。


 だが、目の前の王は、違う。


 その瞳は、自分を、ただの、スラムの盗賊としてではない。


 一人の、力ある人間として、対等に、見ている。


 そして、その力を、必要としている。


「……ふん」

 やがて、ファムは、長い沈黙を破り、不敵な笑みを、その口元に浮かべた。


「面白い。あんた、面白いぜ、王様。いいだろう。この、野良猫の爪と牙、あんたに、貸してやるよ。……私の、私の名前はファム」

 彼女は、立ち上がると、アレクシオスに向かって、初めて、深く、その頭を下げた。


「その代わり、約束は、守ってもらうからな。あいつらに、腹一杯の飯を食わせるっていう、その約束は、な」

 こうして、王と、スラムの野良猫は、固い、そして、誰にも知られることのない、盟約を結んだ。


 アレクシオスは、彼女に、最初の任務を与える。


「お前の、その情報網を使い、王都の裏社会で暗躍する、『影の組織』の、その、正体を、一つ残らず、俺の元へ持ってこい」

 彼女は、この後、王直属の、影の刃となる。


 大陸に巣食う、より巨大な闇を狩るための、最も鋭く、そして、最も危険な刃に。

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