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第二十九話:勇者の選択、そして帝国の誤算


 時が、止まったかのように感じられた。


 大陸の覇者、ガルニア帝国が誇る天穹宮の、広大無辺な謁見の間。


その中心で、ロムグール王国という小国の、そして恐らくはこの世界の運命が、一人の少年の、食欲という最も原始的な欲求に委ねられていた。


 バルカスは、固く目を閉じた。


もはや、見るに忍びなかった。


アレクシオス国王陛下から託された、このあまりにも重い責務。


「何があっても、樹が皇帝を殴ったり、国宝を食べたりしないよう、命に代えても見張っていてくれ」。その言葉が、今や空しく響く。


国宝を食べるどころか、国そのものを滅ぼしかねない選択を、この小僧は今、まさにしようとしているのだ。

 自身の半生を捧げたロムグール王国の名が、大陸中の物笑いの種となり、地に堕ちる光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


(陛下……申し訳ございません。この老骨、もはや万策尽きました。せめて、この後の辱めからは、自らの剣で……)


 そこまで考えた時、謁見の間に、帝国貴族たちの、やはりな、とでも言いたげな、安堵と嘲りの混じったため息が、波のように広がった。


 バルカスが、恐る恐る目を開けると、そこには、想像通りの、いや、想像を遥かに超える絶望的な光景が広がっていた。


 勇者、田中樹の手は、一切の迷いなく、ステーキが乗った盆を、その両手でがっしりと掴んでいたのだ。


「す……すげえ……! これが、帝国のステーキ……! 輝いてやがる……! 俺のいた世界の、どんな高級店の肉より、美味そうだ……!」

 樹は、震える手でステーキの皿を自分の顔の前へと掲げ、恍惚とした表情を浮かべている。


その瞳は、肉汁滴る芸術品のようなステーキに完全に釘付けだ。


その姿は、もはや勇者でも聖者でもなく、ただひたすらに、目の前の食欲という本能に忠実な、一匹の飢えた獣だった。


 玉座の皇帝コンスタンティンの口元に、満足げな笑みが深く刻まれた。


「やはりな」と、その目が雄弁に語っていた。


傍らに控える帝国貴族たちは、もはや侮蔑を隠そうともせず、扇で口元を隠しながら、あるいはあからさまに鼻で笑いながら、この小国の使節団が演じる滑稽な茶番劇の結末を、心ゆくまで楽しんでいた。


 だが、次の瞬間。樹は、誰もが予想しなかった行動に出た。


 彼は、そのステーキをすぐには口に運ばず、ちらり、ともう一方の盆に乗った呪いの宝玉に目をやったのだ。


「……でもなあ。このステーキ、すっげー美味そうだけど、こんなデカいと、食ってるうちに冷めちまうよな…。それは絶対に避けたい……。もったいねえ……。ん?」

 樹の視線が、ふと、もう一方の盆の上にある、禍々しく紫黒に光る宝玉に向けられる。


「……あの黒い石、なんかピカピカしてんな。光るもんってのは、大体、熱いもんだろ? 白熱電球とか、コンロの火とか。ってことは、あれ、すげー熱いんじゃね? まるで、高級レストランにある、鉄板焼きのプレートみたいに!」


 樹の、あまりにも単純で、そして致命的に間違った思考回路が、一つの結論を導き出した。


「そうだ! あのでっけえ鉄板…じゃなくて石の上でステーキを食えば、ずっとアツアツのままじゃん! 俺って、やっぱ天才!」


「「「…………は?」」」


 謁見の間の、全ての人間が、再び思考を停止させた。


 皇帝も、貴族たちも、バルカスも、彼が何を言っているのか、一瞬、理解ができなかった。


ステーキを、温める? あの、高位の神官ですら触れることを躊躇う、呪いの根源で?


(……まて。まてまてまて。今、この小僧は、何と言った……? ステーキを……温める……だと……?)


 バルカスの脳裏が、混乱で真っ白になる。絶望の底にいたはずが、あまりにも突飛な、あまりにも理解不能な事態の展開に、感情がついていかない。


 そして、樹は、その天才的な発想を、すぐさま実行に移した。


 彼は、大切そうに持っていたステーキの皿を、こともなげに、呪いの宝玉の上へと、そっと置いたのだ。


まるで、それが当然のプレートウォーマーであるかのように。


 ジュウウウウウウウウッッ!!


 次の瞬間、ステーキと宝玉が接触した箇所から、肉が焼ける音とは明らかに違う、おぞましい不協和音が響き渡った!


 呪いの宝玉が、まるで聖水でも浴びせられたかのように、あるいは天敵に遭遇したかのように、激しく紫黒の光を明滅させ始める!


宝玉に凝縮されていた純粋な呪いのエネルギーが、純粋で低俗な「食欲」と、聖性とは無縁な「ステーキの脂」という、あまりにも想定外な不純物と接触し、その安定した構造を維持できなくなったのだ!


「キシャアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」


 宝玉から、耳を劈くような断末魔の叫びが迸る!


それは、土地に溜まった怨念を増幅させていた呪いの核が、今、最も冒涜的かつ理解不能な形で浄化されようとしている、苦悶の悲鳴だった。


 謁見の間を吹き荒れていた、肌を刺すような邪悪なオーラが、嵐のように宝玉へと吸い込まれていく。


そして、ステーキの肉汁と脂が、その表面でバチバチと激しく弾け飛び、紫黒の煙を上げた!


「うわっ! なんだなんだ!? 俺のステーキが、なんか、すげー勢いで焼けてる! ウェルダンになっちまうだろ! 俺はミディアムレアが好きなんだよ!」

 樹が、自分のステーキの焼き加減を本気で心配して叫ぶ。


その声は、この世の終わりのような悲壮感に満ちていた。


 ピシッ……!


 宝玉の表面に、一本の亀裂が走った。


 ピシ、ピシピシッ!


 その亀裂は、蜘蛛の巣のように、瞬く間に宝玉全体へと広がり、そして―――


 パリンッ!!!!


 甲高い、ガラスが砕けるような音と共に、呪いの宝玉は、その禍々しい光を完全に失い、ただの、ひび割れた黒い石ころへと成り果てて、床に転がった。


 後に残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂に包まれた謁見の間と、呆然と立ち尽くす全ての人々。


 そして、自分のステーキが、宝玉の断末魔と共にひっくり返り、床に落ちてしまったのを悲しげに見つめる、一人の勇者の姿だけだった。

「……あ……ああ……俺の……俺の帝国初ステーキが……。まだ食ってないのに……」


 皇帝コンスタンティンは、玉座から立ち上がっていた。


その顔からは、もはや全ての表情が抜け落ち、信じられないものを見たという、純粋な驚愕だけが浮かんでいる。


彼の長い治世の中で、これほどまでに理解の範疇を超えた出来事は、かつて一度としてなかっただろう。


 罠は、完璧だったはずだ。


 だが、その完璧な罠は、それを罠とすら認識しない、あまりにも規格外な「愚かさ」の前に、意味をなさず、それどころか、帝国が長年解決できなかった呪いの元凶まで、副産物として消滅させてしまったのだ。


「……ば、馬鹿な……。あれは、我が国の辺境に眠るいにしえの呪詛を、その、呪いの源たる宝玉が……今……ステーキによって……?」

 皇帝の口から、か細い、うわごとのような声が漏れた。


その言葉は、彼がこの事態をどうにか理解しようと、必死に思考を巡らせた結果だった。


 バルカスは、開いた口が塞がらず、ただ目の前の信じがたい光景と、床に落ちたステーキを本気で悲しんでいる樹の姿を、交互に見比べていた。


(……何が……一体、何が起きたのだ……? 勇者殿は……ただ、ステーキを温めようと……。それだけで、あの呪いを……? これが……これこそが、アレクシオス様の言っておられた『規格外』の力だと……いうのか……!? 我々の常識など、この御仁の前では、何の意味も持たぬと……! まさに、神の御業か、あるいは悪魔の戯れか……!)


 やがて、皇帝は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、再び玉座に腰を下ろした。


そして、深いため息をつくと、バルカスに向かって言った。


その声には、先ほどまでの威圧感は消え失せ、代わりに、得体の知れないものへの、畏怖と、そして深い疲労の色が濃く滲んでいた。


「……ロムグールの使節団よ。いや、バルカス殿。……『査定』は、終わりだ。そなたたちの『勇者』が、我らの理解を、そして常識を、遥かに超えた存在であること……認めよう」


「……はっ」


「我がガルニア帝国は、貴国が提唱する『対魔王大陸戦略会議』へ、正式に代表団を派遣することを、ここに約束する。……細かい要求は、全て撤回する。ただ、一つだけ、こちらからもお願いがある」


「……と、申されますと?」


「―――その勇者を、一刻も早く、我が帝都から連れ出してはくれまいか」


 その言葉は、もはや懇願に近かった。


 こうして、ロムグール王国とガルニア帝国の、存亡を賭けた外交戦は、一人の役立たずな勇者が起こした、史上最も愚かで、そして最も奇跡的な「ステーキ事件」によって、誰も予想しなかった形で、ロムグール王国の大勝利に終わったのだった。


 謁見の間を退出するバルカスたちの背後で、樹の悲痛な叫び声だけが、いつまでも響いていた。


「だから、俺のステーキは!? 新しいの、出してくれんだよな!? おい、聞いてんのか、皇帝のジジイ! 約束がちげーじゃねーか!」


 バルカスの胃は、もはや痛みを感じることをやめ、ただ静かに、この世界の理不尽さと、そして自分たちの王の、あまりにも底知れない先見の明(という壮大な勘違い)に、打ち震えているだけだった。

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やっぱ選ばれたゆうしゃはモノが違うぜっ!(白目) もうステーキ一枚分は働いただろうから食べさせてあげてほしい
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