第二十七話:帝都への道、試される王の威光(と勇者の胃袋)
「それより、腹減ったんだけど。この国で一番美味いレストランに案内しろよな! 特上のステーキ、あるんだろ?」
ガルニア帝国国境関所の、張り詰めた空気の中で放たれた我らが勇者、田中樹のその一言は、全ての者の思考を数秒間、完全に停止させた。
帝国側の文官は、その完璧に整えられた表情筋をひくつかせ、目の前の寝癖頭の少年が、ロムグール王国が国家の威信をかけて送り込んできた『正使』であるという事実を、必死に飲み込もうとしているようだった。
背後に控える銀甲冑の帝国騎士たちからは、カチャリ、という剣の柄に手をかける音と共に、あからさまな殺気が立ち上る。
「……ッ、この、無礼者がああああっ!」
最初に我に返ったのは、バルカスだった。
彼は、俺が帝国で事を起こさぬよう見張れと命じたその舌の根も乾かぬうちに、特大の爆弾を投下した樹の側頭部に、ゴッ!と音を立てて渾身の拳骨を叩き込んだ。
「いってええええ! なんだよジジイ! 俺は腹が減ったって事実を述べただけだろ!」
「黙らんか、この大馬鹿者が! こちらはガルニア帝国騎士団の皆様であるぞ! その御前で、なんたる言い草か!」
バルカスは、帝国文官に向き直り、これ以上ないほど深々と頭を下げた。
その背中からは、滝のような冷や汗が流れているのが、俺の位置からでも見て取れた。
「も、申し訳ございません、閣下! 我が国の勇者は、その……長旅の疲れで少々錯乱しているようでして……! 決して、貴国を、そして皇帝陛下を侮辱する意図など、毛頭ございません! どうか、どうかご容赦を!」
必死の弁明。
だが、帝国文官の目は、氷のように冷ややかだった。
「……ふん。ロムグールの勇者は、よほど独創的な流儀をお持ちのようだ。よろしい。その『歓迎』、確かに受け取った。国王アレクシオス殿にも、そうお伝えしよう。―――使節団ご一行を、帝都まで『丁重に』護衛せよ!」
文官のその命令に、帝国騎士団は一糸乱れぬ動きで俺たちを取り囲んだ。
それは、もはや「護衛」というよりも、囚人を移送するかのような、威圧的で、そして一切の逃走を許さないという鋼の意志を感じさせるものだった。
帝都までの旅路は、まさに針の筵だった。
俺たちの馬車の前後左右を、常に数十騎の帝国騎士が固めている。
彼らは一言も発しないが、その視線は常に俺たち、特に樹の動向を厳しく監視していた。
「ちぇっ、なんだよこの道、ガタガタじゃねーか。ロムグールの街道の方がよっぽどマシだぜ」
「この国のパン、パッサパサだな。王様の城で食ったやつの方が百倍美味い」
樹は、そんな監視の目など全く意に介さず、不平不満を垂れ流し続けている。
その度に、バルカスの胃がキリキリと痛む音と、俺の胃薬が減っていく音が、馬車の中に響き渡った。
だが、奇妙なことも起きていた。
俺たちが通過する町や村では、どこから噂を聞きつけたのか、多くの民衆が沿道に集まり、遠巻きにこちらを見つめていたのだ。
「あれが……ロムグールの聖勇者様……」
「我らをお救いくださるという……」
彼らの瞳には、恐怖と、そしてわずかな希望の色が浮かんでいた。
帝国政府の公式な発表はなくとも、「聖勇者」の伝説は、着実にこの大国の民の心にも浸透しつつあったのだ。
事件が起きたのは、帝都まであと数日という、とある宿場町でのことだった。
その町は、奇妙な活気のなさに包まれていた。畑の作物は枯れ、家々の窓は固く閉ざされ、道行く人々の顔にも生気がない。
「……閣下。この町は、ここ数ヶ月、原因不明の『枯れ病』に悩まされておりまして。作物は育たず、井戸水も濁り、人々は衰弱していく一方で……。帝国の高名な魔導師様方も、匙を投げたとか」
護衛の帝国騎士の一人が、バルカスにそう説明した。
その声には、憐れみと同情の色が滲んでいる。
(原因不明の病……。あるいは、これも魔王復活の余波か? 終焉の谷から漏れ出した邪気が、大地を汚染しているのやもしれん)
俺たちが町の広場を通過しようとした、その時だった。
「おお……! 聖勇者様! どうか、どうか我らを、この土地をお救いください!」
どこで聞きつけたのか、町の人々が、堰を切ったように俺たちの前に殺到し、ひざまずいて祈り始めたのだ。
「待て、下賤の者ども! 使節団の御一行に近づくな!」
帝国騎士たちが、慌てて彼らを制止しようとする。
だが、その混乱を、我らが勇者が見逃すはずもなかった。
「うおっ! なんだなんだ!? 俺のファンか!? すごいな、この国でも俺の人気は絶大じゃねーか!」
樹は、状況を完全に誤解し、バルカスの制止を振り切って、民衆の中へと飛び出していった。
「よーしよし、お前ら、俺に会えて嬉しいかー!? サインでもしてやろうか!」
樹は、そう言って、枯れた畑の土を指差して不満げに言った。
「なんだこの畑、カッサカサじゃねーか。これじゃ美味い野菜も育たねえだろ。もっとこう、ちゃんと水とかやれよな!」
そして、あろうことか、彼は足元の枯れ草を引っこ抜き、近くにあった濁った井戸の水を無造作に手ですくうと、その枯れ草にジャバジャバとかけ始めたのだ。
「ほら、水やりはこうやって、愛情を込めてだな……って、うわ、この水、なんか泥臭くてマズそう!」
あまりの理不尽な行いと、あまりの場違いな発言。
バルカスは天を仰ぎ、俺は胃を押さえた。
だが、次の瞬間。その場にいた誰もが、我が目を疑う光景を目撃することになる。
樹が水をかけた、その枯れ草の根元から。
そして、彼が踏みしめた、死んだはずの大地から。
まるで、永い眠りから覚めたかのように、小さな、本当に小さな、しかし確かな生命力に満ちた、緑色の若芽が、ゆっくりと、しかし力強く顔を覗かせたのだ。
「「「…………え?」」」
帝国騎士も、町の人々も、そしてバルカスまでもが、言葉を失ってその光景に釘付けになる。
「……今……何が……?」
「芽が……死んだ大地から、芽が出たぞ……!」
「聖勇者様が……奇跡を……!」
民衆から、嗚咽と、そして歓喜の声が爆発的に湧き上がる。
当の田中樹は、自分が何を引き起こしたのか全く気づかず、「あれ? なんか芽が出てきたな。まあ、俺の愛情が通じたってことか! やっぱ俺って神!」と、どこまでもポジティブに勘違いし、胸を張っていた。
その一部始終を目の当たりにしていた帝国文官は、馬上で顔面蒼白になり、震える手で魔法伝書の水晶を取り出した。
彼が帝都へ送る報告は、もはや外交儀礼に関するものではなくなっていただろう。
「……使節、イトゥキ・ザ・ブレイブハート。その言動、愚昧にして無礼千万。されど……その存在は、死せる大地を蘇らせる、神の如き奇跡を顕現せしむ。……理解不能。解析不能。……我が帝国の、想定を……遥かに、超えている……」
バルカスは、目の前の信じがたい光景と、一人で得意満面になっている勇者の姿を交互に見比べ、もはや怒る気力も、呆れる気力も失せ、ただただ、この世界の理不尽さに打ちひしがれるように、その場に立ち尽くしていた。
こうして、ロムグール王国使節団一行は、帝国の民衆に「生ける伝説」としてその名を刻みつけながら、ついに、大陸最強国家ガルニア帝国の心臓部、壮麗なる帝都の巨大な城門へと、その歩みを進めるのだった。
彼らを待ち受けるのは、皇帝の叡智か、それとも更なる罠か。
そして、俺の胃は、果たして帝都まで持つのであろうか。戦いは、まだ始まったばかりだ。




