第二十六話:帝国への使者、その名は『勇者』
「―――帝国への使節団を編成する。そして、その正使を、勇者殿に任せる」
俺、アレクシオス・フォン・ロムグールのその言葉に、国王執務室の空気は、まるでリリアナの氷魔法でもって瞬間凍結させられたかのように、完全に静止した。
リリアナ、バルカス、そしてフィン。
三者三様に、信じられないものを見る目で俺を凝視している。
「へ、陛下……今、何と……?」
リリアナの声が、か細く震えた。
「聞き間違いではございませぬか? あの勇者殿を……正使として、あのガルニア帝国へ、と……?」
バルカスの顔からは血の気が引き、その厳つい顔が蒼白になっている。
「王様、あんた……正気か?」
フィンが、心底呆れ返ったように、そしてどこか俺の精神状態を本気で心配するように言った。
「正気だとも。これ以上ないほど、な」
俺は、三人の動揺を意にも介さず、静かに、しかし強い意志を込めて続けた。
「帝国は、我が国の勇者を『査定』したいと言ってきた。ならば、その土俵に乗ってやる必要はない。こちらから、奴らの本拠地に、奴らが最も見たいであろう『勇者』という名の爆弾を、最高の形で送り届けてやるのだ」
「爆弾、でございますか!? まさにその通り! 陛下、お忘れではありますまいな!? 以前、帝国の特使ゲオルグ・フォン・ブラントが来訪した際、勇者殿は玉座の足元でいびきをかき、『ステーキをよこせ』と寝言を抜かしたのですよ! あの無礼極まりない姿を、帝国は既に知っております! その勇者を今、正式な使者として送るなど、帝国を、そして皇帝陛下を、これ以上ない形で侮辱する行為に他なりません! 即刻、開戦の口実を与えかねませぬ!」
リリアナが、血相を変えて訴える。
その通りだ。彼女の言うことは、外交の常識からすれば百パーセント正しい。
「左様。あの小僧を連れて行くだけでも頭痛の種だというのに、正使に据えるなど……。道中で何をしでかすか分からず、帝都に着く前に捕縛され、逆賊として処刑されても文句は言えませぬぞ!」
バルカスも、必死の形相で俺を諌めようとする。
「戦略的リスクが高すぎる」フィンが腕を組んで分析を始める。
「帝国側は、我々がまともな交渉を放棄したと判断し、より強硬な手段に打って出る可能性が飛躍的に高まる。成功確率、極めて低し。失敗した場合の国家的な損失、測定不能。はっきり言って、狂気の沙汰だ」
三者三様の、至極まっとうな反対意見。だが、俺は静かに首を振った。
「皆の言うことは、全て正しい。常識で考えれば、な。だが、帝国は、その『常識』の物差しで我々を測ろうとしている。だからこそ、その物差しを、こちらから叩き割ってやる必要があるのだ」
俺は、三人の前に立ち、その真意を語り始めた。
「第一に、情報戦の撹乱だ。帝国は、俺の変化と、勇者の存在に混乱している。ブラント特使は、だらしなく眠る勇者の姿と、我々が語る『聖勇者』の伝説とのギャップを理解できずに帰国したはずだ。そこへ、その理解不能な存在を『正使』として送り込む。奴らの諜報網は、俺の真意を探ろうと躍起になるだろうが、答えなど出るはずがない。なぜなら、俺自身も、あの勇者が何をしでかすか、全く予測できないのだからな。奴らの思考を、無意味な分析で麻痺させるのだ」
「第二に、民意を利用した内圧だ。王都での事件以降、『聖勇者』の伝説は、吟遊詩人や商人を通じて、既に大陸中に広まり始めている。帝国とて例外ではない。魔王の脅威に怯える帝国の民衆の前に、その『聖勇者』本人が姿を現したらどうなる? 帝国政府は、民が希望の象徴と見なし始めた存在を、無下には扱えまい。これは、帝国の内側から、奴らの足元を揺さぶるための布石だ」
「そして第三に、究極のブラフだ。奴らは、勇者を『査定』したいと言ってきた。ならば見せてやろう。我々が、その得体の知れない存在を、国家の使節団のトップに据えるほどに信頼し、そしてその力を全く恐れていないという、絶対的な自信をな。彼らが『常識外れの愚か者』と侮れば侮るほど、その裏にあるかもしれない『計り知れない力』への恐怖は増大する。彼らの疑心暗鬼を、極限まで煽り立ててやるのだ」
俺のその言葉に、三人は言葉を失っていた。
それは、あまりにも突飛で、危険で、そして常識からかけ離れた作戦だったからだ。
だが、その瞳の奥には、俺の狂気じみた策の奥にある、確かな勝機を、ほんの少しだけ感じ取ってくれたようだった。
「……陛下が、そこまでお考えの上であれば……」リリアナが、不安げに、しかし静かに頷く。
「……このバルカス、陛下のご覚悟、しかと受け止めました。この老骨、いかなる場所であろうと、お供つかまつります」
「へっ、面白え。どうせなら、とことん引っ掻き回してやろうぜ、王様。帝国の連中がどんな顔するか、見ものだな」フィンが、不敵な笑みを浮かべた。
「うむ。バルカス、貴殿には使節団の護衛責任者として、同行してもらう。頼む、何があっても、樹が皇帝を殴ったり、国宝を食べたりしないよう、命に代えても見張っていてくれ。我が国の未来もかかっているが、それ以上に俺の胃の未来がかかっている」
「……御意(胃の未来……?)」
「そして、ライアス」俺は、別室に控えていたライアスを呼び寄せた。
「貴殿には、王都に残ってもらう。そして、バルカス殿が不在の間、新生ロムグール騎士団の『総司令官代理』として、その全権を委ねたい。俺たちが帝国で事を構えている間、この国の守りを盤石にし、新兵たちを鍛え上げてくれ。国の守りを、貴殿に託す」
ライアスは、その重責に一瞬目を見開いたが、すぐに揺るぎない決意の瞳で、深く、そして力強く頷いた。
「はっ! このライアス、命に代えましても王都と騎士団をお守りいたします!」
当の田中樹は、この決定を聞いて狂喜乱舞した。
「マジで!? 俺が特命全権大使!? やったー! これで俺も世界のセレブの仲間入りだな! 帝国の姫、どんな子かなー! 俺のハーレムコレクションがまた増えるぜ!」
リリアナが、血の涙を流さんばかりの形相で、樹に一夜漬けの外交儀礼を叩き込もうとしたが、「俺、勇者だから、そういうの免除だろ? 俺流でいくから大丈夫だって!」の一言で、無惨にも砕け散った。
こうして、歴史上、最も無謀で、最も予測不能な使節団が組織された。
数日後。王都カドアテメの民衆は、この前代未聞の使節団を、熱狂的な歓声で見送った。
「聖勇者様、万歳!」「帝国の者どもに、真の正義をお示しください!」
民衆の純粋すぎる期待が、俺の胃に重くのしかかる。
◇
ガルニア帝国への道中、樹は案の定、やりたい放題だった。
「この街道、馬車が揺れてケツが痛え! 俺は勇者だぞ! もっとフカフカの絨毯を敷き詰めろ!」
「途中の村の宿屋、メシがマズい! ステーキ! ステーキを出せ!」
そのわがまま放題に、バルカスのこめかみの血管は常に脈打っていたが、立ち寄った村々で、彼の「聖勇者」の噂を聞きつけた民衆が、彼を一目見ようと集まり、病気の子供を抱いて祈りを捧げる者まで現れる始末。
樹は「おう、俺のファンか? よしよし」と勘違いして手を振るが、その無邪気な(無知な)姿が、かえって民衆には神々しく映ってしまうのだった。
数週間の地獄のような旅路の果て、使節団はついにガルニア帝国の帝都へと至る国境の関所にたどり着いた。
目の前に広がるのは、ロムグールの城壁とは比較にならない、天を突くほどの白亜の城壁と、威圧的に立ち並ぶ無数の監視塔。
そして、関所を守るのは、一糸乱れぬ動きを見せる、寸分の隙もなく磨き上げられた銀の甲冑に身を包んだ帝国騎士団。
その装備も練度も、ロムグールとは明らかに次元が違った。
「ロムグール王国からの使節団、ご苦労。……して、正使であるという『勇者』殿は、どちらにおられるかな?」
出迎えた帝国側の文官は、慇懃無礼な態度で、値踏みするようにこちらを見ていた。
その目には、小国の使者に対する侮りと、噂の「聖勇者」への好奇が入り混じっている。
バルカスが、胃の痛みをこらえながら、馬車の中にいる樹を促す。
やがて、大きなあくびをしながら馬車から降りてきた樹は、目の前の壮大な帝国の威容を前にして、こう言い放った。
「へえ、ここが今回のイベントのラスボスがいる城か。まあ、見た目は派手だけど、俺にかかれば楽勝だな!」
そして、彼は出迎えの帝国文官に向かって、堂々と、そして満面の笑みで言い放った。
「それより、腹減ったんだけど。この国で一番美味いレストランに案内しろよな! 特上のステーキ、あるんだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、帝国文官の顔が引きつり、背後に控えていた帝国騎士たちの鎧が、カチャリと不穏な音を立てた。
バルカスの胃が、ゴクリ、とこれまでで最も大きな音を立てるのが、隣にいた護衛の騎士たちにも、はっきりと聞こえた。
前途多難という言葉すら生ぬるい、混沌と波乱に満ちた外交の幕が、今、ガルニア帝国の心臓部で、静かに、そして確実に切って落とされたのだった。




