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幕間:閃光の数使い、その軌跡 ~路地裏の計算鬼、王都を穿つ~

 


 王都カドアテメの陽の当たらぬ一角、通称「泥濘ぬかるみ地区」。


かつては下級貴族の屋敷も点在したというが、今ではその面影もなく、古びた長屋が密集し、埃っぽい路地が迷路のように入り組む、いわゆる貧民街だ。


酸っぱい匂いと、得体の知れない何かが腐るような悪臭が常に漂い、陽の光ですら、この地区を避けているかのように薄暗い。


フィンは、物心ついた頃から、この街の匂いと喧騒、そして絶望の中で生きてきた。


 彼の父、ライオネルは、元は王国の財務官僚を務める、誇り高き下級貴族だった。


家柄こそ高くはなかったが、その清廉で実直な人柄と、何よりも数字に対する並外れた才能は、若くして財務省の要職に抜擢されるに十分なものだった。


幼いフィンにとって、父の書斎は宝の山だった。


壁一面に並ぶ難解そうな書物、羊皮紙に記された美しい数式、そして父が熱心に語って聞かせる経済の仕組みや、国家財政のありよう。


フィンは、まるで物語を聞くかのように、父の言葉に目を輝かせた。


父は、フィンの数字に対する驚異的な理解力と記憶力に早くから気づき、彼を自らの後継者として、帝王学ならぬ「国家財政学」を叩き込もうとしていたのかもしれない。


「いいかい、フィン。数字は嘘をつかない。数字こそが、この世界の真実を映し出す鏡なのだ。そして、その数字を正しく読み解き、未来を予測する力こそが、国を豊かにし、民を幸せにするのだ」

 父のその言葉は、幼いフィンの胸に深く刻まれた。


 だが、その父の正しさと清廉さが、結果として彼自身を破滅へと追いやった。


先代国王の治世。それは、ロムグール王国が腐敗と堕落の泥沼へと沈んでいった時代だった。


貴族たちは私腹を肥やすことに血道を上げ、国庫は湯水のように浪費され、民の生活は困窮を極めていた。


父ライオネルは、その現状を深く憂い、何度も国王や上級貴族たちに諫言を繰り返した。


そして、ついに、国家財政の抜本的な改革案――歳入の透明化、貴族への課税強化、不正蓄財の徹底調査、そして歳出の大幅な削減――を、具体的な数値と共に上申したのだ。


 その内容は、あまりにも正しく、そしてあまりにも多くの者たちの既得権益を脅かすものだった。


 結果は、惨憺たるものだった。


父の改革案は一笑に付され、逆に、彼は有力貴族たちから「国政を混乱させる不届き者」「王家への反逆者」という濡れ衣を着せられた。


些細な(あるいは、巧妙に仕組まれた)事務処理上のミスを針小棒大に騒ぎ立てられ、全ての役職を剥奪され、貴族としての身分すら危うくなるほどの徹底的な弾圧を受けたのだ。


「……フィン。覚えておきなさい。正しさだけでは、この世は渡れない。だが、それでも……それでも、正しいと信じる道を、決して見失ってはならない……」

 病床で、力なくフィンの手を握りながらそう語った父の言葉が、フィンの耳には今も焼き付いている。


心労が祟ったのか、父は間もなく病に倒れ、フィンの母もまた、その数年後に絶望の中で後を追うように亡くなった。


まだ十歳にも満たないフィンの、孤独で、そして世界への憎しみに満ちた戦いが始まった瞬間だった。


 貴族社会からはじき出され、かつて父を称賛していたはずの親戚からも手のひらを返したように見放されたフィンが生きていく術は限られていた。


「泥濘地区」の片隅にある、雨漏りのする長屋の一室が、彼の新たな城となった。


日雇いの写字生、酒場の勘定書きの整理、市場での荷運び、時には、いかがわしい商品の運び屋の手伝いまで。


どんな仕事も、生きるために、そして何よりも、父が遺した僅かな書物を守り、いつか父の無念を晴らすための知識と力を得るために、彼は歯を食いしばってこなした。


 父の書斎には、彼が生前情熱を注いでいた数学や経済学、そして軍学に関する専門書が、幸いにも差し押さえを免れて数多く残されていた。


それらは、幼いフィンにとっては難解なものだったが、彼は飢えた獣のように、その知識を貪り食った。


文字を覚え、数字の意味を理解し、そして複雑な数式や経済理論を、彼は驚くべき速さで吸収していった。


正規の教育など受けられなかったが、彼の頭脳は、生まれ持った才能と、そして何よりも「知りたい」「理解したい」「そして、いつか見返してやりたい」という強烈な渇望によって、独自に、そして急速に磨かれていったのだ。


 貧民街の大人たちは、そんなフィンの異様なまでの知識欲と、年の割に大人びた、いや、擦れきった言動を気味悪がり、距離を置いた。


同年代の子供たちは、彼を「計算鬼」「落ちぶれ貴族のひねくれ者」と嘲笑い、時には石を投げてくることすらあった。


だが、フィンは気にしなかった。いや、気にしないように努めた。


彼にとって、父の遺した書物の中に広がる論理と数字の世界こそが、唯一安らげる場所であり、そして、この腐った世界への反抗の狼煙でもあったからだ。


「……親父。あんたは正しかった。だが、正しさだけでは、このクソみたいな世の中は変えられねえ。必要なのは、力だ。いや、力だけじゃねえ。それを的確に使いこなし、あのふんぞり返った馬鹿どもを出し抜くための、計算と、戦略だ。俺は、必ずそれを見つけ出してやる。そして、あんたの正しさを、この手で証明してやるんだ……!」


 壁一面に貼り付けた、自らの計算式や、王国貴族たちの相関図、不正の証拠となりそうな噂話のメモなどを眺めながら、フィンはよくそう呟いていた。


それは、若さゆえの青臭い反抗心であり、そして、父の無念を晴らしたいという、痛切な願いでもあった。


 彼は、日雇い仕事で得た僅かな金で、ボロボロの古本や、時には貴族の屋敷からこっそり「拝借」してきた(と本人は言うが、実際はゴミとして捨てられていた)羊皮紙の切れ端を買い集め、そこに自らの思考を書き連ねていった。


王国の財政状況、税制の矛盾、貴族たちの不正蓄財の手口、そして、隣国ガルニア帝国の軍事力と、それに対するロムグール王国の脆弱な防衛体制……。


それらを、彼は独学で得た知識と、路地裏で磨かれた鋭い観察眼、そして何よりも彼のユニークスキル【数理最適解】と【パターン解析(超高速)】を駆使して、徹底的に分析し続けた。彼の部屋は、もはや計算式と分析メモで埋め尽くされ、足の踏み場もないほどだった。


 時には、その才能の片鱗が、思わぬ形で現れることもあった。


彼が勘定書きの整理を手伝っていた酒場では、あまりにも早く正確に計算を終えてしまうため、逆に主人から「何かイカサマでもしているんじゃないか」と疑われたりもした。


市場で荷運びをしていた際には、荷馬車の車輪が壊れる僅かな予兆を【パターン解析】で見抜き、事故を未然に防いだこともあった。

もちろん、誰も彼の言葉を信じず、単なる偶然として片付けられたが。


 その分析結果は、常に彼を絶望させた。このロムグール王国は、もはや末期症状だ。


腐敗は国の隅々にまで蔓延し、民は搾取され、国力は衰退の一途を辿っている。


いつ、ガルニア帝国のような大国に飲み込まれてもおかしくない。


彼の計算によれば、このまま何もしなければ、ロムグール王国が国家として破綻するまでに、あと数年も残されていない。


(……だが、それでも。それでも、もし、ほんの僅かでも可能性があるのなら……。この国を、親父が愛したこの国を、このまま見捨てるわけにはいかない……!)


 そんな思いが、彼を突き動かしていたのかもしれない。絶望の中で、それでも彼は何かを求めていた。


 そしてある日、彼は一つの噂を耳にする。国王アレクシオス・フォン・ロムグールが、人が変わったように国政に励み、改革に乗り出した、と。


「……ふん。どうせ、また王族や貴族どもの茶番だろ。あの放蕩王が、今更まともになるわけがねえ。何か裏があるに決まってる。新しい利権でも狙ってやがるのか、それとも、もっとたちの悪い何かか……」


 フィンは、最初は一笑に付した。彼の人間不信は、そう簡単に拭えるものではなかった。


だが、その噂は、日を追うごとに具体性を増し、そして、かつて彼が尊敬してやまなかった父が、唯一その才覚と人格を認めていたという老将軍バルカスの名も、その噂と共に語られるようになった。バルカスが復権したと。


(……バルカス殿が……? あの、親父が唯一信頼していたバルカス殿が、本当に……? そして、あの国王が、本当に人が変わったというのなら……。いや、ありえねえ。だが、もし……もし、万が一……。万が一、あの噂が本当だとしたら……?)


 フィンの胸に、ほんの小さな、しかし無視できない期待の灯がともった。


それは、長年彼を覆っていた絶望という名の分厚い氷に、ほんの僅かな亀裂が入った瞬間だったのかもしれない。


 そして彼は、これまで書き溜めてきた自らの分析と提案の中から、最も重要と思われる「税制改革に関する意見書」を選び出し、最後の推敲を重ねた。


それは、彼の知識と情熱、そしてこの国への僅かな希望の全てを注ぎ込んだ、魂の叫びにも似たものだった。そして、それを匿名の投書として、王城の目安箱に投じたのだ。


 それは、彼にとって、この腐った世界に対する、最後の、そして最大の賭けのようなものだったのかもしれない。どうせ誰にも読まれず、捨てられるだろう。


だが、もし、万が一、誰かの目に留まり、ほんの少しでもこの国が変わるきっかけになるのなら……。


そんな、僅かな希望を込めて。


彼は、誰にも気づかれないように、夜陰に紛れて目安箱にその羊皮紙の束を滑り込ませると、まるで何かから逃げるように、再び貧民街の薄暗い路地へと姿を消した。


 投書をしたことなど、すぐに忘れてしまったかのように、フィンは再び貧民街での日雇い仕事と、独学での研究の日々に戻った。相変わらず、周囲からは奇異の目で見られ、時には心無い言葉を浴びせられることもあった。


だが、彼の心は、以前よりも少しだけ軽くなっていた。自分なりに、やれるだけのことはやった、という小さな満足感が、彼の心を支えていたのかもしれない。


 そんなある日、彼の住む古びた長屋の扉を叩く者がいた。


家賃の取り立てか、あるいはまた厄介な仕事の依頼か、と、フィンはいつものように投げやりな声で応じた。


 だが、扉の向こうに立っていたのは、彼が予想もしなかった人物たちだった。


一人は、明らかに高貴な身なりをした、しかしどこか影のある、それでいて鋭い眼光を宿した若い男。


その両脇には、威厳のある老騎士と、そして凛とした美しさを持つ若い女騎士が控えていた。


「……何の用だ? 見ての通り、うちは没落貴族の住処だ。金目のもんなんてとっくに役人に持っていかれた。施しなら他を当たってくれ」

 フィンは、警戒心を最大限に高めながら、そう言い放った。


 その若い男――アレクシオスと名乗った男は、しかし、フィンの予想とは全く異なる言葉を口にしたのだった。


「金品が目当てではない。君の『知識』と『才能』に用があるのだ。……フィン君、だったかな? 君が以前、目安箱に投じたという、あの『ロムグール王国税制改革に関する意見書』について、ぜひ直接話が聞きたい。素晴らしい内容だった」


 その言葉を聞いた瞬間、フィンの心臓が、大きく、そして激しく跳ね上がった。


(……読まれたのか? 俺の、あの意見書が……? しかも、こんなお偉方が、わざわざこんな掃き溜めみたいな場所に……? 何かの罠か……? それとも……)


 長年抱き続けてきた絶望と不信感、そしてほんの僅かな期待が、彼の胸の中で激しくせめぎ合う。


 そして、彼は、自らの運命が、この瞬間、大きく変わろうとしているのを、予感せずにはいられなかった。

 路地裏の計算鬼、フィン・“閃光の数使い”。彼の、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。


 幕間、了。



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