第百八十話:役立たずの答え
女神の気配が、完全に消え失せた。
後に残されたのは、水を打ったような静寂。裂けた空から漏れ出す、異世界の不吉な気配が肌を粟立たせる。
そして、神に見捨てられたという絶対的な事実だけが、鉛のように重く玉座の間に満ちていた。
希望はない。
魔王を倒せば、より大きな災厄が世界を飲み込む。
魔王を放置すればこの世界は静寂に包まれ、いずれにせよ封印は解かれる。
どちらを選んでも、待つのは「世界の滅び」。
俺たちがこれまで積み上げてきた、血と、涙と、数えきれない犠牲の全てが、今、この瞬間、全くの無価値と証明されたのだ。
「……陛下……」
リリアナが、すがるような目で俺を見る。
だが、その瞳にも、もはや光はない。彼女がその生涯をかけて捧げてきた信仰は、今、最後の最後で、最悪の形で裏切られたのだ。
祈るべき神は、もういない。
戦うべき正義も、守るべき未来も、全てが幻だったと突きつけられ、彼女はただ唇を震わせることしかできなかった。
バルカスは、その鋼の拳を強く、強く握りしめていた。怒りではない。怒りなどという、生易しい感情はとうに通り過ぎていた。
その拳は、行き場のない無力感に、わなわなと震えている。
何十年も、ただひたすらに王国を守るため、民を守るため、そして王を守るために振るい続けたその腕は、今、この世界の理不尽さの前で、何の役にも立たない鉄塊と化していた。
ヴァレンティンは、ただ黙って、崩れゆく天井を見上げていた。
その、常に冷笑を浮かべていたはずの顔から、全ての感情が抜け落ちている。
皮肉屋で、世界の全てを斜めに見ていた彼ですら、このあまりにも救いのない結末は、予測できなかったのだろう。
彼のシニシズムは、世界のあまりにも巨大な悪意の前で、完全にその意味を失っていた。
そして、セレヴィアは……千年の時を生き、この結末を、誰よりも早く予期していたのかもしれない彼女は、ただ、静かに目を伏せ、涙を流していた。
彼女の涙は、もはや悔恨のためではない。
千年間、一縷の望みをかけて、耐え、待ち続け、そして、ようやく掴みかけたはずの救済が、より大きな絶望への序曲に過ぎなかったという、その事実に対する、あまりにも深い魂からの疲労の色をしていた。
絶望が、伝染していく。
誰もが、戦う意味を、そして、生きる意味すら、見失っていた。
その、あまりにも甘美な絶望の光景を、玉座の主――魔王ヴォルディガーンは、ただ、静かに眺めていた。
彼の、ハルキと瓜二つの顔に、先ほどまでの困惑は消えている。その表情は、千年の絶望から解放されたハルキの深い哀しみに沈んだかと思えば、次の瞬間には、この世界の全てを嘲笑うかのような、原初の魔王が持つ無邪気な残酷さが浮かび上がる。
二つの魂が、一つの肉体の中で、互いの感情を上書きし合うように、目まぐるしくその表情を変えていた。
「……へえ。面白いじゃないか」
その声は、ヴォルディガーンのような声色だった。
だが、その語尾は、ハルキの深く沈んだ声が混じり合い、奇妙に掠れていた。
「つまり、僕は、どう転んでも……勝つってことなんだ?」
彼は、楽しそうに、くすくすと笑った。
その笑い声は、無邪気でありながら、どこか泣いているようにも聞こえた。
「君たちが、僕を倒しても、世界は滅ぶ。僕が、君たちを殺して……もう、誰も死なせたくない……この世界を静寂に還しても、やっぱり、世界は滅ぶ。すごいな! どっちに転んでも、僕の勝ちだ! 僕の負けだ! 僕の邪魔をしていた、あのうるさい女神も、勝手に消えてくれたし! こんなに、気分のいい……最悪な日は、千年間で初めてだよ!」
魔王はすでに、ハルキとヴォルディガーンの意思が曖昧となっている。
俺ですら、この盤面での最適解を、完全に見失っていた。
俺のスキル、【絶対分析】は、沈黙を続けている。それはそうだろう。提示された選択肢は、どちらを選んでも「ゲームオーバー」。確率も、へったくれもない。
思考を回せ。
相馬譲としての、俺の全てを、この一点に集中させろ。
俺がいた世界で、嫌というほど向き合されてきた、あの不毛な二者択一。
どちらを選んでも、待っているのは、後悔と新たな悲劇だけだ。
(……くそっ……!)
歯を食いしばる。
先ほど魂を繋いだ影響か、玉座の上の魔王の中の救い出したはずのハルキの魂が、再び絶望の色に染まっていくのが、肌で感じられるようだった。
彼もまた、この世界のあまりの理不尽さに、再び心を折られかけているのだ。
誰もが沈黙する絶望の静寂を。
一つの怒声が粉々に打ち砕いた。
「ごちゃごちゃうるっせえんだよ、さっきから!!」
声の主は、田中樹だった。
彼は、いつの間にか立ち上がり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、その小さな拳を、わなわなと震わせていた。
その瞳は、俺でも、仲間たちでもない。
ただ真っ直ぐに、玉座の上でふんぞり返る、魔王ヴォルディガーンを睨みつけていた。
「勝った? 勝ち? ふざけんじゃねえよ!」
あまりにも場違いな少年の絶叫。
誰もが言葉を失う。
「どっちを選んでも滅ぶ? ……だから、何だってんだよ!」
樹は、聖剣を杖のようにして、よろよろと立ち上がると、魔王へと、一歩、また一歩と、歩み寄っていく。
「んなもん、知るか! てめえがごちゃごちゃ言ってる間にやるんだよ!」
そして、彼は叫んだ。
それは、世界の理も、神の筋書きも、千年の絶望すらも、全てを置き去りにする、あまりにも単純で、あまりにも、真っ直ぐな魂だった。
「どっちも救えやぁいいじゃねえか!!」
その言葉に、玉座の間が、しんと静まり返った。
樹は、魔王の、その目の前まで歩み寄ると、その、ハルキの面影を宿す顔を、真正面から指さした。
「諦めた奴が、何が勇者だ! 静かになんてなってんじゃねえよ! 仲間が死んだ? 騙された? だから、何なんだよ! それでも、お前は、勇者なんだろ! だったら、最後まで、足掻いて、喚いて、みっともなくても、戦い抜けよ! 俺みたいに!」
それは、無茶苦茶な理屈だった。
何の論理性も何の根拠もない、ただの子供の癇癪。
だが。
その、あまりにも、単純で、バカで、そして、どこまでも真っ直ぐな言葉は。
千年の絶望と、世界の理という、複雑な理屈に囚われていた、全ての者たちの心を、雷のように、打ち抜いた。
魔王ヴォルディガーンの、ハルキと瓜二つの顔に、これまで見せなかったほどの、激しい動揺が走るのを、俺は見逃さなかった。
絶望に沈みかけていた魂が、まるで心臓マッサージをされたかのように、大きく熱く揺れ動いたのだ。
そうだ。
なぜ、俺は、気づかなかった。
女神が提示した、二つの選択肢。
その、どちらかを選ばなければならないと、いつ、誰が決めた?
Aか、Bか。その二択に囚われた時点で、俺は、女神が作ったゲーム盤の上で、踊らされていただけだったのだ。
(……第三の道……)
そうだ。道がないのなら創ればいい。
「魔王を倒さず、かつ、世界を静寂にもさせず、その上で、大いなる封印を、維持し続ける」
そんな、常識の外にある、無茶苦茶な道を。
『……君は……』
魔王の口から、ハルキの震える声が響いた。
その瞳は、目の前に立つ小さな勇者を、ただ真っ直ぐに、見つめていた。
『……君は、どうして、そんなに強いんだ……?』
その問いに、樹は、鼻をすすりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……知るかよ。でも、腹が減ったら、飯を食う。眠くなったら、寝る。そして、目の前で、誰かが泣いてたら、助ける。……それ以上の、難しいことは、俺には、分かんねえんだよ」
その、役立たずの答え。
それこそが、この、絶望に満ちた世界で、唯一残された本物の希望だった。
俺は、神剣を強く握りしめた。
その刃に、呼応するように、魔王の中から、ハルキの魂が、そして、仲間たちの失いかけた希望の光が、再び力強く輝き始める。
俺は、神剣を構え直した。
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