第百七十三話:獅子の牙、鋼を砕く
憎悪と、友への信頼と、そして王への忠誠。グレイデンの魂の全てを乗せた最後の一撃は、一条の光となって、”不動”のグラズニールの、ただ一点の瑕疵へと吸い込まれていった。
時間が、引き伸ばされたかのように遅くなる。
レナードがその身を賭して穿った亀裂へと、グレイデンの剣の切っ先が寸分の狂いもなく到達する。
キィン、という甲高い音と共に、剣先が黒曜石の装甲に深く食い込んでいく。だが、そこまでだった。
グラズニールの、神代の金属とも言われる肉体を完全に貫くには、グレイデンの渾身の一撃ですら、力が足りなかったのだ。
剣は、亀裂の奥で甲高い音を立てて砕け散った。
「……終わり、か」
グレイデンの口から、絶望の混じった乾いた声が漏れた。最後の希望が、今、目の前で砕け散った。
グラズニールの、感情のない赤い一つ目が、眼下の、あまりにも無力な獅子を捉える。その巨大な鉄拳が、とどめを刺さんと、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で振り上げられた。
「まだだ! まだ終わらせんぞ!」
後方から、複数の騎士たちが雄叫びを上げて突進してきた。彼らは、グレイデンとレナードが決死の覚悟で作り出したこの好機を、無駄にはすまいと、自らの命を薪にくべるように、グラズニールの巨大な脚部へと斬りかかる。
「我らが司令官に指一本触れさせるか!」
「北壁の誇り、見せてやれ!」
だが、彼らの刃は、黒曜石の装甲に白い傷一つつけることなく、無残に弾き返される。グラズニールは、その足元に群がる虫けらを払うかのように、ただ脚を軽く一振りした。
それだけで、数名の屈強な騎士が、鎧ごとくしゃりと潰れ、血の染みとなって大地に散った。
「やめろ! 無駄死にするな!」
グレイデンが叫ぶ。
だが、兵士たちは止まらない。彼らは、ただの駒ではない。
エルヴァン要塞で、グレイデンと共に血と泥にまみれてきた、誇り高き仲間たちだった。彼らは、自らの死が、司令官が次の一手を放つための、ほんの僅かな時間稼ぎになると信じていた。
その、あまりにも人間的な、そしてグラズニールにとっては非合理的な自己犠牲。
彼の赤い一つ目が、理解不能なものを見るように、激しく明滅した。
その瞬間。
グラズニールの巨体が、初めて、明らかに動きを止めた。
グレイデンの剣は、確かに砕けた。だが、その切っ先は、装甲の亀裂の奥深く、グラズニールの体内にある魔力炉心の、その外殻にまで達していたのだ。
そして、レナードの捨て身の一撃が叩き込んだ「激情」と、グレイデンの仲間を想う「意志」という、二つのあまりにも人間的な、非合理的なエネルギーが、炉心の完璧な魔力循環に、致命的なバグを発生させていた。
ピシリ、と。
グラズニールの胸の中心で、微かな、しかし確かな亀裂音が響いた。
それは、外部の装甲ではない。内部の、魔力炉心そのものが軋む音だった。
(……計算、外……)
その、機械のような思考回路に、初めてノイズが走る。
千年前の記憶が、奔流となって彼の意識を駆け巡った。
そこは、アルカディア大陸ではない。血と鉄錆の匂いが満ち、空には常に三つの不吉な月が浮かぶ、修羅の世界『外大陸』 。
彼は、まだ”不動”のグラズニールではなかった。ただ、自らの種族の誇りを守るため、戦い続ける一人の戦士だった。
『―――面白い。君、強いね。僕の仲間にならない?』
瓦礫の山の上で、無邪気に笑う少年がいた。その華奢な身体には不釣り合いなほどの、絶対的な覇気を纏って。
若き日の、魔王ヴォルディガーン。
『我はモルガドール! 力こそが全てよ!』
猪のように猛々しく笑う巨漢。
『ふふ、力だけでは、美しい盤面は作れないわよ』
風のように駆け、悪戯っぽく笑う銀髪の獣人、フェンリラ。
『全ては、計算の内です』
常に一歩先を読み、全てを嘲笑うかのような冷たい瞳の美青年、ヘカテリオン。
彼らは、敵だった。だが、ヴォルディガーンという絶対的なカリスマの下に集い、いつしか、互いの背中を預ける、歪な仲間となっていた。
彼らには共通の目的があった。この奪い合うことしか知らない、修羅の大陸を変えたいという。
『僕は、皆が虐げられない国を作りたいんだ。さあ、行こうか、皆。僕たちの、新しい静かな世界へ』
ヴォルディガーンが差し出した手。その手を、彼は確かに取ったのだ。
あの時の、主君の瞳は、無邪気で、残酷で、しかし、確かに未来を見ていた。
今の、絶望に囚われた主君とは、違う……。
亀裂は、瞬く間に炉心全体へと広がり、制御を失った膨大な魔力が、内側から溢れ出し始める。
グラズニールの黒曜石の身体の、その装甲の継ぎ目という継ぎ目から、禍々しい紫黒の光が、奔流となって噴き出した。
「ぐ……おおおおおおおおおおおおっっ!!」
グラズニールが、苦悶の咆哮を上げた。
それは、痛みからではない。自らの完璧な論理が、理解不能な「感情」という名のバグによって破壊されていくことへの、最後の抵抗だったのかもしれない。
彼は、もはや、目の前の騎士たちを見てはいなかった。
その赤い一つ目は、ただ、遥か遠く、自らが忠誠を誓った、主君がいるであろう空を見つめていた。
「我が君の…静寂を…」
それが、彼の、最後の言葉だった。
次の瞬間、黒曜石の巨体は、凄まじい音を立てて内側から崩壊し、光の粒子となって、風の中へと霧散していった。
後に残されたのは、おびただしい数の亡骸と、そして、傷つき、疲れ果て、それでもなお、互いの身体を支え合うようにして確かに立っている、陽動部隊の、数少ない生存者たちだけだった。
「……勝った……のか……?」
若い騎士が呆然と呟く。
戦場を支配していた、絶対的な絶望が消え、後に残されたのは、死んだような静寂だけだった。
グレイデンは、ふらつく足で、血の海の中に倒れる、一つの巨体へと歩み寄った。
レナード・フォン・ゲルツ。
その身体は、もはや虫の息だった。左肩は砕け、全身からおびただしい血が流れている。だが、その顔には、不思議なほど、満足げな笑みが浮かんでいた。
「……へっ。見事な……太刀筋だったじゃねえか……北壁の、坊主……」
「黙れ、傷に響く」
「……これで、ようやく……退屈せずに……済みそうだ……」
レナードは、そう言い残すと、静かに、その目を閉じた。
グレイデンは、何も言わなかった。ただ、憎んでいたはずの男の、そのあまりにも気高い最期に、騎士として、最大の敬礼を捧げた。
彼らは、勝ったのだ。多大な、あまりにも多大な犠牲を払いながらも、その任を、確かに、果たしたのである。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




