第百六十八話『不動の門、非情の盾』
王の決断は、軍の心を一つにはしなかった。ただ、分裂を寸前で食い止め、答えのない問いを抱えたまま、前進するという、あまりにも重い枷を嵌めただけだった。
(……これが、解放戦争の現実か)
俺、アレクシオスは、馬上で眼下に広がる光景に、言葉を失っていた。
幾日にわたる過酷な進軍の末、我々大陸連合軍はついに、終焉の谷へと至る最初の関門へと到達した。斥候は、これを「敵の第一次防衛線」と報告してきた。
だが、そこにあったのは、堅牢な城壁ではない。
魔物、いや亜人たちの住居そのものをバリケードとして無数に連結し、その壁の上や狭間に、兵士となった亜人たちを配置して作り上げた、おぞましい「人間の盾」ならぬ「亜人の盾」だった。
壁の上に立つオークらの兵士たちの瞳は虚ろで、その額には『服従の呪印』が淡く、不気味な紫の光を放っている。
その背後、粗末な住居の入り口からは、怯えた様子の女や子供たちが、我々の姿を覗いていた。彼らの魂そのものが、見えざる人質とされているのだ。
兵士たちの間に、絶望的な動揺が走る。誰かが、あれを『不動の門』と、吐き捨てるように言った。
「……悪魔の所業だ」
サー・レオンが、絞り出すような声で呟いた。
彼の顔からは血の気が引き、その手は怒りと無力感にわなないている。新兵の中には、目の前の光景のあまりの冒涜的な様に、吐き気を催している者すらいた。
「ふん。合理的ではあるな」
対照的に、ヴァレンティンは冷ややかに言い放った。
「我々が奴隷兵士に手心を加えることを見越した、完璧な人質戦術だ。グラズニール……噂に違わぬ、実に厄介な敵だ」
天幕でどれだけ気高い目的を掲げようと、現実はこれだ。
我々が剣を向けるべき相手は、その家族の目の前で、魂を縛られ、戦うことを強制されている、哀れな被害者たちなのだ。
(……それでも、進むしかない)
俺は、自らの心を鋼鉄に変え、最初の命令を下した。
「第一次攻撃部隊、前へ! 先の命令を忘れるな! 目的は敵の殲滅ではない! 亜人兵士を無力化し、道を切り拓け! 可能な限り、命を奪うな!」
その、あまりにも困難な命令に、騎士たちは一瞬戸惑いを見せたが、それでも彼らは覚悟を決めた目で頷き、鬨の声を上げた。
攻撃は、悪夢そのものだった。
連合軍の騎士たちは、壁へと殺到する。だが、彼らを迎え撃つ亜人兵士たちの瞳には、光がない。
ただ、魂を縛る呪詛に操られるまま、機械のように斧を振り下ろし、槍を突き出してくる。
「くっ……! 避けろ! 殺すな!」
サー・レオン率いるシルヴァントの騎士たちは、その騎士道精神に則り、必死に相手を峰打ちで無力化しようとする。
だが、呪印に支配された彼らは痛みを感じていないのか、よろめきながらも即座に体勢を立て直し、次の攻撃を繰り出してくる。
一人、また一人と、仲間が亜人たちの無慈悲な刃の前に倒れていく。
ある若い騎士は、目の前のオーク兵士の虚ろな瞳に、故郷に残してきた父親の面影を見てしまい、一瞬剣が鈍った。
その隙を突かれ、オークの巨大な戦斧が彼の盾を砕き、その勢いのまま肩を深々と抉った。
その光景に、サー・レオンが耐えきれなくなった。
壁際で泣き叫ぶゴブリンの子供。その子供を守るかのように最前線に立たされている父親らしきゴブリン兵士の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを、彼は見てしまったのだ。
「やめろ! もう戦うな!」
彼は、馬から飛び降りると、そのゴブリン兵士を救うべく、単身突撃した。
だが、そのゴブリン兵士は、虚ろな瞳のまま、涙を流しながら、隠し持っていた錆びた短剣を、レオンの鎧の隙間へと突き立てた。呪印は、彼の意志を完全に支配していた。
「ぐ……あっ……!」
レオンの脇腹から、鮮血が迸る。
「なぜ……」
ゴブリン兵士の瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。
その魂が、己の行いに悲鳴を上げている。その、ほんの一瞬の躊躇。
それを見咎めたのか、ゴブリン兵士の額の呪印が激しく明滅し、彼は「ア……」と声にならない声を上げると、その場に崩れ落ち、動かなくなった。
「……ああ……あああああっ!」
サー・レオンの絶叫が、戦場に響き渡る。
その、あまりにも非効率で、無駄な血が流れるだけの戦況を見かねたヴァレンティンは、自らが率いる帝国残党軍に、冷徹な命令を下した。
「……甘ったれた騎士ごっこは終わりだ。我が隊は、これより魔物の排除を開始する。躊躇うな。目の前の動く肉塊は、亜人ではない。我らの都を破壊したただの仇だ。道を拓け!」
彼の部下たちは、何のためらいも見せなかった。
彼らは帝国の崩壊という地獄を生き延びた者たちだ。感傷など、とうの昔に捨て去っている。
彼らの剣が、躊躇なく亜人兵士たちの命を刈り取り始めた。峰打ちではない。急所を的確に狙った、一撃必殺の刃。
「やめろ! ヴァレンティン将軍! 彼らも被害者なのだぞ!」
サー・レオンが、傷を押さえながら叫ぶ。
「黙れ、負け犬が。貴様のその甘さが、どれだけ無駄な血を流したか、まだ分からんか。戦場に、理想を持ち込むな!」
ヴァレンティンの軍は、確かに道を開いた。
だが、その道は、亜人たちの死体で舗装されていた。その光景に、ロムグールやシルヴァントの騎士たちはさらに動揺し、戦線は完全に混乱をきたした。
第一次攻撃は、完全な惨敗に終わった。俺は、全軍に撤退を命令するしかなかった。
その夜、連合軍の陣営は、負傷兵の呻き声と、重い絶望感に包まれていた。俺たちの新たな大義は、初戦で、そのあまりにも厳しい現実の前に、粉々に打ち砕かれたのだ。
作戦会議の天幕で、ヴァレンティンが、冷たく俺に言った。
「言ったはずだ、アレクシオス王。理想には、血の代償が伴う、と。今日、我々が流した血は、貴殿の甘さが招いた、当然の結果だ。我々はただでさえ、平坦の確保の為に少なくない兵をエルヴァンからの中継地点に置いてきている。これ以上は致命的であるぞ」
俺は、何も言い返すことができなかった。ただ、唇を噛み締め、この、あまりにも非情な盤面を覆す、次なる一手を探し続けることしか、できなかった。
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