第百六十六話『進軍、そして魔物の真実』
絶望には、色も匂いもない。
ただ、それは空気のように空間を満たし、呼吸と共に肺腑を侵す。
俺が率いる大陸連合軍が、エルヴァン要塞の巨大な城門を潜り、魔族領『ヴォルクリプト』へと足を踏み入れた瞬間から、その見えざる毒は兵士たちの心を静かに蝕み始めていた。
「……空気が、重い」
俺の隣で馬を並べるリリアナが、顔をしかめて小さく呟いた。
彼女ほどの魔術師が肌で感じるのだ、この土地に満ちる淀みは尋常ではない。
かつて豊かな針葉樹林であっただろう森は、生命の色を失い、黒くねじくれた木々が亡者のように天を突いている。
大地は灰色に痩せ細り、風の音すらも聞こえない。フィンが告げた「世界の余命三か月」という言葉が、この死んだ景色と重なり、兵士たちの顔から着実に光を奪っていた。
(タイムリミットは三か月。そして、この先の終焉の谷には、魔王がいる。この土地に満ちる、全ての理が軋むかのような気配……これが、奴の存在そのものが放つ圧力だとでもいうのか。まさに、絶望的な状況だ。だが……)
俺は、遥か後方に続く、数千の兵士たちの隊列を振り返った。
ロムグール、シルヴァラント、東方諸侯、そして帝国の軍。それぞれの旗が、この鉛色の空の下で、それでも必死にはためいている。
彼らは、俺の言葉を信じ、この死地へと足を踏み入れたのだ。王として、俺が迷うことは許されない。
進軍を開始して三日目の昼下がりだった。先行していた闇滅隊のリーダー、ファムがやってきた。
『ボス。前方三キロ、谷間の隘路に敵の斥候部隊。数はおよそ300。オークとゴブリンの混成部隊だ。練度は低い。どうする? 避けるか?』
「いや、待て。こちらから仕掛ける。正面をバルカス、右翼をグレイデンが率い、奴らを殲滅する。被害は最小限に、そして迅速にだ。この先の戦いのために、兵士たちに一度『勝利』を経験させておきたい」
「「御意!」」
二人の獅子の力強い返事が、俺の心をわずかに奮い立たせる。
バルカス率いる重装騎士団が正面からオークたちの注意を引きつけ、その隙にグレイデン率いる騎馬隊が側面から矢のように突撃する。
戦闘と呼ぶには、あまりにも一方的な展開だった。
だが、最前線で戦う騎士たちの顔には、勝利の高揚感ではなく、戸惑いの色が浮かんでいた。
「……なんだ、こいつら……」
歴戦の騎士の一人が、血振りをしながら呟く。
俺も、丘の上からその異様な光景を目の当たりにしていた。
敵兵であるはずのオークやゴブリンたちの瞳には、憎悪や戦意が全く感じられないのだ。
ただ、死を覚悟したような、あるいは、何かから逃れたいとでもいうような、虚ろで哀しい光だけが宿っていた。
ある者は、グレイデンの剣の前に、抵抗もせず、むしろ安堵したかのように崩れ落ちていった。
戦闘は、ほんの数分で終わった。
生き残った数名のオークは、武器を捨て、戦う前からそう決めていたかのように、その場で膝をつき、命乞いを始めた。
「……何かがおかしい」
俺の隣で、バルカスが唸る。俺も同感だった。これは、戦いではない。まるで、一方的な処刑のようだ。
「リーダー格と思われる者を一人、捕虜として連れてこい。残りは……丁重に扱え」
俺の命令に、騎士たちは戸惑いながらも従った。
司令部の天幕に引き出されてきたのは、一際大きな体躯を持つ、古傷に覆われたオークの百人隊長だった。
その顔には深い絶望が刻まれ、しかし瞳の奥には、まだ消えぬ誇りの光が微かに灯っている。
「……貴様が、この部隊の長か」
俺の問いに、オークは答えない。ただ、固く口を結び、俺たちを憎しみの籠もった目で見つめている。
「ふん。ただの獣か。ならば、獣にふさわしいやり方で口を開かせるまでだ」
ヴァレンティンが、冷たく言い放ち、剣の柄に手をかける。その瞬間だった。
「お待ちください」
それまで黙ってオークを見つめていたセレヴィアが、静かに前に進み出た。
彼女は、オークの前に膝をつくと、その哀しみに満ちた瞳を、真っ直ぐに見返した。
そして、俺たちには理解できない、古の、どこか物悲しい響きを持つ言葉を、ゆっくりと紡ぎ始めた。
オークの百人隊長の肩が、びくりと震えた。その顔に、驚愕と、そして信じられないといった表情が浮かぶ。
彼の瞳から、一筋、また一筋と、黒く汚れた涙が流れ落ち始めた。セレヴィアは、語りかけ続ける。
やがて、オークの口から、嗚咽と共に、同じ古代の言葉が漏れ出した。魂を縛っていた何かが、壊れた音だった。
「……セレヴィア殿、今のは……?」
リリアナが、呆然と尋ねる。
「彼の魂は、強力な『服従の呪印』で縛られていました。ですが、それ以上に、彼の心を縛っていたのは、失われた故郷への想いと、一族の誇りです。わたくしは、ただ彼らの古い言葉で、その誇りに敬意を払っただけですわ」
セレヴィアはそう言うと、俺に向き直った。
「陛下。彼が、話すそうです。我々が……これまで『魔物』と呼んできた者たちの、真実を」
オークの百人隊長は、涙で濡れた顔を上げた。その声は、震えていたが、そこには確かな意志があった。
「……我らは、魔物ではない。かつては、このヴォルクリプトの大地で、大地の神を敬い、同族たちと平和に暮らしていた……誇り高き亜人だ」
彼は、語り始めた。
千年前に、空から来た魔王ヴォルディガーンによって、彼らの故郷「終焉の谷」が、一日にして地獄へと変えられた日のことを。
抵抗した者たちは皆殺しにされ、生き残った者たちは、魂に決して逆らうことのできない「服従の呪印」を刻まれたことを。
そして、家族や同族を人質に取られ、憎むべき魔王の奴隷兵士として、望まぬ戦いを強いられ続けてきた、千年に渡る悲劇の歴史を。
「……我らの剣は、お前たち人間に向いている。だが、我らの魂は、常に、我らを支配するあの魔王を呪っている。……殺してくれ、人間の王よ。お前たちの手にかかって死ぬ方が、あの男の奴隷として生き永らえるよりも、よほどマシだ……」
その、あまりにも哀しい告白。
天幕の中は、死のような静寂に包まれた。
騎士たちの顔から、血の気が引いている。
自分たちがこれまで殺してきた相手が、憎むべき魔物ではなく、救うべきだったかもしれない被害者であったという事実に、彼らの剣は、鉛のように重くなっていた。
俺は、この戦いが、想像を絶するほどに複雑で、哀しいものであることを、今、ようやく理解した。
今後の進軍方針について、あまりにも重い決断を、俺は迫られることになる。
最終章の投稿を開始します!
朝夜2話投稿!
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