第百六十四話:決戦前夜
エルヴァン要塞の夜は、深く、そしてあまりにも静かだった。
日中の喧騒は嘘のように鳴りを潜め、今はただ、城壁の上を吹き抜ける極北の風の音と、出撃を前に武具を整備する兵士たちの、抑えた金属音だけが響いている。誰もが口を閉ざし、己の内なる覚悟と向き合っていた。人類の、そしてこの世界の命運を賭けた戦いが、夜明けと共に始まろうとしていた。
武具庫は、油と鋼の匂い、そして男たちの無言の熱気で満ちていた。
来るべき死闘を前に、騎士たちがそれぞれの愛剣に最後の油を塗り込んでいる。その一角で、ひときわ険しい空気を放つ二人の男が対峙していた。
隻眼の司令官グレイデン・アストリアと、元王国騎士団長レナード・フォン・ゲルツ。
「……ふん。お前のような石頭と、同じ戦場で剣を振るうことになるとはな。王も、随分と悪趣味な冗談を言う」
レナードは、自らの愛剣の切っ先を布で拭いながら、侮蔑を隠そうともせずに言った。
「貴様こそ、反逆者が英雄気取りか。せいぜい、味方の背中から斬りかかるなよ」
グレイデンの声もまた、氷のように冷たい。二人の間には、長年の確執と、決して相容れない騎士としての矜持が横たわっていた。
「甘ったれるな、北壁の坊主」
レナードは、剣を鞘に納めると、グレイデンを睨みつけた。
「戦場で剣を向けてくる者は敵だ。相手が呪われた亜人だろうが、泣き叫ぶ子供だろうが、俺は斬る。その感傷が、お前の部下を殺すことになるぞ」
「彼らを解放することこそ、我々の勝利への道だ! アレクシオス陛下もそう判断されたはずだ!」
「王の判断だと? あれはただの理想論だ。俺が信じるのは、この腕と、この剣だけだ。貴様らが綺麗事を並べている間に、俺は敵の首を一つでも多く狩る。それだけのことだ」
一触即発。
犬猿の仲である二人の指揮官の間に、殺気にも似た火花が散る。その、あまりにも危険な不協和音を、一つの重々しい声が制した。
「やめい、二人とも」
声の主は、老獅子バルカスだった。彼は、自らも出陣の準備を整えながら、二人の若き獅子を諭すように見つめていた。
「貴様らの役目は、この戦で最も過酷なものとなるだろう。だが、それ故に、互いを信じられぬのであれば、今すぐ剣を置け。足手まといは、いらん」
バルカスの言葉の重みが、二人の激情を、かろうじて押し留めた。
レナードは忌々しげに舌打ちし、武具庫の闇へと消えていく。
グレイデンもまた、悔しそうに拳を握りしめた。
その隣で、シルヴァントの騎士サー・レオンが、静かに、しかし強い意志を宿した瞳でグレイデンに語りかけた。
「司令官殿。彼の言うことも、一理あるのかもしれません。ですが、貴方のその気高き理想こそが、我ら騎士が剣を振るう理由です。私は、貴方の盾となりましょう」
二つの、決して交わることのない剣。
それでも、彼らは同じ死地へと赴く。その歪な共闘関係こそが、この絶望的な戦いの行く末を暗示しているかのようだった。
終焉の谷を遥か遠くに望む、吹雪が吹き荒れる物見櫓の影。
三つの影が、まるで岩と同化するかのように、その身を潜めていた。闇滅隊のリーダー、ファム、ハヤテ、そしてナシル。
ファムは、シズマの形見である霊刃を、黙々と研いでいた。その刃に、ハヤテが静かに自らの霊力を注ぎ込む。刃が、青白い光を帯びた。
「……奴の結界は、俺の霊刃とシズマの霊刃、二つが揃って初めて斬れるかもしれん」
「……ああ。こいつは、もう俺だけの剣じゃねえ。シズマの魂も、ここにある」
ファムは、短く応えると、ナシルに向き直った。
「ナシル。お前の『眼』が、俺たちの生命線だ。未知の土地だ、しくじるなよ」
「お前たちこそ。俺の予測を超えて、死ぬな」
ナシルは、そう言って『真実の鏡』の欠片を磨き始める。
彼らの間に、感傷的な言葉はない。ただ、互いの背中を預け合う、絶対的な信頼だけがあった。
彼らの任務は、進軍する連合軍の「眼」となり「牙」となること。
魔王城へと続く、古の道を探し出し、その道中のあらゆる罠を排除する。その成否が、作戦そのものの成否を左右すると言っても過言ではなかった。
要塞の一角にひっそりと佇む、小さな礼拝堂。
蝋燭の、か細い光だけが、二人の女性の祈るような横顔を照らしていた。リリアナとセレヴィアは、静かな時間を過ごしていた。
「……怖くは、ありませんか」
リリアナが、そっと問いかける。セレヴィアは、祭壇の女神像を見つめたまま、静かに答えた。
「怖い、という感情は、もう、とうの昔に失くしてしまいました。あるのは、ただ、後悔だけですわ」
彼女は、ゆっくりとリリアナに向き直った。
「千年前、わたくしはハルキを見捨てた。その罪は、永遠に消えません。ですが……」
彼女の視線が、礼拝堂の外、これから自分たちが死地へと赴くであろう、暗い北の空へと向けられる。
「イトゥキ様。彼の、あの、あまりにも真っ直ぐで、穢れを知らぬ魂の光を見ていると、思うのです。彼こそが、ハルキを救える、唯一の希望なのかもしれない、と。……だから、わたくしは、もう逃げません。今度こそ、賢者として、友として、最後まで、彼の側で戦います」
その声は、震えていたが、そこには確かな決意があった。リリアナは、その小さな手を、優しく握りしめた。
「ええ。わたくしたちが、ついておりますわ」
二人の大陸最高峰の魔術師は、言葉少なに、しかし、互いの魂の奥にある覚悟を、確かに感じ取っていた。
城壁の上。凍てつく夜風が、二人の異邦人のマントを、激しくはためかせていた。
アレクシオスと樹は、二人きりで、北の空を見上げていた。
「……なあ、王様」
先に口を開いたのは、樹だった。
「俺、やっぱ、怖いよ。明日、死ぬかもしんねえって思ったら、足が、震えちまう」
それは、彼が初めて見せた、偽りのない弱さだった。
「ああ、俺もだ」
アレクシオスは、驚くことなく、そう答えた。
「王であろうと、元社畜であろうと、死ぬのは怖い。当たり前のことだ」
「……だよな」
樹は、少しだけ安堵したように、息を吐いた。
「でもさ。もう、逃げねえって決めたんだ。聖都で、リリアナが、俺を庇ってくれた時、思ったんだよ。もう、誰かの背中を見てるだけなのは、ごめんだって。……それに、あいつに、笑われちまうからな」
彼は、懐から、レオの形見である、木彫りの鳥を取り出し、それを見つめた。
「あいつ、俺のこと、すげえって信じてたから。だから、あいつに笑われねえように、やるしかねえんだ。俺が、盾になって、みんなを守るしかねえんだよ」
その、あまりにも不器用で、しかし、あまりにも真っ直ぐな決意。
アレクシオスは、彼の成長に、胸が熱くなるのを感じていた。彼は、王として、そして、この世界で唯一の同郷人として、樹の肩に、力強く手を置いた。
「樹君。約束する。俺が、お前を死なせはしない」
その瞳には、絶対的な覚悟が宿っていた。
「だから、お前が、皆を守れ。お前の『盾』が、俺たちを、最後の勝利へと導くんだ」
樹は、何も言わなかった。ただ、アレクシオスの、その真剣な瞳を見つめ返し、強く、強く、頷いた。
二人の「鍵」の間に、言葉を超えた、固い約束が交わされた。
それぞれの場所で、英雄たちは、静かに夜明けを待っていた。
遥か北、終焉の谷があるであろう方角の空だけが、まるで嵐の前の静けさのように、不気味なほど、星もなく、ただ、黒く沈んでいた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




