第百六十三話:二つの魂、一つの希望
「―――これは、もはや討伐戦ではない。救出作戦だ」
アレクシオスの、その静かな、しかし鋼のような意志を宿した宣言が、死んだように静まり返っていたエルヴァン要塞の司令室に響き渡った。
討伐ではない、救出。
その、あまりにも予想外の言葉の意味を、誰もが咀嚼しようと、ただ呆然と立ち尽くしていた。魔王の、あまりにも巨大で絶望的な正体を知った直後では、その言葉は空虚な理想論にしか聞こえなかったかもしれない。
だが、その言葉に、最初に反応した者がいた。
「……陛下のおっしゃる、通りです」
リリアナに支えられ、泣き崩れていたセレヴィアが、震える声で、しかし、確かにそう言った。
彼女は、樹の、あまりにも真っ直ぐで残酷な叱責と、アレクシオスの絶望を受け止める覚悟に、千年間凍てついていた心を揺さぶられていた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れたその頬は痛々しかったが、その瞳には、千年の悔恨の闇の奥から、再び、賢者としての鋭い光が灯り始めていた。
「わたくしたちが戦うべきは、ヴォルディガーンという魔王ではありません。千年前、この世界が生み出してしまった、一人の英雄の……ハルキの、深すぎる『絶望』そのものなのです」
セレヴィアは、ふらつく足で立ち上がると、円卓の中央に置かれた神剣へと、その指先を向けた。
「魔王の核となっているのは、絶望に囚われたハルキの魂。ですが、その魂は、裸ではありません。千年の間に、この大陸に渦巻く全ての憎悪、悲しみ、そして呪いを吸収し、凝縮して作り上げた『絶望の奔流』が、魂そのものを守るように渦巻いているのです。あれは、単なる魔力の壁ではございません。その奔流に触れた剣は、込められた闘志を喰われて錆びつき、魔法は、術者の希望を吸い取られて霧散します。物理的な力も、精神的な力も、全てがその絶望に触れた瞬間、その存在意義を失い、無力化されてしまうのです」
彼女の言葉は、千年前、その誕生の瞬間を、最も近くで見てしまった者だけが語れる、絶対的な真実の重みが、その場の空気を震わせた。
その、あまりにも絶望的な分析に、グレイデンやヴァレンティンは、再び顔をこわばらせた。だが、セレヴィアは静かに首を横に振った。
「いいえ。道は、あります。その、あまりにも強固な絶望の奔流を、中和し、無力化できる可能性を持つ力が、ただ一つだけ、この世に存在する」
彼女の、千年の叡智を宿した瞳が、ゆっくりと、部屋の隅で、まだ呆然と立ち尽くしているだけの、一人の少年へと向けられた。
「―――イトゥキ様。貴方の、その魂です」
「……へ? お、俺?」
突然、名を呼ばれた樹は、戸惑いの声を上げた。
「貴方の魂が放つ、あの黄金の光。それは、穢れを知らぬ、あまりにも純粋な『守り』の力。邪悪を滅するのではなく、ただ、そこにあるだけで、あらゆる悪意を無に還す、絶対的な聖域。それこそが、ハルキの『絶望の奔流』に触れ、そして、その呪いを一時的に中和できる、唯一の『盾』なのです」
セレヴィアの言葉に、樹は、自分の手のひらを見つめた。そんな、とんでもない力だったというのか。
「ですが」と、セレヴィアは続けた。
「イトゥキ様の力は、あくまで『守る』ことに特化している。絶望の奔流を無力化し、安全な道を開くことはできても、その奥にある、固く閉ざされたハルキの魂にまで、干渉することはできません。その、ほんの僅かな隙間をこじ開け、魂を、千年の呪縛から直接断ち切るには、全く別の力が必要となる」
彼女の視線が、今度は、アレクシオスへと移った。
「そこで、アレクシオス陛下。貴方の力が必要になります。貴方がヤシマの地で示された、あの蒼銀の輝き……民の嘆きも、兵の無念も、その全てを背負うと決めた、魂が放つ『赦し』の光。そして、何よりも、ハルキの善なる魂と共鳴する、この【星詠みの神剣】。その二つの力が合わさった時、それは、絶望そのものを『斬り拓く』、唯一無二の『剣』となるはずです」
盾と、剣。
司令室にいた誰もが、その、あまりにも壮大で、そして、あまりにも完璧な作戦の骨子を、息を呑んで聞いていた。
「つまり、こうです」セレヴィアは、結論を告げた。
「まず、イトゥキ様が、その身を賭して『盾』となり、絶望の奔流に安全な道を開く。そして、その道を、アレクシオス陛下が『剣』として進み、神剣の力で、ハルキ様の魂を、魔王の呪いから解放する。―――この、二人の力が揃わなければ、我々に、勝利はありません」
その言葉は、絶対的な絶望の中に、唯一の、しかし、確かな希望の光を灯した。
だが、その光は、同時に、あまりにも重い宿命を、二人の異邦人に突きつけるものだった。
「……俺が……盾……?」
樹は、まだ、その役割の重大さを、完全には飲み込めていなかった。だが、彼の脳裏には、過去視で見た、あの、絶望に沈むハルキの最後の姿が、焼き付いて離れなかった。
アレクシオスは、静かに、その過酷な使命を受け入れた。彼は、自らがこの世界に来た、本当の意味を、今、ようやく理解したのかもしれない。
「……分かった。それが、我らが為すべきことならば」
彼の、その王としての覚悟に、絶望に沈んでいた仲間たちの顔に、再び、闘志の光が宿り始めた。
「……馬鹿げている」
帝国の将軍ヴァレンティンが、絞り出すように言った。
「世界の命運を、あの役立たずと……ロムグール王に委ねるだと? だが……」
彼は、悔しそうに顔を歪ませた。
「……あの絶望の奔流を前に、それ以外に道がないというのも、また事実か。よかろう。我ら帝国の残光も、その狂気の賭けに乗ってやる」
「堕ちた英雄の魂を救う……。騎士として、これ以上の誉れはない」
グレイデンが、その隻眼に鋼の決意を宿して頷く。
「へっ、とんでもねえ作戦だな」
ファムが、不敵に笑った。
「だが、ボスが決めたんなら、俺たちはやるだけだ。あの魔王の首元まで、あんたたち二人を、無傷で送り届けてやる。それが、俺たち闇滅隊の仕事だ」
アレクシオスは、仲間たちの顔を見渡した。帝国も、騎士団も、影の部隊も、今、確かに一つの意志の下に集っている。
絶望の淵から、人類の最後の反撃計画が、産声を上げた。
それは、魔王を討つための戦いではない。
一人の、哀れな英雄の魂を、千年の悪夢から救い出すための、あまりにも、哀しい救出作戦の始まりだった。
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