第百五十九話:エルヴァン要塞への集結
王都が難民問題という内なる嵐に揺れる中、大陸の未来をその双肩に背負った二つの部隊は、それぞれの死闘を乗り越え、ついに約束の地へと帰還を果たそうとしていた。
その地とは、ロムグール王国北壁、エルヴァン要塞。
だが、彼らの目に映ったのは、もはや「不落」とは呼べない、巨大な傷跡そのものだった。
かつて”不動”のグラズニールによって無残に砕かれた城壁は、今もなお生々しい崩落の痕跡を晒している。
崩れた箇所には応急処置として仮設の木柵や土塁が築かれ、その上で兵士たちが昼夜を問わず復旧作業に汗を流していた。
響き渡るのは、勝利の凱歌ではない。
鉄を打つ槌音と、木材を運ぶための怒声。
それは、絶望の淵から這い上がろうとする者たちの、必死の喘ぎ声だった。
最初にその門をくぐったのは、東の果て、ヤシマより帰還したアレクシオス率いる第二部隊『星砕きの刃』だった。
「……ひどい有様だな。だが、この状況で、よくぞ持ちこたえてくれた」
アレクシオスは馬から降り、目の前の惨状と、それでもなお闘志を失わぬ兵士たちの姿に、王として、そして共に戦う者として、静かな敬意を込めて呟いた。
出迎えたのは、隻眼の司令官、グレイデン・アストリア。
彼は先の戦いで左目を失い、その顔には深い傷跡が刻まれていたが、その隻眼に宿る光は、以前よりも遥かに強く、そして揺るぎない覚悟に満ちていた。
彼は、王の無事な姿を認めると、その場に力強く片膝をついた。
「アレクシオス陛下! ご無事で……! お見苦しいところをお見せします。ですが、この北壁、まだ死んではおりませぬ!」
「ああ、見ている」
アレクシオスは自らの手でグレイデンの肩を掴み立たせた。
「貴殿と、ここにいる兵たちの不屈の魂が、この砦を支えているのだな。心から感謝する」
アレクシオスの背後では、同じく長い旅路で疲弊した闇滅隊の面々が馬から降りていた。
「へっ、随分とボロボロじゃねえか、この砦。まあ、残ってただけマシか」
ファムは、相変わらずの憎まれ口を叩きながらも、その瞳には故郷の砦の惨状に対する、隠しようのない痛みの色が浮かんでいた。
数日後。
今度は南の街道から、もう一つの部隊が姿を現した。
リリアナ率いる第一部隊『賢者の手』の帰還だった。
「リリアナ!」
アレクシオスは、見張り台からの報せを受け、自ら仮設の城門へと駆けつけた。
そこにいたのは、旅立つ前よりも遥かにやつれ、しかし、その瞳に深い思慮と、何かを乗り越えた者だけが持つ静かな強さを宿した、リリアナの姿だった。
「陛下……! アレクシオス様……!」
リリアナは、王の姿と、そして彼の背後に広がる要塞の痛々しい傷跡を認めると、その目に安堵と悲しみの涙を浮かべた。
指揮官としての重圧と、あまりにも過酷な旅路に、その心はすり減っていたのだ。
アレクシオスは、そんな彼女の労をねぎらうように、その肩をそっと抱き寄せた。
「よく、やり遂げてくれた。リリアナ」
その温かい一言だけで、彼女のこれまでの苦労は、全て報われたような気がした。
「リリアナ、ヴァレンティン将軍はどうした?姿が見えないようだが」
アレクシオスは、リリアナの肩に手をかけたまま問う。
「……ヴァレンティン将軍は、国内の混乱のため、一時的に離脱しました」
顔を真っ赤にしたリリアナは、俯きながらそう答える。
そして、一行の中に、ひときわ異彩を放つ一人の少女が、静かに佇んでいた。
大賢者セレヴィア。
彼女は旅の間、ほとんど言葉を発さなかったが、その虚ろな瞳は、しばしば、ある一点に向けられていた。
今もまた、彼女の視線は、リリアナ――田中樹に、静かに注がれている。
この、あまりにも頼りなく、そしてどこか壊れている少年の魂から、なぜ、あの太陽のように眩しかった親友の『光の匂い』がするのか。
その理解不能な矛盾が、彼女の千年の孤独を苛んでいた。
アレクシオスは、皆が揃ったことを確認すると、セレヴィアの前へと進み出た。彼は王として、この伝説の賢者に正式な挨拶をする。
「大賢者セレヴィア殿。ロムグール国王、アレクシオス・フォン・ロムグールである。改めて、礼を言う。貴女が千年もの間、世界を守るための知恵をその身に宿し、眠り続けてくれたことに。そして、今、我らの呼びかけに応え、目覚めてくれたことに」
その、王の真摯な挨拶。
セレヴィアは、その虚ろな瞳を、ゆっくりとアレクシオスに向けた。
「……礼など、不要です」
その声は、か細く、しかし凛としていた。
「わたくしは、ただ、自らの罪から逃げていただけの、臆病者ですから」
「それでも、だ」
アレクシオスは顔を上げた。
「貴女の存在が、我々にとって、どれほどの希望か。どうか、その力を、未来のために貸してはくれまいか」
アレクシオスが、そう言って真っ直ぐに彼女を見つめた、その瞬間だった。
セレヴィアの、千年の間、何物にも動じなかったはずの瞳が、驚愕に見開かれた。
彼女の視線は、アレクシオスの顔ではない。
その腰に佩かれた、一振りの剣に、釘付けになっていた。
星々の如き装飾が施された、古びた鞘。
そこから漏れ出す、微かだが、決して見間違えるはずのない、聖なる気の奔流。
「……その剣は……」
セレヴィアの声が、震えた。
「なぜ……あなたが、それを……? あるはずが、ない。あれは、千年前、ハルキと、共に……」
彼女の脳裏に、千年前の絶望が、鮮やかに蘇る。
友の最後の姿、そして、その手に握られていた、光と闇に飲まれたはずの伝説の刃。
星詠みの神剣。
その、あまりにも重い名が、千年の時を超え、今、目の前の王の腰で、確かに脈打っている。
その事実は、彼女の、固く閉ざされていた心の扉を、激しく揺さぶるには、十分すぎるほどの衝撃だった。
彼女は、目の前の王と、その後ろで不思議そうにこちらを見る勇者を交互に見つめ、理解不能な運命の悪戯に、ただ唇をわななかせることしかできなかった。
こうして、大陸の未来を左右する英雄たちが、それぞれの傷と、それぞれの希望を胸に、再建途上のエルヴァン要塞の地に、ついに集結した。
国王にして神剣の担い手、アレクシオス。
王国最強の魔術師、リリアナ。
千年の時を超えた大賢者、セレヴィア。
帝国の誇りを背負う将軍、ヴァレンティン。
王直属の影の刃、闇滅隊。
そして、その魂に誰も知らない奇跡を宿す、役立たずな勇者、田中樹。
彼らはまだ知らない。
この再会が、魔王との最終決戦へ向けた、最後の、そして、最も過酷な序曲の始まりに過ぎないことを。
だが、今は、ただ互いの無事を喜び、そして、この束の間の再会を、静かに噛み締めるだけだった。
北壁の空は、嵐の前の静けさに満ちていた。
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