第百五十三話:剣の願い
第二の試練を終えた俺は、広間に現れた巨大な螺旋階段の前に立っていた。
手には、先ほど台座から現れた、星々の装飾が施された古びた『鞘』を、確かに握りしめている。
それは、俺が王としての器を示したことの証であり、最後の試練へ進むための、唯一の鍵だった。
俺はその鞘を腰に佩くと、覚悟を決め、螺旋階段を一人、静かに下りていった。
一歩踏み出すごとに、足元から星屑のような光が舞い上がり、静寂の中で、俺自身の心臓の音だけが大きく響く。
それは、まるで世界の創生、あるいは終焉へと向かう道程のようだった。
階段は、もはや物理的な建造物ではなかった。
壁はなく、ただ足元の光の段差だけが、暗黒の虚空に続いている。
周囲を見渡せば、手の届きそうな距離に、巨大なガス星雲が紫色の光を放ち、別の方向では、年老いた赤い恒星が、その命の最後の輝きを放っている。
生まれては消えていく星々の営みを、時の流れから切り離された特等席で見下ろしているかのようだ。
俺は、思考を巡らせていた。
【王の威光】、そして【勇者の魂】。
王として民を背負う覚悟と、勇者として理不尽に立ち向かう資格。
この社は、俺には、その二つを兼ね備えることを求めている。
第一が知恵、第二が魂であったなら、最後は純粋な「力」を試されるのかもしれない。
あるいは、もっと残酷な、選択を。
この道の先に何が待っていようと、もはや引き返すことはできない。
俺は、ロムグール王国の、いや、この大陸全体の命運を背負って、ここに来たのだから。
どれほどの時が流れたのか。
千段は下りただろうか、あるいは一万段か。
時間の感覚すらも失われた頃、ようやく階段の終わりが見えてきた。
その先に広がっていたのは、広間ではなかった。
そこは、宇宙そのものだった。
床も壁もなく、俺はただ、星々が浮かぶ広大な虚空に、一本だけ伸びる光の道の上に立っていた。
道の遥か先、その終着点に、一つの強烈な輝きが見える。
俺は、一歩、また一歩と、その光の道を進んだ。
そして、ついに、その輝きの前にたどり着く。
そこに、それはあった。
巨大な、青白い水晶の塊。その中心に、一本の長剣が、まるで星の心臓のように突き刺さり、静かな、しかし絶対的なまでの輝きを放っていた。
星詠みの神剣の『刃』。
その刀身は、夜空そのものを写し取ったかのように、深い蒼色に輝き、その内部には、無数の星々が瞬いている。
それはただの武器ではない。
一つの世界、一つの宇宙が、その刃の中に封じ込められているかのようだった。
そして、その輝きの奥から、俺は、千年の時を超えた、深い、深い哀しみを感じ取っていた。
最後の試練は、ただ、この刃を手にすること。
俺は、ゆっくりと、その柄へと手を伸ばした。
王としてではない。勇者としてでもない。
ただ、この世界の理不尽に立ち向かう、一人の男として。
俺の指先が、星屑を散りばめたかのような冷たい柄に触れた、その瞬間。
凄まじい絶望の濁流が、俺の魂を喰らいに来た。
―――断末魔。肉が引き裂かれる音。魔王の爪が、最後の仲間を塵に変えた。腕の中で砂のように崩れていく温もり。ハルキ、と最後に呼ばれた名。
―――虚無。守るべきものを全て失い、聖剣がただの鉄塊に変わる瞬間。
―――呪詛。『こんな世界、なくなってしまえ』。英雄の祈りが、世界を滅ぼす呪いへと反転する。
―――融合。魔王の混沌と、勇者の絶望が、一つになる。千年に渡る、哀しい悪夢の始まり。
「ぐ……っ!」
意識が、ハルキの絶望に塗り潰される。
だが、その、魂すら凍てつかせる底なしの絶望の、さらに奥のその最深部に、俺は、確かに感じた。
それは、あまりにもか細く、消え入りそうな、しかし、決して消えることのない、一つの、温かい光だった。
『―――ちがう。僕は、こんなことを、望んだわけじゃ……』
それは、絶望に呑まれ、世界を呪うハルキとは、全く別の、もう一人の彼の、魂の叫びだった。
仲間を守りたかった。世界を救いたかった。
ただ、それだけを願っていた、英雄の、最後の、たった一欠片の「善なる心」。
絶望が己の魂を喰らい尽くす寸前、彼は、その最後の心だけを、この神剣に切り離し、託したのだ。
未来に現れるであろう、後継者のために。
俺は、全てを理解した。
この試練は、俺に絶望を乗り越えさせるためのものではない。
この、あまりにも哀れで、孤独な、英雄の最後の欠片を、俺が見つけ出し、その手を取ることができるのかを、試していたのだ。
俺の【王の威光】が、絶望の濁流を受け止める。
そして、俺の【勇者の魂】が、その奥で震える、か細い光に、共鳴する。
その時、ハルキの善なる魂が、俺の魂の、さらに奥深くにある本質に触れた。
俺が、決して誰にも明かしたことのない、根源の記憶に。
脳裏に、鋼鉄のビル群と、アスファルトの匂い、そして、鳴り響く踏切の音が、一瞬だけ蘇る。
『……君も、なのか……?』
ハルキの魂から、驚愕と、そして、千年の時を超えた、初めての親愛の念が伝わってくる。
『……そうか。君も、『向こう側』から……。だから、僕のこの絶望に、呑まれなかったのか……』
「―――お前の気持ちは、俺が引き継ぐ」
俺は、力強く、刃を水晶から引き抜いた。
そして、その神々しい刃を、腰に佩いていた、星詠みの『鞘』へと、ゆっくりと納める。
カチリ、と。
千年の時を超え、刃と鞘が一つになった瞬間、神剣が壮絶な輝きを放った。
それは、破壊の光ではない。ハルキの魂が、千年の孤独から解放された、歓喜の光だった。
その時、完成した神剣から、直接、俺の心に、声が響いた。
それは、もはや懇願ではない。ハルキの魂が、俺と一体となり、共に戦うことを誓う、力強い意志だった。
『―――ありがとう、同胞よ。そして、我が主よ』
『絶望に呑まれ、魔王と成り果てた、哀れな僕の半身を……僕の、本当の心を、君に託す』
『どうか、千年の悪夢を、終わらせてほしい』
剣の、本当の願い。
それは、魔王を「討伐」することではなかった。
絶望に囚われ、世界を呪う自分自身を、その最後の善によって、救済すること。
「……ああ。約束する」
俺は、その、あまりにも重い魂の願いを、静かに受け止めた。
手にした神剣を、強く握りしめる。
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