第十七話:王の苦渋と再起への誓い ~次はこちらから仕掛ける番だ!~
「若き国王陛下も、あの老獪な古狸の前では、少々分が悪かったようでございますな。……完敗、でしたかな、陛下?」
マーカス辺境伯が謁見の間から悠然と引き揚げていった後、俺の傍らにいつの間にか進み出ていた宰相イデン・フォン・ロムグールは、隠しようもない嘲弄の色をその瞳に浮かべ、そう言い放った。
その言葉は、静かだが、鋭い刃のように俺の胸に突き刺さった。
しかも、だ。
辺境伯が謁見の間を去った後、リリアナが慌てて衛兵に確認させたところ、あの狸爺は俺の返答を待つでもなく、さも「お願い」が聞き入れられて当然とでもいうように、僅かな供回りを連れて悠々と王都の門を出立した後だったというではないか!
まさに、王である俺を、そしてこのロムグール王国を、完全に手玉に取ったつもりなのだろう。
(完敗……だと? いいや、まだだ。まだ、何も終わってはいない……! あの狸爺め、好き勝手言ってくれる……!)
俺は、イデンのその挑発的な視線を受け止め、唇を噛み締める。
確かに、マーカス辺境伯の老獪な手管と、その傲岸不遜な態度は、今の俺の想像を遥かに超えていた。
国王暗殺計画への関与が疑われる身でありながら、このタイミングで王城に乗り込み、あまつさえ「対魔王戦における辺境伯領の役割」を盾に、自領への軍備増強という名の「お願い」を突きつけ、返事も聞かずに立ち去るとは。
それは、忠誠の申し出の形を取った、巧妙な脅迫以外の何物でもない。
エルヴァン要塞という国の生命線を盾に、俺を揺さぶり、自らの影響力をさらに増大させようという魂胆だろう。
「……陛下、お気を確かに。あの辺境伯の言葉、鵜呑みにするにはあまりにも……。陛下のお顔の色が優れません。すぐに薬師を…ロザリア殿をお呼びいたしますか?」
リリアナが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
彼女の白い頬も、心労からか少し青ざめて見えた。
「ああ、分かっている。大丈夫だ、リリアナ」俺は、深いため息と共に答えた。
「あれは、奴の腹芸だ。だが、完全に無視することもできん。奴の言う『エルヴァン要塞への後詰』が、たとえハッタリであったとしても、あるいは本気だとしても、我々はその真意を確かめ、そして対応を練らねばならん。」
俺は腕を組んで考え込む。
「奴は、俺の返事を待たずに去った。それは、俺に『選択の余地はない』と、暗に圧力をかけているのだろうな」
「フィンを呼べ。そして、リリアナ、バルカス、宰相。緊急の対策会議を開く。辺境伯の提案の裏を徹底的に洗い出し、我々が取るべき最善の策を見つけ出すのだ。……時間は、ないぞ!」
俺の言葉に、その場にいたリリアナとバルカスの顔に緊張が走る。
宰相イデンは、相変わらず感情の読めない表情で、静かに頷いた。
数時間後。
国王執務室には、俺、リリアナ、バルカス、そして呼び出されたフィンと、再び宰相イデンが集まっていた。
テーブルの上には、ロムグール王国の詳細な地図、ガルニア帝国との国境付近の戦力配置図、そしてマーカス辺境伯領に関する最新の資料が所狭しと広げられている。
窓の外は既に夕闇に包まれ、部屋の中は魔法灯の柔らかな光だけが頼りだった。
「さて、皆の意見を聞きたい。マーカス辺境伯の、あのふざけた……いや、巧妙な『お願い』について、どう思う? そして、奴が返事も聞かずに立ち去ったこと、その意味合いも含めてだ」
俺がそう切り出すと、最初に口を開いたのは、ここ数日、王城の書庫に籠ってロムグール王国の財政と法制度を猛烈な勢いで分析していたフィンだった。
彼の目の下には濃い隈ができていたが、その瞳は知的な興奮で爛々と輝いている。
「……王様、はっきり言って、あの狸爺の言ってることは、十中八九、自分の領地の軍備を国費で増強させ、あわよくば騎士団の実権、いや、この国の実権そのものを握ろうって魂胆だぜ。魔王対策なんざ、ただの、それもとびきり都合のいい口実に決まってる」
フィンは、腕を組み、壁に積み上げられた羊皮紙の束を顎でしゃくりながら、いつものように辛辣な口調で言い放った。
「奴の狙いは、明らかにあんた……いや、国王陛下を揺さぶり、ゲルツ騎士団長の粛清で空いた権力の空白と、魔王っていう危機的状況を利用して、自分がこの国のナンバー2、いや、実質的な支配者になろうってことだ。そのための軍備増強であり、徴税権の拡大であり、街道整備だ。」
フィンは目をこすりながら言う。
「これらを認めちまったら、辺境伯領はますます独立国家みてえになっちまう。ロムグール王家の権威なんざ、風前の灯火どころか、跡形もなく消し飛ぶぜ。返事を待たずに帰ったってのは、『俺の要求を呑む以外に道はない。さもなくば、エルヴァン要塞への補給路を断つぞ』ってことの、無言の最終通牒みたいなもんだろうな。全く、えげつないやり方だ」
フィンの分析は、俺の考えとほぼ一致していた。
その的確すぎる指摘に、俺は内心で頷く。
「しかし、フィン殿。もし、万が一にも辺境伯が本気でエルヴァン要塞の後詰を行う意思があり、そしてそれが可能な兵力を有しているとしたら? 魔王の脅威が現実のものである以上、彼の申し出を無下に断ることも……。それに、エルヴァン要塞への補給が滞れば、グレイデン司令官たちが……」
リリアナが、憂いを帯びた表情で懸念の声を上げる。
彼女の指摘ももっともだ。辺境伯の要求は無茶苦茶だが、その背景にある「力」は無視できない。
「ふむ。辺境伯の私兵は、我が騎士団の現状からすれば、質・量ともに無視できぬ存在だ。特に、先の粛清で騎士団が弱体化している今となってはな。そして、彼の領地はエルヴァン要塞への唯一の生命線でもある。彼が本気で反旗を翻せば、あるいは魔王の脅威を口実に何もしなければ……エルヴァン要塞は孤立し、ロムグール王国は、魔王の前に、なすすべもなく滅びることになりかねん。あの男、それだけのことをやりかねん男だ」
バルカスも、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。彼の言葉には、かつて同じ騎士団に籍を置きながらも、袂を分かったマーカス辺境伯という男の危険性を熟知している者の重みがあった。
「……陛下」それまで黙って議論を聞いていた宰相イデンが、静かに口を開いた。
「マーカス辺境伯の今回の行動、確かに大胆不敵。そして、極めて計算高い。しかし、見方を変えれば、彼もまた追い詰められているのかもしれませぬな」
「追い詰められている、だと?」
俺は、意外な言葉にイデンを見返す。
「左様。陛下による騎士団の粛清は、辺境伯にとって大きな誤算であったはず。彼は、ゲルツ騎士団長を傀儡とし、騎士団を掌握することで、王国内での影響力をさらに盤石なものにしようと画策していたはずです。」
宰相は、よいですか……と続ける
「それが、陛下の予想外の『覚醒』と、バルカス殿の復帰、そして今回の粛清劇で頓挫した。さらに、魔王復活の兆候という、彼にとっても無視できぬ、そして彼の領地が真っ先に脅威に晒される可能性のある厄災。この二つの状況が、彼を『一か八かの賭け』に出させた……そうは考えられませぬか? 彼が返事を待たずに立ち去ったのも、陛下に考える時間を与えず、自らの要求を呑ませようという焦りの表れやもしれませぬな。あるいは、我々の足並みの乱れを誘うための、巧妙な罠か」
イデンの言葉に、俺はハッとした。
確かに、そういう見方もできる。
あの老獪な辺境伯が、ただ強気なだけではない。
彼なりの焦りや計算が、あの傲岸不遜な態度の裏には隠されているのかもしれない。
「辺境伯の『お願い』……すなわち、自領の軍備増強は、表向きは対魔王のためと称しつつ、その実、陛下への対抗勢力としての力を蓄えるため。そして、『忠誠の証』と称する『エルヴァン要塞への後詰』は、陛下を牽制し、自らの要求を呑ませるためのブラフ……まさに、彼の老獪な策略と、底知れぬ深慮遠謀のなせる業でしょうな」
イデンは、まるで全てを見通しているかのように淡々と語る。
(……この宰相も、やはり食えん男だ。だが、彼の分析は的を射ている。辺境伯は、俺を試している。そして、この国難を利用して、最大限の利益を引き出そうとしているのだ)
俺は、辺境伯の目的とイデンの言葉を頭の中で照合する。
確かに、辻褄が合う。
「では、どうすべきだとお考えかな、宰相? 辺境伯の要求を呑むか、それとも突っぱねるか」
俺は、単刀直入に尋ねた。
「ふふ……それは陛下がお決めになること。ですが、一つ申し上げられるとすれば……あの古狸は、自らの利益のためならば、平気で嘘もつき、人も裏切る男。しかし、同時に、自らの破滅に繋がるような無謀な賭けには出ぬはず。」
一呼吸間を置き、俺の顔を見据える。
「彼もまた、このロムグール王国という船が沈むことは望んでおりますまい。……少なくとも、自分がその船を意のままに操れるようになるまでは、ですがな。彼の要求を全て呑むのは愚策。しかし、全てを拒絶し、彼を追い詰めすぎるのもまた、賢明とは言えませぬ」
イデンの言葉は、相変わらず謎めいていたが、その奥には確かな戦略眼が感じられた。
要するに、「上手く手玉に取りつつ、利用できるところは利用しろ」ということか。
(……つまり、辺境伯の提案は、全てが嘘というわけではないかもしれないが、鵜呑みにするのは危険。だが、完全に拒絶すれば、奴は追い詰められて暴発する可能性もある。奴は、俺の返事を待たずに去ったことで、俺にプレッシャーをかけている。ならば……こちらも、奴の予想を超える形で応えねばなるまい。そして、その回答を示す場は……)
俺の頭の中で、いくつものシミュレーションが高速で繰り返される。
そして、一つの、危険だが、あるいは現状を打開しうるかもしれない結論に達した。
「……分かった。辺境伯への回答は、俺自身が辺境伯領へ赴き、直接伝える。そして、その場で、奴の真意と、我が国の覚悟を、改めて示してやる」
俺は、リリアナ、バルカス、フィン、そして宰相イデンに、俺の決断を告げた。
それは、辺境伯の土俵に自ら乗り込むという、極めて危険な賭けとも言える策だった。
「陛下、それはあまりにも危険すぎます! 辺境伯領は、まさに敵の本拠地ではございませんか!」リリアナが悲鳴に近い声を上げる。
「なりません、陛下! いくらなんでも無謀すぎます! 辺境伯がどのような罠を仕掛けてくるか……!」バルカスも必死で止めようとする。
フィンは黙って何かを高速で計算しており、その表情は「成功確率、著しく低し。ただし、成功した場合のリターンは大きい」とでも言いたげだ。
宰相イデンは、興味深そうに、そしてどこか面白がるように俺の顔を見つめていた。
「危険は承知の上だ。だが、このままでは、我々は辺境伯の言いなりになるか、あるいは彼との全面対決を余儀なくされるかのどちらかだ。それよりも、俺自身が動くことで、新たな道が開けるかもしれん。それに……」
俺は、不敵な笑みを浮かべた。
「あの狸爺に、『完敗』したままでは終わられんからな。どちらにしてもエルヴァン要塞には、近いうちに俺自身が視察と激励に行かねばと思っていたところだ。そのついでに、辺境伯にも『ご挨拶』してくるだけの話よ。俺にも考えがある」
辺境伯が残していった「謎の提案」の分析と、それに対するアレクシオスの大胆な対応策。
そして、魔王という共通の脅威に対抗するための「対魔王大陸戦略会議」の準備などが、同時進行で進められていく。
俺の胃は、相変わらずその存在を主張し続けていたが、不思議と、以前ほどの絶望感はなかった。
頼りになる仲間たちと、そして、この手で未来を切り開くという確かな決意が、俺を支えてくれているのかもしれない。
一方、その頃、王城の片隅では、我らが勇者、田中樹は……。
バルカスから課せられた「勇者のための特別訓練メニュー」から、またしても逃げ出し、厨房でつまみ食いをしようとして料理長(最近ではすっかり樹の天敵と化している)に見つかり、巨大なお玉を振り回されながら追いかけ回されていた。
「待てコラァ! この勇者め! またつまみ食いか! 今度こそ許さんぞ!」
「うっせーな! 俺は腹が減ってんだよ! 勇者は腹が減るもんなんだ! ステーキ食わせろー! あと、ファンクラブの設立も忘れるなよなー!」
そのあまりにも平和な(?)光景は、束の間、国の危機を忘れさせてくれる……わけもなく、俺の胃痛をさらに悪化させるだけだった。
全く、どいつもこいつも、俺の胃に優しくない。
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