第百五十一話:第二の試練・勇者の魂
第一の試練、無限回廊を突破した俺を待ち受けていたのは、静寂に満ちた、広大な円形の広間だった。
俺が足を踏み入れた瞬間、背後の壁は音もなく完全に閉ざされ、退路は断たれた。
広間の中央に、古びた石の台座が一つだけぽつんと置かれている。
俺がそこへ近づくと、台座は淡い光を放ち、直接俺の脳内に、声なき声が響き渡った。
『―――汝が魂の輝きを示せ。王の器を、勇者の資格を、我に示せ』
その言葉が合図だった。
広間を囲む壁の闇が、まるで生きているかのように蠢き始める。
床の石畳の隙間から、黒い靄のようなものが、じわりと滲み出してきた。
「……これは……」
次の瞬間、その無数の闇から、おびただしい数の「何か」が、一斉に姿を現した。
人の形をしているが、その輪郭は曖昧で、まるで影そのものを固めて作ったかのようだ。
実体はなく、ただ純粋な怨念と絶望だけが、その存在を規定している。
邪悪な霊体。その数、数百か、あるいは千か。
俺は王剣を抜き放ち、最も近くにいた霊体に斬りかかった。
剣は確かな手応えと共に霊体を切り裂き、それは悲鳴もなく霧散する。
だが、一体倒したところで、その背後から二体、三体と、無限に湧いてくるようだった。
そして、本当の攻撃は、物理的なものではなかった。
一体の霊体が、俺の鎧に触れた。
その瞬間、凄まじい悪寒と共に、俺の意識は、この広間から引き剥がされた。
気づけば、俺は、雪と血に染まるエルヴァン平原の、あの丘の上の司令部に立っていた。
眼下では、モルガドール軍の圧倒的な物量の前に、俺が率いた兵士たちが、次々と肉塊へと変わっていく。
『陛下! なぜです! なぜ、我らはこのような無謀な戦いを!』
『母さん……家に、帰りたかった……』
『寒い……寒いよ、陛下……!』
声が、直接脳を揺さぶる。それは、俺の命令で死んでいった、名もなき兵士たちの、最後の声だった。
俺は、指揮を執ることも、剣を振るうこともできず、ただ、司令官として、彼らが蹂躙されていく様を、永遠に見せつけられる。
俺のスキル【絶対分析】は、ただ、味方の損耗率が100%に達するまでの、無慈悲なカウントダウンを映し出すだけだった。
「やめろ……」
俺がそう呟いた瞬間、景色が再び反転した。
今度は、見覚えのある、王都の司令室。
だが、俺はそこに実体として存在しない。まるで、幽霊のように、ただ、そこにいるだけだ。
目の前では、若き天才フィンと、老獪な宰相イデンが、突如として現れた魔王ヴォルディガーンと対峙していた。
『―――君が、その剣で、自ら命を絶つというのなら、この二人の命は、見逃してあげよう』
魔王の、あまりにも残酷で、気まぐれな提案。
俺は叫んだ。やめろ、と。
だが、俺の声は、誰にも届かない。
イデンは、満足げに、そして、どこか安堵したかのように、笑った。
『……わしは、宰相。国を守り、王に尽くすのが、わしの本分。―――たとえ、その身命を賭してでも、な』
そして、彼は、ためらうことなく、自らの心臓へと、そのレイピアを、深々と、突き立てた。
「やめろぉぉぉぉぉっっ!!」
俺の絶叫は、誰にも届かない。
俺は、王として、この国を預かる最高責任者として、最も忠実な臣下の一人が、俺の不在の間に、俺が残した未来を守るため、自ら命を絶っていく様を、ただ、見ていることしかできなかったのだ。
幻影が晴れる。
俺は、再び、広大で暗い広間に、一人、膝をついていた。
だが、もはや、俺の心は、完全に折れていた。
王剣は、手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てて床に転がる。
「……そうだ。俺の、せいだ」
兵士たちが死んだのも、イデンが死んだのも、全て、俺の判断が招いた結果だ。
俺が、王の器などではなかったからだ。
俺が、ただの、異世界から来た、元社畜の偽物だったからだ。
邪悪な霊体の群れが、もはや抵抗する意志を失った俺に、ゆっくりと、しかし確実に、その黒い手を伸ばしてくる。
(……もう、いい。これで、終わりだ。ようやく、休める……)
絶望が、俺の心を完全に覆い尽くそうとした、その時。
(……いいや、違う)
俺は、歯を食いしばり、震える足で、再び立ち上がろうとした。
俺は、聖人ではない。完璧な英雄でもない。
俺は、相馬譲という、後悔と、無力感にまみれた、ただの社畜だった男だ。
そして、今は、アレクシオスという、多くの民の命と、仲間たちの信頼をその双肩に背負う、不完全な王だ。
「そうだ。俺は、聖人でも、勇者でもない」
俺は、王剣の代わりに、自らの、血の滲む拳を、強く握りしめた。
そして、両腕を広げ、押し寄せる絶望の奔流を、その身に受け止める覚悟を決めた。
「俺は、王だ! 民の嘆きも、兵の無念も、そして、イデン、お前の死の重みも、その全てを背負うのが、俺の役目だ! 俺の魂が清らかかどうかなど、どうでもいい! この身が、この魂が、民を守るための器となるのなら、いくらでも穢されよう!」
俺は叫んだ。それは、王としての、そして、一人の人間としての、魂からの宣言だった。
「来い! お前たちの苦しみ、俺が全て、受け止めてやる!」
その覚悟が、引き金だった。
俺の身体から、静かで深く、そして、どこまでも気高い、王の威光を帯びた、蒼銀の光が溢れ出した。
それは、田中樹の【神聖領域】のような、絶対的な光ではない。
むしろ、その逆。
全ての苦しみ、全ての嘆きを、優しく包み込み、そして、受け入れる、慈愛にも似た、赦しの光だった。
『……ああ……』
『……温かい……』
俺に殺到していた霊体たちは、その蒼銀の光に触れた瞬間、そのおぞましい形相を、穏やかな、安らかな表情へと変えていく。
彼らの魂を縛っていた、千年の怨念が、俺の覚悟によって、浄化されていくのだ。
彼らは、攻撃するでもなく、ただ、俺の周りを、静かに漂い、そして、一人、また一人と、満足げな表情で、光の粒子となって、天へと昇っていく。
この試練は、全ての絶望を、その身に受け止める覚悟―――「魂」そのものを、試していたのだ。
広間には、再び静寂が戻った。
俺は、膝をつき、荒い息を繰り返しながらも、自らの内から溢れ出した、この未知の力の、その温かい余韻に、ただ、呆然としていた。
―――そして、中央の台座が、再び、より一層強い光を放ち始めた。
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