第百五十話:王の分析
これは、無限ループじゃない。
超巨大で、超複雑な、「立体迷路」だ。
その結論に至った瞬間、俺の脳内に、まるで暗闇に一条の光が差し込んだかのような、強烈な閃きが走った。
絶望的なまでの疲労と消耗感は消え去り、代わりに全身を駆け巡るのは、難解なパズルを前にした時のような、挑戦的な高揚感だった。
俺の口元に、久々の、そして心の底からの不敵な笑みが浮かぶ。
そうだ。この試練の本質は、不屈の闘志を試すための、ただの根性試しなどではない。
それは、挑戦者の「思考」そのものを試す、極めて悪趣味で、そして精巧な知恵の輪だ。
俺は戦略を根本から切り替えた。
もはや、あの黒い騎士は倒すべき敵ではない。
奴は、この迷宮を巡回する警備員であり、ループの周期を知らせる時報だ。
そして、この回廊は監獄ではなく、解くべき巨大な数式そのもの。
俺は執務室の椅子に座るように、床に腰を下ろした。
そして、この理不尽なまでの試練という名の「プロジェクト」を完遂するための、具体的なタスクリストを頭の中で組み上げていく。
前世で、何度も何度もやってきたことだ。
まず、情報の収集と整理。
俺は、次のループが始まるのを待った。
やがて、予期した通り、前方の通路から剣霊が音もなく姿を現す。
「さて、と。仕事の時間だ」
俺は剣を構え直すが、その意識はもはや戦闘にはない。
回避に専念しながら、【絶対分析】の全能力を、戦闘ではなく「観測」の一点に集中させる。
剣霊の刃が頬を掠める。
熱も冷気も感じない、奇妙な感触。
だが、そんなことには構わず、俺の目は壁の一点を捉えて離さなかった。
一つの石材に刻まれた、古代文字のような紋様。その線の数、湾曲の角度、交差する位置。
その全てを、瞬時に記憶し、脳内に三次元データとして保存していく。
剣霊が、一定の時間が経過して姿を消すと、俺はすぐさま行動に移った。
近くに落ちていた、先ほどの戦闘で壁から剥がれ落ちた石の欠片を拾い上げる。
そして、このループの「スタート地点」と思われる広間の隅、比較的目立たない床に、その鋭利な石片で、今記憶したばかりの紋様のパターンを克明に刻み込み始めた。
(まずは基準となるデータを一つ。これを基点に、変数と法則性を見つけ出す)
まるで、膨大なエクセルシートの最初のセルに、基準値を入力していくかのような作業だった。
次のループ。
俺は、同じように幻影の騎士の攻撃を回避しながら、今度は床の石畳のパターンに意識を集中させた。
石の材質、並び方、そして、それぞれの石が持つ微細な魔力の残滓。
その情報を、先ほど床に刻んだ壁の紋様の隣に、新たなデータとして追加していく。
壁の紋様をA、床のパターンをBとする。
次のループでは、天井の構造(C)を。
その次は、回廊を流れる魔力の方向と密度(D)を。
番人が現れては消え、その度に俺は新たな情報を収集し、床のキャンバスに書き加えていく。
それは、地獄のような、しかしどこか懐かしい作業だった。
三徹目の深夜オフィス。
膨大な市場データの中から、たった一つの、数パーセントの利益に繋がるかもしれない法則性を見つけ出すために、モニターの数字とグラフを睨み続けた、あの頃の記憶。
目が霞み、頭痛がし、カフェインと栄養ドリンクだけが生命線だった、あの理不尽な日々。
あの時の経験がなければ、俺の心はとっくの昔に折れていただろう。
だが、今の俺にとって、この試練はもはや恐怖の対象ではなかった。
ただ、解くべき「仕事」でしかなかった。
数十回目のループを終える頃には、広間の隅の床は、俺が刻み込んだ無数の図形と数式、そして記号で、さながら狂人の研究室のような様相を呈していた。
それは、この立体迷宮の、不完全ながらも、巨大な設計図の一部だった。
そして、データが蓄積されるにつれ、【絶対分析】が、それらの情報の中から、驚くべき法則性を弾き出し始めた。
(……見えてきたぞ)
壁の紋様(A)が特定のパターンを示す時、床の石畳(B)は必ず三番目の配列となり、その場合、回廊の魔力(D)は必ず北から南へと流れる。
そして、その条件下で出現する剣霊は、他のパターンの時よりも、明らかに攻撃速度が速い。
変数と変数が、複雑に絡み合い、一つの巨大なアルゴリズムを形成している。
これは、ただの迷路ではない。挑戦者の行動パターンすらも読み取り、常に最適化された罠を生成し続ける、生きた迷宮なのだ。
(……そうだ。この試練は、挑戦者の魂そのものを試している。千年前の勇者――ハルキとか言ったか――彼のような、圧倒的な闘志と力を持つ者ならば、この無限に現れる剣霊を、その精神力だけで打ち破り、道をこじ開けたのかもしれない。だが、俺は違う。俺は勇者ではない。王だ。俺の武器は、剣ではなく、思考。ならば、俺には俺のやり方があるはずだ。この試練は、俺に『王の戦い方』で突破しろと、そう問うているのだ)
それは、社畜時代の俺が、数々の理不尽な要求の裏に隠された真の課題を見つけ出し、解決してきた経験から得た、確信だった。
俺は、さらに分析を続けた。
剣霊を倒すのではなく、その巡回パターンと出現条件を読み切ることに、全ての思考を注ぎ込む。
そして、百回目を超えるループを数えた頃だろうか。俺はついに、その「抜け道」を発見した。
ある特定の条件下――壁の紋様が「三日月」を示し、床の石畳が「五角形」を描き、そして魔力が「渦を巻く」ように流れるループ。
その時に限り、回廊の三番目の右の曲がり角の、その壁だけが、ほんの一瞬、物理的な実体を失い、通り抜けられるようになっているのだ。
その時間は、わずか数秒。
剣霊が姿を消してから、次のループが完全にリセットされるまでの、ほんの僅かなインターバル。
(……これだ。これしかない)
俺は、床に刻んだ巨大な分析図を見下ろし、確信と共に立ち上がった。
残る問題は、その「特定の条件」が、いつ訪れるかだ。
それには特定のトリガーがあるはずだ。
俺は、再び、剣霊との死の舞踏を繰り返しながら、そのトリガーを探し続けた。
そして、ついに、その最後のピースを見つけ出した。
トリガーは、俺自身の行動だった。
剣霊との戦闘の際、俺が「特定の三つの回避行動」を、「特定の順番」で実行した時だけ、次のループで、あの「抜け道」の条件が揃うのだ。
(……なるほどな。不屈の闘志だけでなく、冷静な観察眼と、そして、自らの行動が世界に与える影響を正確に予測する、王としての資質そのものを試していたというわけか。どこまでも、悪趣味な試験だ)
俺は、再び現れた剣霊を前に、不敵な笑みを浮かべた。
最初の回避は、右へ大きく跳躍。
二度目の回避は、低く屈み込み、刃を足元でいなす。
そして、三度目の回避は、剣を盾に、あえて後方へと大きく弾き飛ばされる。
俺が、計算通りの三つの行動を終えると、剣霊は、いつも通り、音もなく闇へと消えていった。
俺は、荒い息を整えながら、回廊を駆け出した。
壁の紋様が、三日月を描いている。
床の石畳が、五角形を形作っている。
空気中の魔力が、肌にまとわりつくように、渦を巻いている。
(―――ビンゴだ)
俺は、三番目の右の曲がり角へと、全速力で駆ける。
そして、目の前の、どこからどう見ても、ただの石の壁に、俺は、一切の躊躇なく、その身を投じた。
ふわり、と。
身体が、冷たい水の中を通り抜けるような、奇妙な浮遊感。
そして次の瞬間、俺は、固い石の床の上に、確かに立っていた。
振り返ると、そこには、もはやあの無限回廊はなかった。
ただ、固く閉ざされた、一枚岩の壁があるだけだ。
「……はぁ……はぁ……。クリア、したのか……」
安堵と共に、蓄積された疲労が、一気に全身を襲う。
だが、休んでいる暇はなかった。
目の前には、広大な円形の広間が広がっていた。
光源のないその空間の中央に、ただ一つ、古びた石の台座が静かに鎮座している。
その上には、まだ何もない。
だが、俺がこの広間に足を踏み入れた瞬間、その台座が、淡い光を放ち始めた。
―――第二の試験が、今、始まろうとしていた。
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