第百四十九話:第一の試練・無限回廊
俺、アレクシオス・フォン・ロムグールが覚悟を決めて虚空に現れたその道へと一歩足を踏み入れた瞬間、世界の法則が書き換わった。
足元にあったはずの天の川のような光の帯が、確かな石の感触へと変わる。
それと同時に、周囲に広がっていた無限の星空が、まるでカーテンコールを終えた舞台のように、急速に闇の奥へと後退していった。
代わりに、左右の何もない空間から、音もなく、滑らかな石材でできた壁がせり上がってくる。
頭上では、最後の星雲が渦を巻いて消え、同じく継ぎ目一つない石の天井が、俺の世界を完全に覆い尽くした。
気づけば俺は、入り口も出口もない、永遠を思わせる回廊の真ん中にただ一人、立っていた。
光源は見当たらず、空間全体がぼんやりとした青白い光に満たされ、影というものが存在しない。
ひんやりとした空気が肌を撫で、何の匂いもしなかった。
生命の気配が完全に欠落した世界だ。
「……さて、と。まずは状況把握からだな」
俺は自らに言い聞かせるように呟くと、壁に手を添えて慎重に歩みを進めた。
どれほどの時間歩いただろうか。
十分か、あるいは一時間か。
この空間では時間の感覚すらも曖昧になっていく。
景色は一切変わらず、どこまで行っても同じ石の回廊が続くだけだった。
(精神的な攻撃か? 孤独と閉塞感で挑戦者の心を折るタイプの試練か……?)
そう考えた、まさにその時だった。
俺は足を止めた。
前方の通路の曲がり角から、一つの人影が音もなく、すうっと姿を現したのだ。
それは古代の騎士のような、全身を黒い鎧で覆った人型の何かだった。
手には実体があるのかないのかも判然としない、半透明の長剣を握っている。
顔の部分は深い闇に包まれ、その奥に二つの赤い光点だけが感情なくこちらを見据えていた。
何よりも異様なのはその存在感だ。
生き物特有の気配も魔物が放つ邪気も一切感じられない。
ただ、そこに「いる」という事実だけが圧倒的な圧力となって俺の全身にのしかかってくる。
「……何者だ」
俺は腰に佩いた王剣を抜き放ち、問いかける。
だが返事はなかった。
赤い光点が俺をロックオンしたかのようにぴたりと静止する。
そして次の瞬間、その姿がブレた。
速い!
俺は咄嗟に剣で受け止めようとしたが、その黒い騎士――「剣霊」とでも呼ぶべき存在は、俺の剣を幻のようにすり抜け、半透明の刃を俺の心臓めがけて突き出してきた。
「ぐっ……!?」
俺は咄嗟に体を捻ってそれを回避する。
刃は俺の鎧を掠め、キィン!と甲高い音を立てた。
幻影ではない。
その一撃には確かに質量と、そして明確な殺意が込められていた。
(こちらの攻撃は通じないが、向こうの攻撃は当たる、か。随分と理不尽なルールだな)
前世の、絶対に勝てない仕様のクソゲーを思い出し、内心で悪態をつく。
剣霊は一撃を外すと再び音もなく距離を取り、赤い光点で俺を観察している。
俺は【絶対分析】を発動させた。
だが脳内に流れ込んできた情報は、絶望的なまでに空白だった。
【名前】剣霊(仮称)
【総合評価】正体不明。攻撃命中時に実体化か?撃破は不可能。回避に専念することを推奨する。
「……はっ、ご親切にどうも」
俺は脳内の無慈悲なアナウンスに皮肉を返し、剣を構え直した。
倒せないのなら、やり過ごすしかない。
剣霊は再び音もなく襲いかかってきた。
俺はその神速の斬撃を、時に剣で受け流し、時に転がるようにして回避し続ける。
それはもはや戦闘ではなく、一方的な死の舞踏だった。
どれほどの時間が経っただろうか。
剣霊はふいにその動きを止めると、来た時と同じように音もなく通路の闇へと消えていった。
俺は荒い息を繰り返しながらその場に膝をついた。
全身から滝のような汗が噴き出す。
(……一体、なんなんだ、今の化け物は……)
休む間もなく、俺は再び歩き始めた。
この忌々しい回廊から一刻も早く脱出するために。
だがその希望は、すぐに、より深い絶望へと変わった。
壁のごく僅かな傷。
それは先ほどの戦闘で、俺自身が剣霊の攻撃を弾いた際に剣先が当たってつけてしまったものだった。
「……嘘だろ」
俺は今、まさに出発したはずの元の場所に戻ってきていたのだ。
無限ループ。
その言葉が脳裏に浮かび、背筋を冷たい汗が伝う。
それから、俺の本当の地獄が始まった。
歩いても、歩いても、景色は変わらない。
そして一定の時間が経つと、必ずあの剣霊が現れる。
俺は何度も、何度も、あの死の舞踏を繰り返した。
食事も睡眠も許されない。
疲労は肉体だけでなく、精神を確実に蝕んでいく。
十数回目のループを終えた頃だろうか。
もはや自分が何のために剣を振るっているのかも分からなくなってきていた。
朦朧とする意識の中、目の前の剣霊の姿が、かつて俺を追い詰めた別の顔と重なった。
『相馬君、これ、明日朝イチで頼むよ。君だけが頼りだ』
無茶な要求を笑顔で押し付けてくる、田中部長の顔。
終わらない仕事。
積み上がる書類の山。
栄養ドリンクだけが生命線の、孤独なデスク。
あの時もそうだった。
まるで無限の回廊を一人で彷徨っているようだった。
『―――もう、無理だ』
あの時最後に呟いた言葉が、今この異世界で再び俺の口から漏れそうになる。
心が、折れかけていた。
膝が笑い、剣を握る手が震える。
剣霊は、その隙を見逃すはずもなかった。
半透明の刃が今度こそ俺の喉元を正確に捉え、死の冷気が肌を撫でた。
(……ここまで、か)
俺が死を覚悟し目を閉じた、その瞬間。
脳裏に、王として過ごした日々の光景が、走馬灯のように駆け巡った。
民の歓声。
リリアナの献身。
フィンの生意気な笑顔。
ロザリアの優しさ。
バルカスの不器用な忠誠。
ファムのぶっきらぼうな信頼。
(……いや、違う)
俺は、相馬譲ではない。
(俺は、王だ)
彼らの未来を、この手で切り拓くと誓った、ロムグール国王アレクシオスだ。
(ここで、死ぬわけには、いかない)
俺は最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
剣霊の刃が喉元の皮一枚を切り裂く。
だが俺は、生きていた。
ぜえ、ぜえ、と荒い息をつきながら、俺はゆっくりと立ち上がった。
そして気づいた。
「……待てよ。この理不尽さ、覚えがあるぞ」
そうだ。
社畜時代もそうだった。
ただの根性論で乗り切れる仕事なんざたかが知れている。
本当にヤバい案件には、必ずどこかに「システムの穴」や「矛盾点」があった。
上司の命令の言葉の裏を読み、取引先の無理難題の本当の狙いを見抜く。
そうやって俺は、何度もあの地獄を生き延びてきたのだ。
これは『闘志』を試す試練だ。
だが勇者の資質を問うなら、ただの消耗戦であるはずがない。
どこかに必ず、くだらない「攻略法」が隠されているはずだ。
俺の思考が切り替わった。
俺は剣霊に向かって剣を構えるのをやめた。
そしてこの「試練」という名の理不尽なシステムそのものと、対峙することを決めた。
「もう、お前の茶番には付き合わん」
再び現れた剣霊を前に、俺は戦闘を放棄した。
ただひたすらにその攻撃を回避し、そして回廊そのものを「観察」することに全神経を集中させたのだ。
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