第百四十八話:王というイレギュラー
俺が、覚悟を決めて「千年の門」の奥へと一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
ゴオオオオオオオオオンン……ッ!
背後で、地響きのような、しかしどこか哀しげな轟音が響き渡った。
振り返るまでもない。千年の沈黙を守ってきた門が、再びその重い口を閉ざした音だ。
つい先ほどまで感じていたファムたちの気配が、まるで分厚い鉛の壁に遮られたかのように、ぷつりと完全に断絶される。
音も、光も、風の匂いすらも、外の世界から切り離された。
まるで、宇宙空間にただ一人、放り出されたかのようだ。
『……死ぬなよ、ボス』
ファムの、ぶっきらぼうだが、不器用な信頼に満ちた声が、幻聴のように耳の奥で響いた気がした。
「…………」
絶対的な静寂と、孤独。
そして、目の前に広がるのは、およそこの世のものとは思えぬ光景だった。
そこは、道ではなかった。
床も、壁も、天井もない。
俺は、まるで星々が浮かぶ夜空の真ん中に、ただ一人、漂うように立っていた。
足元には、天の川のような光の帯が流れ、遠くには、見たこともない色の星雲が、ゆっくりと渦を巻いている。
重力という概念すら、ここでは曖昧なようだ。
「……なるほど。物理法則が通用しない、精神世界に近い空間か」
俺は、努めて冷静に状況を分析する。
前世のブラック企業で叩き込まれたスキルの一つだ。
どんな絶望的な状況でも、まずは現状を把握し、分析し、解決策を探す。
パニックになったら、そこで終わりだ。
だが、頭では理解していても、この、あまりにも巨大で、そして根源的な孤独は、じわじわと俺の精神を蝕んでくる。仲間がいない。
頼れる者が、誰もいない。
(なぜ、俺だけが、この門を開くことができた……?)
脳裏に、ヤシマの長クロガネの言葉が蘇る。
『―――この門は『常ならざる魂の持ち主』…この世界の理から外れた者にしか開けぬ』
常ならざる魂。世界の理から外れた者。
イレギュラー。
バグ。
規格外品。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
そうだ。俺は、最初から、この世界の住人ではなかった。
過労死した、ただの会社員、相馬譲。
それが俺の本質だ。
蛍光灯が明滅する、殺風景なオフィス。
栄養ドリンクの空き缶が林立するデスク。
深夜三時、誰もいなくなったフロアで、終わりの見えないエクセルと格闘していた、あの夜。
『相馬君だけが頼りだ』。その一言で、定時で帰った上司の仕事を押し付けられる。
同期は心を病むか、とっくに会社を去っていった。
俺だけが、「勇者様(笑)」と揶揄されながら、全ての部署の尻拭いを続けていた。
あの時、俺は本当に、ただ休みたかっただけなのだ。
それが、過労死という、最悪の形で叶えられた。
女神の気まぐれで、アレクシオス・フォン・ロムグールという王の器に、無理やり押し込まれただけの、異物。
これまでも、その「異質さ」に、何度も助けられてきた。
誰もが諦めるような国の財政状況を、現代知識で分析し、再建の道筋をつけた。
凝り固まった貴族社会の常識を、社畜として培った現実主義で打ち破ってきた。
俺の持つスキル【絶対分析】も、【人心掌握】も、おそらくはこの世界の理からすれば、ありえない力なのだろう 。
だが同時に、その「異質さ」は、常に俺を孤独にした。
誰も、俺の本当の苦悩を理解できない。
役立たずな勇者に振り回される苛立ちも、日に日に悪化する胃痛も、そして、いつか全てが破綻するのではないかという、夜ごと俺を苛む恐怖も。
(結局、どこへ行っても同じか。前の世界でも、この世界でも、俺はただ、他人の尻拭いと問題解決のために、身を粉にするだけの運命なのか……)
自嘲気味な笑みが、口元に浮かぶ。
だが、その感傷は、すぐに別の感情に塗り替えられた。
脳裏に、いくつもの顔が浮かぶ。
『陛下……!』と、常に俺を案じ、その身を賭して支えてくれる、リリアナの、信頼に満ちた瞳。
『御意』と、多くを語らずとも、その背中で忠誠を示してくれる、バルカスの不器用な覚悟。
『王様、あんたの計算は甘えが、まあ、俺がなんとかしてやるよ』と、憎まれ口を叩きながらも、国の未来を本気で憂う、フィン、そして、ロザリアの若く真っ直ぐな眼差し。
そして、命を賭して俺を守ろうとする、ファムたちの、影の刃。
彼らは、俺を「王」として信じ、この国の未来を託してくれた。
俺が「イレギュラー」だからこそ、救えた命がある。
俺が「世界の理の外側」にいるからこそ、描ける未来がある。
ならば。
「……上等じゃないか」
俺は、虚空に向かって、誰に言うでもなく、そう呟いた。
「イレギュラーで、結構。バグで、大いに結構だ」
そうだ。
この世界が、魔王という、あまりにも理不尽な「バグ」によって脅かされているのなら。
それを修正できるのは、同じ「バグ」だけなのかもしれない。
常識で戦っても勝てない相手ならば、常識の外から殴るしかない。
それは、前世で、数々の理不尽な要求を突きつけてくる取引先や上司を相手に、俺が嫌というほど学んだ、唯一の生存戦略だった。
相馬譲は、過労死した。
誰に認められることもなく、感謝されることもなく、ただの歯車として摩耗し死んだ。
だが、国王アレクシオスはまだ生きている。
そして、彼には守るべき民と、信頼してくれる仲間がいる。
俺は、この「転生者」という特異性を、呪われた運命としてではなく、与えられた最強の「武器」として、今、この瞬間、完全に受け入れることを決意した。
俺がイレギュラーであるという事実を、この世界の理が弾き出そうとするのなら、その理そのものを、俺の都合の良いように書き換えてやるまでだ。
(社畜根性、なめるなよ……! 俺は、もう、誰かのための捨て駒として死ぬのはごめんだ。今度こそ、俺自身の意志で、意味のある仕事をやり遂げてやる!)
俺が、そう覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
目の前の、星々が浮かぶ空間が、まるで俺の決意に応えるかのように、揺らめき始めた。
そして、何もないはずの虚空に、一本のどこまでも続く無限回廊のような道が、ゆっくりとその姿を現したのだ。
「……さて、と」
俺は、剣の柄を強く握りしめた。
「最初の試練の時間、というわけか」
王として、そして、この世界の唯一の「イレギュラー」として。
俺は、迷うことなく、その、果てしなき試練の道へと、最初の一歩を、踏み出した。
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