第百四十五話:英雄たちの黄昏
意識が、浮上する。
リリアナが最初に感じたのは、温かい陽光と、頬を撫でる、穏やかな風の感触だった。
「……ここは……?」
彼女は、自らの身体が、半透明の、まるで幽体のような存在になっていることに気づいた。
周囲の仲間たちもまた、同じように、実体を失った「観測者」として、困惑した表情で佇んでいる。
目の前に広がるのは、聖域の、あの水晶の広間ではない。
どこまでも続く、緑豊かな草原だった。
空はどこまでも青く、遠くでは、名も知らぬ鳥たちが、楽しげにさえずっている。
そして、彼らのすぐ側で、焚火を囲む、六人の男女の姿があった。
「―――だから言っただろうが、セレヴィア! お前の作るシチューは、見た目は壊滅的だが、味だけは天下一品だと!」
岩のように屈強な体躯を持つ大剣使いの男、ボルグが、その無精髭を揺らしながら、豪快に笑う。
「なんですって、ボルグ! 貴方、私の純粋な善意を、見た目で判断するのですか!」
千年前の、若き日の大賢者セレヴィアが、頬を膨らませて言い返す。
「がっはっは! 見た目も味のうちよ、嬢ちゃん! だがまあ、ボルグの言う通り、こいつは悪くねえ! 俺の故郷の酒にも合うってもんだ!」
そのボルグの隣で、さらに一回り大きな体躯の、見事な編み込み髭を揺らすドワーフの男――トゥヴァル・グロースハールが、酒の入った皮袋を片手に、陽気に笑った。
「まあまあ、皆さん。セレヴィアの善意が、この美味しさの秘訣なのでしょう」
そう言って、柔和な笑みを浮かべたのは、風のようにしなやかな体つきの、精悍な女騎士、アストリッドだった。
彼女の隣では、森の緑をそのまま瞳に映したかのような、優雅なエルフの女性――イリーヌ・グリーヴィスが、静かに頷き、その弓に刻まれた紋様を、愛おしげに撫でている。
そして、その六人の中心で、太陽のように眩しい笑顔を浮かべ、仲間たちのやり取りを、心から楽しそうに見つめている、一人の青年。
「ハルキ……様……」
リリアナは、息を呑んだ。
彼こそが、伝説の勇者。
その瞳には、一点の曇りもなく、この世界を救うという、絶対的な希望の光が宿っていた。
一行は、言葉もなく、理解した。
自分たちの意識が、大賢者セレヴィアの、千年前の記憶の世界に、迷い込んだのだと。
次の瞬間、世界が、反転する。
一行は、巨大なドラゴンの骸が横たわる、渓谷の頂上に立っていた。
民衆の、熱狂的な歓声が、地鳴りのように響き渡る。
「「「勇者様、万歳! 英雄たちに、女神の祝福を!」」」
ハルキが、その聖剣を天に掲げると、歓声は、さらに大きくなった。
彼は、民衆の喝采に、はにかみながらも、誇らしげに、手を振って応えている。
「……すごい……」
樹が、呆然と呟いた。
「これが……『勇者』……」
自分とは、あまりにも違う。
民に愛され、仲間を愛し、そして世界を愛する、完璧な英雄の姿。
樹は、その眩しさに、思わず目を細めた。
だが、その輝かしい記憶は、すぐに血と炎の記憶に塗り替えられる。
戦場だった。
相手は、魔王軍四天王が一人モルガドール。
その圧倒的な力の前に、英雄の仲間たちは、次々と、その膝をついていく。
「ハルキ! 危ない!」
大剣使いのボルグが、モルガドールの渾身の一撃からハルキを庇い、その巨体をいとも容易く貫かれた。
「ボルグウウウウウウッ!!」
ハルキの、絶叫が響き渡る。
彼の心に、初めて仲間を失うという、修復不可能な亀裂が入った瞬間だった。
旅が、続く。
仲間を失った悲しみは、しかし、残された者たちの絆を、より強く結びつけた。
だが、魔王軍の攻勢は、さらに激しさを増していく。
一行は、摩耗し、疲弊し、そして、また一人、また一人と、仲間を失っていった。
ドワーフのトゥヴァルは、崩れ落ちる遺跡の中で、一行を逃すための殿を務め、その瓦礫の下へと消えた。
女騎士アストリッドは、瘴気にあてられ動けなくなったセレヴィアを庇い、沼の主である巨大な魔獣の毒牙にかかった。
エルフのイリーヌは、最後の力で、森の精霊たちの力を借りて巨大な結界を張り、仲間たちを救った代償に、その身が光の粒子となって、森へと還っていった。
ハルキの、太陽のようだった笑顔は、いつしか、消え失せていた。
その瞳には、仲間を失ったことへの深い哀しみと、どれだけ戦っても終わりの見えない戦いへの、底なしの疲労の色が、浮かんでいた。
セレヴィアが、必死に、彼を支えようとする。
だが、彼女自身もまた、その心を、少しずつ、すり減らしていた。
そして、一行の意識は、最後の記憶へと、たどり着く。
終焉の谷。魔王ヴォルディガーンが、その居城を構える、絶望の大地。
そこにたどり着いた時、ハルキの隣にいたのは、もはや、セレヴィア、ただ一人だった。
目の前にそびえる、あまりにも巨大で邪悪な魔王城を前に、ハルキは、ついにその場に立ち尽くした。
彼のその手から、か細い音を立てて、聖剣が地面に滑り落ちた。
「……もう、戦えない」
その、か細い、絶望の言葉。
「ハルキ……?」
セレヴィアが、信じられないといった表情で、彼を見つめる。
「もう、無理だよ、セレヴィア。ボルグも、アストリッドも、トゥヴァルも、イリーヌも、みんな、死んだ。僕が、弱かったからだ。僕が、勇者なんかじゃ、なかったからだ。もう、誰も、守れない。世界なんて、救えるはずがない……」
ハルキの瞳からは、完全に希望の光が消え失せていた。
その、あまりにも変わり果てた親友の姿を前に、セレヴィアの心もまた折れた。
仲間たちの死、そして目の前の絶対的な絶望を前に、彼女は、戦うことを放棄してしまったのだ。
「ハルキ、逃げよう! 私たちでは、勝てない!」
彼女はハルキの腕を掴み、この場から逃げ出そうとした。
それこそが、彼女が千年間苛まれ続ける、賢者としての、仲間としての、最大の罪だった。
だが、ハルキは、動かなかった。ただ、虚ろな目で天を仰いでいる。
彼女は、その手を、離してしまった。
……そして、一人、その場から、逃げ出した。
リリアナたちが、声なき絶叫を上げる。
だが、観測者である彼らには、何もできない。
ただ、為す術もなく、見ていることしか、できなかった。
一人、戦場に残された心折れた勇者が、魔王城から溢れ出した絶対的な闇に、ゆっくりと、静かに、飲み込まれていく、その様を。
その、最後の光景を焼き付けたまま、一行の意識は、凄まじい勢いで、現実の世界へと、引き戻された。
彼らは、水晶の広間で、倒れていた。
だが、その瞳に宿る色は、ここへ来る前とは、全く、違うものに変わっていた。
千年前の、英雄の絶望。そして、賢者の罪。
その、あまりにも、重すぎる真実を、彼らは、その身をもって、知ってしまったのだ。
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