第百四十四話:千年氷解
空間に穿たれた亀裂は、世界の理そのものに刻まれた傷跡のように、静かながらも荘厳な光を放っていた。
千年の拒絶が生み出した嘆きの迷宮が、たった一人の少年の、あまりにも純粋で、あまりにも常識外れな行動によって、その心臓部への道をこじ開けられたのだ。
一行は、呆然と立ち尽くしていた。
目の前には、聖域の壁に刻まれた巨大な亀裂。
その先には、これまでとは明らかに雰囲気の異なる、静寂に満ちた一本の道が、奥へと続いている。
「……道が、できたのか?」
サー・レオンが信じられないといった様子で呟く。
「リリアナ殿の理知的な説得でも、将軍の魂からの叫びでもなく……勇者殿の、あの行動が……これほどの奇跡を……」
ライアスもまた、自らが守るべき少年が引き起こした、理解の範疇を超えた現象に言葉を失っていた。
「……くだらん。ただの気まぐれか、偶然の産物だ」
最初に我に返ったのはヴァレンティンだった。
彼は忌々しげに吐き捨てたが、その瞳の奥には、自らの論理では到底説明のつかない現象への、隠しようのない動揺が浮かんでいた。
「とにかく、道は開かれた。この好機を逃す手はない。進むぞ」
「い、いえ、偶然ではありませんわ」
リリアナは、亀裂から放たれる、哀しいながらもどこか安堵したような魔力の奔流を感じ取り、震える声で言った。
「あの方は、千年間、ずっと独りで泣いておられたのです。誰にも届かぬ声で。そこに、初めて……何の計算も、何の駆け引きもない、ただ純粋な『優しさ』が触れた。だから、あの方の心も……ほんの少しだけ、開かれたのかもしれません」
彼女の視線の先には、自分が何をしでかしたのか全く理解できず、「え? なんで? 俺、なんかした?」と、ただきょとんとしている勇者、田中樹の姿があった。
一行は互いを支え合うようにして、ゆっくりと亀裂の先へと足を踏み入れた。
亀裂の向こう側は、これまでの通路とは全く異なる空間だった。
壁も床も天井も、全てが寸分の曇りもない完璧な透明度の水晶でできていた。
巨大なダイヤモンドの内部を歩いているかのようだ。そして何よりも違ったのは空気だった。
それまで一行を苛んでいた刺すような「拒絶」の意志は消え失せ、代わりに空間全体が言葉にできぬほどの深く穏やかな「哀しみ」に満ちていた。
千年の時をかけて凍てついた涙の結晶の中を歩いているかのようだった。
壁に手を触れると、ひんやりとした感触と共に、直接脳内に、声なき声が響いてくるような錯覚に陥る。
それは、後悔と、自責と、そして、失われた日々への、果てしない追憶だった。
通路を進むうち、一行は奇妙な光景を目にする。
水晶の壁の、その内部に、まるで水の中に絵の具を落としたかのように、朧げな光景が、音もなく浮かび上がっては、静かに消えていくのだ。
それは、大賢者セレヴィアの、千年前の記憶の断片だった。
屈強なドワーフの戦士と、どちらが多くの酒を飲めるか競い合い、豪快に笑う、若き日のセレヴィア。
森の奥で、気難しいエルフの弓使いに、古代魔法の真髄を説き、呆れられている彼女。
そして、その中心には、いつも、太陽のように明るい笑顔を浮かべた、一人の青年の姿があった。勇者ハルキだ。
「……これが、大賢者様の、記憶……。ドワーフとエルフは伝説上の存在ではなかったのね」
リリアナは、そのあまりにも眩しい光景に、胸を締め付けられた。
希望に満ち、仲間との絆を信じて疑わなかった、若き日の英雄たちの姿。
それは、あまりにも温かく、そして、これから起こるであろう悲劇を知る者にとっては、あまりにも哀しい光景だった。
「フン。過去の栄光にすがる、ただの亡霊だ」
ヴァレンティンは、そう吐き捨てる。
だがその瞳は、仲間たちと笑い合う皇帝の幻影を、自らの記憶に重ね合わせるかのように、僅かに揺れていた。
樹は、ただ、黙って、その光景を見ていた。
自分とはあまりにも違う、完璧な「勇者」の姿。
仲間たちに囲まれ、心から笑う、光の中の存在。
それが、彼の胸に、どんな感情を呼び起こしているのか、彼自身にも分からなかった。
ただ、胸の奥が、チリリと痛むような、奇妙な感覚があった。
やがて一行は、道の先に、広大な円形の広間を見つけた。その中央に、それは静かに安置されていた。
巨大な、青白い水晶の棺。
それはただの石の箱ではなかった。
大賢者セレヴィアの美しい肉体そのものが長い年月をかけて水晶へと変化したかのような有機的な曲線を描いていた。
その表面には古代の魔術文字が淡い光となって明滅を繰り返している。
そして、棺の周囲の床には、千年の間にこぼれ落ちたのであろう無数の水晶の涙が、まるで宝石のように、キラキラと輝きながら散らばっていた。
一行はその荘厳かつ哀しい光景に言葉を失った。
誰もが棺に近づくことを躊躇した。
この神聖な眠りを妨げてはならない。そんな畏敬の念が彼らの足を縫い付けていた。
「……リリアナ」
樹が、小さな声で、リリアナに話しかけた。
「……あの人、ずっと、一人で、泣いてたのか……?」
「……ええ。きっと、そうなのね」
リリアナは、静かに頷いた。
彼女が、代表として、覚悟を決めた。
この、あまりにも深い哀しみを、これ以上独りにしてはおけない。彼女が、その棺へと一歩、足を踏み出した。
リリアナの強い意志に呼応したのか。
あるいは、千年の孤独を破られた、大賢者の最後の抵抗だったのか。
彼女の足が、床に散らばる無数の「涙の結晶」の一つに触れた、その瞬間だった。
世界が、白く染まった。
床に散らばる全ての涙の結晶が、一斉に、まばゆい光を放ち始めたのだ。
「うわっ!?」
「な、なんだこれは!」
それは、ただの光ではない。結晶の一つ一つが、まるで映写機のように、千年前の記憶の断片を、凄まじい速度で、空間全体に乱雑に投影し始めた。
仲間たちと笑い合う、若き日のセレヴィア。
希望に満ちた瞳で、聖剣を掲げる勇者ハルキ。
燃え盛る戦場、屈強なドワーフの戦士の絶叫。
エルフの弓使いの悲鳴。
勝利の歓喜。
敗北の絶望。
友情。
裏切り。
愛。
憎しみ。
希望。
そして、それを全て塗りつぶす、圧倒的な、千年の孤独。
光景だけではない。喜び、希望、友情、そして、それを上回る圧倒的な苦痛、悲しみ、絶望といった感情そのものが、奔流となって一行の精神に直接流れ込んでくる。
「ぐっ……ああああああっ!」
ヴァレンティンが、頭を抱えて膝をつく。
彼の脳裏に、帝都陥落の記憶と、千年前の英雄たちの死の光景が、混じり合って焼き付けられる。
「やめ……やめてくれ……!」
樹は、自らの無力さと、ハルキの絶望を、同時に味わわされ、その場にうずくまった。
レオの、最後の穏やかな顔が、仲間たちの血に染まっていく。
一行は、あまりにも膨大な情報量と、千年の絶望の重みに耐えきれず、次々とその場に倒れていく。
彼らの意識が、セレヴィアの記憶の奔流に飲み込まれ、混濁していく。
最後に、リリアナの薄れゆく視界の端に、太陽のような笑顔を浮かべた、若き日の勇者ハルキの姿が、鮮明に映り込んだ。
『―――行こう、セレヴィア! 僕らが、この世界を救うんだ!』
その、あまりにも眩しく、そして、あまりにも哀しい、希望に満ちた声が聞こえたのを最後に、彼女の意識は、完全に、千年の追憶の渦の中へと、沈んでいった。




