幕間:北壁の獅子たち ~エルヴァン要塞、日々の鍛錬と迫る魔王の息吹~
アルカディア大陸北部、人界と魔族領ヴォルクリプトを峻厳に隔てる竜哭山脈。
その唯一の交通路であるエルヴァン峠には、あたかも巨大な獣が牙を剥くかのように、「不落のエルヴァン要塞」が黒々とした威容を誇っていた。
ここは、ロムグール王国における魔族の脅威に対する最前線であり、大陸全体の防波堤としての宿命を背負う地。
吹き抜ける風は常に冷たく、騎士たちの鎧に染み付いた鉄の匂いと、焚火の煙の匂いが混じり合い、独特の空気を醸成していた。
一年を通して雪に閉ざされることも珍しくなく、その過酷な環境は、ここに駐留する者たちの心身を否応なく鍛え上げていた。
要塞司令官グレイデン・アストリアは、今日もまた、鶏鳴と共にその巨躯を寝台から起こした。
年の頃は三十代後半。
先代騎士団長バルカスの薫陶を最も色濃く受け継いだ自称一番弟子であり、その鍛え上げられた体躯と、いかなる状況でも冷静さを失わない精神力は、彼が率いるエルヴァン要塞の騎士たちから絶対的な信頼を集める所以となっていた。
短い黒髪を無造作にかき上げ、鋭い眼光で窓の外の薄闇を見つめる。今日もまた、長い一日が始まる。
「エルヴァン要塞の朝は、鋼の音と共に始まる!」
グレイデンの、腹の底から絞り出すような野太い声が、まだ夜明けの薄闇に包まれた練兵場に響き渡る。
その声は、まるで鬨の声のように、眠気と戦う若い騎士たちの頬を打ち、彼らの瞳に闘志の火を灯した。
「応!」
「応!」
地鳴りのような雄叫びと共に、騎士たちが次々と練兵場に集結する。
寸分の乱れもない整列、研ぎ澄まされた剣技の応酬。
彼らは、騎士団中央の腐敗や王都の貴族たちの堕落とは無縁の、真の武人としての誇りを胸に、日々この極寒の地で鍛錬を積んでいた。
グレイデンは、師であるバルカスが不当に騎士団を追われた後も、その教えを頑なに守り、このエルヴァン要塞で厳しい規律と過酷な訓練を課し、ロムグール王国最後の砦たる精鋭部隊を維持し続けてきたのだ。
彼の存在そのものが、この要塞の魂であり、象徴であった。
訓練は苛烈を極めた。
朝靄の中、木剣が激しく打ち合う音、鬨の声、そして時折混じる苦悶の呻き。
グレイデンは、一切の妥協を許さない。
「そこだ! 踏み込みが甘い! 剣先がぶれているぞ! そんな剣で、オークの硬い皮膚を貫けると思うか!」
新兵の一人が、グレイデンの気迫に押されて尻餅をつく。その若い顔には、恐怖と悔しさが滲んでいた。
「立て! 騎士たるもの、一度や二度の失敗でくじけるな! お前たちが守るのは、このエルヴァン要塞だけではない。この城壁の向こうには、お前たちの家族が、友が、そしてロムグール王国の民が暮らしているのだ! その全てを守り抜く覚悟と力がなければ、騎士を名乗る資格はないと知れ!」
グレイデンの言葉に、若い騎士の顔が引き締まり、再び木剣を握りしめて立ち上がる。
その瞳には、新たな決意の光が宿っていた。
彼らは、この若き司令官の言葉の重みを、日々の訓練と、そして時折経験する実戦の中で、痛いほど理解していた。
「盾の構えが低い! ゴブリンの投石一発で体勢を崩すぞ! 常に敵の攻撃を予測し、先手を取れ! 隘路での戦闘は、一瞬の油断が命取りになる!」
別の新兵が、仲間との連携訓練で動きが遅れたところを、グレイデンは容赦なく叱咤する。
しかし、その声には単なる厳しさだけでなく、部下を死なせたくないという切実な想いが込められていた。
エルヴァン要塞での戦いは、常に実戦と隣り合わせ。訓練での一滴の汗が、戦場での一滴の血を防ぐのだと、グレイデンは身をもって知っていた。
昼前には、訓練の一環として、峠道の警邏部隊が編成された。
エルヴァン峠は、竜哭山脈を唯一越えられる道ではあるが、その道のりは険しく、視界の悪い場所も多い。
魔の森からはぐれた魔物が潜んでいることも日常茶飯事であり、警邏は決して気の抜けない任務だった。
「ゲルト副官、今日の警邏は私が先導する。新兵たちにも、実際の地形を肌で覚えさせたい。お前は後方から全体を見て、新兵の動きに注意を払ってくれ」
「はっ、司令官。承知いたしました」
老練な副官ゲルトに後方を任せ、グレイデンは数名のベテラン騎士と、十数名の新兵を率いて、重い鉄の門を潜り、雪解け水の流れる音だけが響く静かな峠道へと踏み出した。
道の両側には、切り立った岩壁が迫り、所々には深い森が影を落としている。
いつどこから魔物が現れてもおかしくない。
新兵たちの顔には緊張の色が浮かび、握りしめた槍の穂先が微かに震えていた。
「気を抜くな! 魔物は、お前たちのその恐怖心を嗅ぎつけてくるぞ!」
グレイデンの声が、新兵たちの気を引き締める。
数時間、慎重に峠道を進んだ彼らは、やがて岩陰に潜む数匹のゴブリンスカウトを発見した。
それは、エルヴァン要塞では日常的な遭遇だった。
「よし、訓練通りだ! 前衛、盾を構えろ! 弓兵、牽制! 決して突出するな、連携を意識しろ!」
グレイデンの的確な指示が飛ぶ。ゴブリンたちは、汚らしい棍棒を振り回し、奇声を上げながら襲いかかってくる。
新兵の一人が、恐怖からか一瞬動きが止まる。
「何をためらっている! 目の前の敵は、お前が倒さねば、仲間がやられるのだぞ!」
グレイデンの叱咤に、新兵はハッとしたように顔を上げ、震える手で槍を構え直す。
ベテラン騎士たちが巧みにゴブリンたちの攻撃を受け流し、新兵たちに攻撃の機会を作る。
最初はぎこちなかった新兵たちの動きも、実戦の中で徐々に連携が取れ始め、数分後には、全てのゴブリンが地に伏していた。
「……よし。だが、油断するな。最近のゴブリンは、以前よりも狡猾になっている。必ず周囲を警戒し、残党がいないか確認しろ。そして、討ち取った魔物の検分も怠るな。何か異変があるやもしれん」
グレイデンは、部下たちにそう指示を出しながら、自らもゴブリンの死骸を検分する。
その一体が、これまで見慣れない、奇妙な紋様の刻まれた黒曜石の欠片を握りしめているのに気づいた。
「……なんだ、これは……? この石から、妙な魔力を感じる……。まるで、生きているかのような……いや、もっと邪悪な……」
グレイデンは、その石片を慎重に拾い上げる。それは、彼の指先を焼くかのような、不気味な冷たさと、微かな魔力の脈動を放っていた。
要塞に戻ったグレイデンは、副官のゲルトと共に、自室で王都から届いたといういくつかの噂について話し合っていた。
エルヴァン要塞は辺境の地にあり、王都からの正式な情報はなかなか届きにくい。
ましてや、現在の騎士団中央は腐敗しきっており、グレイデンのようなバルカスの直弟子は、意図的に情報から遠ざけられている可能性すらあった。
実際には、アレクシオス国王や復権したバルカスは、エルヴァン要塞の重要性を認識し、何度も連絡を取ろうと試みていた。
しかし、それは、マーカス辺境伯をはじめとする守旧派貴族たちの巧妙な妨害工作によって、ことごとくエルヴァン要塞には届いていなかったのである。
「司令官、王都の商人から聞いたのですが……。なんでも、数百年ぶりに、あの『勇者召喚の儀』が成功したとか。そして、国王陛下も、まるで人が変わられたように国政に力を注いでおられ、さらには……バルカス様が、再び王城に召し出され、騎士団の再編にご尽力されている、などという話まで」
ゲルトは、少し声を潜めて言った。その顔には、期待と不安が入り混じっている。
「バルカス様が……? それは真か、ゲルト!」
グレイデンは、思わずゲルトの肩を掴んでいた。その声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「あくまで噂ではございますが……。複数の商人や、王都から来たという旅人からも同様の話が。しかし、バルカス様ご復権の報は、もし真であれば何らかの公式な連絡がエルヴァンにも届くはず。それが未だにないということは……やはり、単なる希望的観測に過ぎないのかもしれませぬな。あるいは、我々が知らないところで、何かが……」
ゲルトの言葉に、グレイデンの表情が曇る。
(確かに……。王都からの正式な連絡がないのは、中央の腐敗がそれほどまでに進行し、我々のような辺境の部隊が軽んじられている証左か……。あるいは、何者かが情報を遮断しているのか……? だが、もし噂が真実ならば……)
師であるバルカスの名は、彼にとって、そしてここにいる多くの騎士たちにとって、特別な響きを持っていた。
バルカスが騎士団を追われた日、グレイデンもまた剣を置こうと考えた。
だが、バルカスは「お前は残れ。このエルヴァン要塞を、ロムグール王国最後の砦として守り抜け。いつか、必ず真の王が現れる日が来る。その日まで、お前が獅子の牙を研ぎ続けよ」と、そう言い残して去っていったのだ。
その言葉を胸に、グレイデンは耐え忍んできた。
「勇者召喚も、まことなのでしょうか……。もし、本当に勇者様がこの国に来られたのなら……」
部屋の隅で武具の手入れをしていた若い騎士の一人が、期待に満ちた目で呟く。
彼は、先のゴブリン討伐で初陣を飾ったばかりだった。
「うむ。勇者様がいれば、魔の森から漂うこの不吉な気配も、吹き飛ばしてくださるやもしれん!」
「我々も、勇者様と共に戦える日が来るのだろうか!」
「勇者様は、きっと光り輝く鎧を身に纏い、天をも裂く聖剣を振るわれるに違いない!」
若い騎士たちは、まだ見ぬ勇者の姿を想像し、目を輝かせている。
その純粋な期待が、グレイデンには少し眩しく、そして同時に一抹の不安を感じさせた。
(勇者……か。確かに、もしそれが真実ならば、これ以上ない希望だ。だが、あまりにも話が出来すぎている。国王陛下の変化、バルカス様の復権、そして勇者召喚……。これが全て真実だとすれば、ロムグール王国は、まさに奇跡的な転機を迎えようとしていることになる。だが……この胸騒ぎは、一体何なのだ……? そして、あの黒曜石の欠片……あれが、どうにも不吉な予感を掻き立てる……)
グレイデンは、北の魔の森の奥深く、常に不吉なオーラを漂わせる「終焉の谷」の方角を見つめた。
ここ数ヶ月、あの森の空気が、以前にも増して重く、そして不気味な気配を濃くしているのを感じていた。
◇
そんなある夜だった。
エルヴァン要塞全体が、不気味な静寂と、そして得体の知れない圧迫感に包まれた。
動物たちは鳴き声を潜め、風の音すらも途絶えたかのように感じられた。
見張り台の松明の炎が、まるで生きているかのように不規則に揺らめいている。
「……なんだ、この気配は……? おい、何か感じるか?」
城壁で見張りをしていた騎士が、隣の同僚に不安げに囁いた。
同僚もまた、槍を握る手に汗を滲ませながら、緊張した面持ちで首を横に振る。
その瞬間、彼らの足元の大地が、微かに、しかし確実に震えた。
ドオオオオオオオオオン!!!!
魔の森の奥深く、竜哭山脈のさらに北、「終焉の谷」の方角から、天を焦がすかのような巨大な紫黒の魔力の柱が立ち上った!
それは、まるで大地そのものが裂け、冥府への扉が開いたかのような、おぞましい光景だった。
空は一瞬にして暗雲に覆われ、赤い稲妻が走り、大地が不気味に震え始めた。
要塞の石壁が、ミシミシと軋む音を立てる。
「総員、警戒態勢! あれは……! これが……古に伝わる魔王復活の予兆だというのか!?」
寝ずの番をしていたグレイデンは、即座に全軍に号令を発した。
彼の顔からは血の気が引き、しかしその瞳には、絶望ではなく、むしろ戦士としての覚悟の光が宿っていた。
「司令官! 魔の森から、魔物の斥候が……! いえ、これまでとは比較にならないほど強力な気配を持つ魔獣が、少数ながらも出現! エルヴァン峠へ向かって進軍を開始した模様です!」
斥候からの報告が、矢継ぎ早に飛び込んでくる。その声は、恐怖に上ずっていた。
「数は……今のところ十数体! しかし、その一体一体の魔力が、桁違いです! 先頭にいるのは……あれは……オーガ・バーサーカー、それにヘルハウンドの変異種! 後方には……何か、巨大な翼を持つ影も見えます!」
次々と報告される、質の高い脅威の情報に、百戦錬磨のエルヴァン要塞の騎士たちですら、顔色を失い、動揺を隠せない。
「怯むな! 各隊、持ち場を死守せよ!」
グレイデンは、自ら城壁の最前線に立ち、押し寄せる魔物の群れを睨み据える。
その個々の魔物の放つ気配が、明らかにこれまでとは異なっていた。
より強く、より狡猾に、そして何よりも、明確な「殺意」と、背後に潜む強大な「何か」の意志を持って。
「これが……世界の バランスを崩すという、魔王の顕現だというのか……。まだ序曲に過ぎぬというのに、これほどの……!」
グレイデンは、奥歯をギリリと噛みしめる。
少数精鋭の魔獣たちは、エルヴァン要塞の堅固な城門や城壁に対し、巧みな連携と圧倒的な力で攻撃を仕掛けてきた。
オーガ・バーサーカーの振り下ろす巨大な戦斧が城門を激しく打ち据え、ヘルハウンドの変異種の素早い動きが弓兵の狙いを惑わす。
騎士たちは、グレイデンの的確な指揮のもと、死力を尽くして戦う。
彼らの剣技は冴えわたり、魔法も唸りを上げて魔獣を打ち砕こうとする。
だが、敵はあまりにも強靭で、そして狡猾だった。
「ぐっ……! こいつら、硬い上に動きが読みにくい!」
最前線で戦う騎士の一人が呻く。
数名の騎士が、ヘルハウンドの素早い爪や牙によって傷を負い、後方に運ばれていく。
それでも、エルヴァン要塞の騎士たちは怯まなかった。
彼らは、師であるバルカスの教えと、司令官グレイデンの指揮を信じ、一歩も引かずに戦い続ける。
数時間に及ぶ断続的な小競り合いの末、騎士たちは辛うじて魔獣の斥候部隊を撃退することに成功した。
だが、その代償は小さくなく、多くの負傷者を出し、要塞内には緊張と疲労、そして得体の知れない脅威への不安が漂っていた。
「司令官! このままでは……。奴らの狙いは、本格的な侵攻前の威力偵察やもしれません! これほどの質の魔物が、今後も継続して現れるとなれば……!」
副官のゲルトが、血染めの剣を拭いながら、厳しい表情でグレイデンに進言する。
「弱音を吐くな、ゲルト。だが、お前の言う通りかもしれん。これは、単なる魔物の活性化ではない。もっと大きな……世界のバランスそのものを揺るがす何かが起ころうとしている」
グレイデンは、終焉の谷の方角から立ち上る、禍々しい魔力の奔流を睨み据えながら言った。
「これが……古に伝わる魔王復活の予兆だというのか!? まだ序曲に過ぎぬというのに、これほどの……!」
その時、要塞の魔力伝信室から、一人の通信兵が、鎧もまともに着けぬまま、血相を変えて駆け込んできた。
「グレイデン司令官! 王都へ……王都へ、この事態を知らせる緊急魔法伝信の準備が整いました! ですが、これほどの魔力の奔流の中、無事に届くかどうか……! そして、この異常事態を、どのように伝えれば……!」
ただでさえ貴重な魔法伝書は、強力な魔力障害が発生している状況下では、通信が途絶えたり、内容が歪んだりする危険性があった。
「構わん! 送れ!」グレイデンは、決然と言い放った。
「何としても、このエルヴァン要塞で起きている異変を、そして終焉の谷より立ち上る、あの禍々しい気配について、王都へ伝えるのだ! 我々が掴んだ情報は、たとえ断片的であっても、必ずや王都の助けとなるはずだ! ロムグールに、そして大陸に、警告を……!」
グレイデンのその言葉には、最前線を守る者としての強い責任感が込められていた。
通信兵は、涙をこらえながら何度も頷き、震える手で魔法伝書の水晶を発動させる。
紫黒の魔力が渦巻く不気味な空に向かって、一条の微かな光が放たれた。
それが、先ごろ王都を騒がせた、あの緊急魔法伝信の断片だった。
エルヴァン要塞の騎士たちは、王都からの援軍が来るという保証もないまま、ただひたすらに、ロムグール王国最後の砦として、そして人間界の盾として、不気味な静けさを取り戻した魔の森を睨み続けていた。
彼らの脳裏には、いつか必ずこの国を救うであろう「勇者」の姿と、そして敬愛する師バルカス、さらには人が変わったと噂される若き国王アレクシオスの顔が、代わる代わる浮かんでは消えていったのかもしれない。
彼らは信じていた。自分たちのこの戦いが、決して無駄にはならないことを。そして、いつかまた、師と共に剣を振るい、真の王に仕える日が来ることを。
北壁の獅子たちの、長く、そして過酷な戦いは、まだ始まったばかりだった。
幕間、了。
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