第百四十二話:嘆きの迷宮
ザルバード王の重い言葉を胸に、第一部隊『賢者の手』は、王都から半日ほど離れた砂漠の奥深く、忘れられた聖域の入り口に立っていた。
陽光はもはや光ではなく、肌を焼く暴力だった。
遮るもののない大砂漠は、巨大な鉄板のように熱を放ち、鎧の隙間から入り込む熱風が、じりじりと体力を奪っていく。
蜃気楼が、まるで嘲笑うかのように、ありもしないオアシスの幻影を遠くに揺らめかせていた。
「くそっ……暑すぎて死ぬ……。おい、リリアナ! お前の魔法で、どうにかならねえのかよ! 雪でも降らせろ、雪を!」
馬上でぐったりとしながら、田中樹が不平を漏らす。
その顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。
「……無茶を言わないでください。これほど乾燥した土地で大規模な気候操作魔法など使えば、わたくしの魔力が一瞬で枯渇しますわ」
リリアナもまた、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、か細い声で答えた。
一行が、目的地の座標に示された巨大な岩山の麓にたどり着いた時、その異様さに誰もが気づいた。
岩山の、ある一点から、周囲の灼熱の空気とは明らかに異質な、ひんやりとした冷気が流れ出してきているのだ。
「……なんだ、この涼しさは」
帝国の将軍ヴァレンティンが、訝しげに眉をひそめる。
その冷気の源、巨大な洞窟の入り口には、風化しかけた女神像が、まるで訪れる者を拒むかのように、哀しげな表情で佇んでいた。
「ここが、『忘却の聖域』……」
リリアナは、その入り口から流れ出てくる、あまりにも濃密な魔力の奔流に息を呑んだ。
それは邪悪な気配ではない。
ただひたすらに純粋で、そして底なしの「哀しみ」に満ちた魔力だった。
肌を撫でる空気そのものが、千年の孤独を物語っているかのようだ。
「うおっ、涼しい! 生き返るぜ!」
樹は、一人だけ大喜びで馬から飛び降りると、洞窟の中へと駆け込もうとする。
「待て、馬鹿者!」
ライアスが、その襟首を掴んで制した。
「気をつけよ」
賢者ジャファルが一行に最後の忠告をする。
「この先は大賢者セレヴィアの心の中そのもの。常識は通用せぬ。己が心の最も弱い部分を、容赦なく抉られることになるやもしれん」
一行は覚悟を決め、その洞窟の中へと足を踏み入れた。
内部は彼らの想像を絶する光景だった。
壁や床は淡い光を放つ乳白色の水晶でできており、まるで巨大な生物の体内を進んでいるかのようだ。
空気は澄み渡り、どこからともなく子守唄のような物悲しい旋律が聞こえてくる。
「なんて美しい場所……。ですが、なんて哀しい……」
リリアナは胸が締め付けられるような感覚に思わず呟いた。
この空間全体が、一つの巨大な涙の結晶でできているかのようだった。
だが、その感傷はすぐに悪夢へと変わった。
一行が最初の広間へとたどり着いた瞬間、周囲の水晶の壁が陽炎のように揺らめき、それぞれの目の前に、異なる幻影を映し出したのだ。
「―――リリアナ! なぜ我らを見捨てた!」
リリアナの目の前には、炎に包まれ崩壊していくロムグール王国の王城が映し出された。
民の悲鳴、建物の崩れる轟音。
そして、血と泥にまみれたアレクシオスが絶望の表情で彼女に向かって叫んでいた。
「貴女がいながら、なぜ国を守れなかったのだ! 貴女の魔法は、ただの飾りだったのか!」
幻影のアレクシオスが突きつけた王剣は、炎に焼かれ赤黒く変色している。
「あ……ああ……陛下……! ちがう、これは幻……!」
リリアナは必死に抗おうとする。
だが、足元で幼い子供が「助けて、リリアナ様、寒いよぅ」と泣きながらその服の裾を掴んだ瞬間、彼女の心は張り裂けそうになった。
それは彼女が心の奥底で最も恐れていた、自らの無力が招く最悪の未来そのものだった。
「―――ヴァレンティン。なぜだ。なぜ帝国は、お前は、余を見殺しにした」
ヴァレンティンの前には、帝都の決戦で崩御したはずの皇帝コンスタンティンの亡霊が、その虚ろな目で彼を睨みつけていた。
玉座は砕け、その背後には燃え落ちた帝都の無残な景色が広がっている。
「お前は我が帝国の誇りではなかったのか。お前のその剣は、余を守るためのものではなかったのか。答えよ、ヴァレンティン!」
「陛下……! 申し訳、ございません……! この私では……!」
ヴァレンティンはその場に膝から崩れ落ちた。
彼の砕け散ったプライドを最も残酷な形で抉る幻影だった。
「―――勇者殿! 助けて!」
田中樹の目の前には、エルヴァンの雪原でオークの刃に貫かれようとしているレオの姿があった。
以前見た悪夢とは違う。
レオはこちらを向き、「勇者様なら、助けてくれますよね?」と、一点の曇りもない信頼の瞳で微笑んでいる。
「いやだ! もう見るのは……! 俺は、俺は……!」
樹は耳を塞ぎその場にうずくまった。
助けられないと知っている。
だが、その信頼を裏切ることから、もはや彼は逃げられなかった。
「惑わされるな! 全ては幻術ぞ!」
サー・レオンが自らの額を殴りつけ正気を保とうと叫ぶ。
だが彼の目の前にもまた、彼が誓った騎士道が血と裏切りにまみれていくおぞましい光景が広がっていた。
「ジャファル殿! これは!」
リリアナがかろうじて幻術を振り払い叫ぶ。
「言うたであろう! これが聖域の『拒絶』じゃ! 侵入者の心の傷を抉り、戦意を奪い、内側から崩壊させる!」
ジャファルの声が響く。
さらに聖域は物理的な攻撃を仕掛けてきた。
一行が進む通路の壁が何の前触れもなく内側へとせり出し、彼らを分断しようとする。
「いかん! 固まって進め! 決して離れるな!」
ライアスがリリアナと樹を庇いながら叫ぶ。
ヴァレンティンも歯を食いしばりながらサー・レオンの背中を支える。
彼らは、迫りくる壁に押し潰されそうになりながらも必死にその歩みを進めた。
それはもはや進軍ではなかった。
ただ生き延るための、絶望的なまでの、もがきだった。
どれほどの時間進んだだろうか。
幻術と物理的な罠の絶え間ない猛攻に、一行は心身ともに限界を迎えつつあった。
このままでは全滅も時間の問題。
誰もがそう思い始めた、その時だった。
「―――もう、やめてください!」
リリアナの悲痛な叫び声が迷宮全体に響き渡った。
彼女は立ち止まり、涙を流しながら何もないはずの空間に向かって語りかけた。
「大賢者セレヴィア様! あなたのお苦しみ、お哀しみは痛いほど伝わってきます! ですが、どうかこれ以上ご自身を、そしてあなたを救おうとする者たちを傷つけないでください!」
その魂からの叫びに応えるかのように、それまで一行を苛んでいた幻術と壁の動きがぴたりと止まった。
そして彼らの目の前の水晶の壁がゆっくりとその色を変え、一つの巨大な「眼」となって彼らを見つめ返した。
その「眼」から一筋の、水晶の涙が静かにこぼれ落ちた
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




