第百三十九話:風の囁き
東方諸侯連合の領地を貫く旅路は、さながら地雷原を進むかのようだった。
指導者を失い恐怖と猜疑心という毒に蝕まれた諸侯領は、それぞれが孤立した砦と化し、一つの綻びが連鎖的に全てを崩壊させかねない危険な均衡の上にかろうじて成り立っていた。
数日後、アレクシオス・フォン・ロムグール率いる第二部隊『星砕きの刃』は、比較的大きな城下町へとたどり着いた。
ここもまた先の戦で領主を失った土地だ。だがこれまでの場所とは異なり、門は固く閉ざされてはいるものの城壁の上の兵士たちにあの狂気じみた敵意は感じられなかった。
代わりに漂っているのは深い疲労と、指導者を失ったことによる無気力な空気だった。
「―――ボス。町の様子を探ってきた」
斥候に出ていたファムが、夕暮れの森の影から音もなく現れた。
「ここの新しい領主は、暗殺された先代のまだ若い一人息子だ。父親を失ったショックと重責で完全に心を病んでる。実権は、最近どこからか現れた『相談役』を名乗る黒いローブの連中が握ってるらしい」
「静寂の使徒か」
俺は静かに呟いた。
「やはり、ここにも巣食っていたか」
「ああ。奴ら、領主にこう囁いてるらしいぜ。『連合は貴方の父君を見殺しにした。魔王様に帰順することこそが、この領地が生き残る唯一の安寧の道だ』ってな」
その報告に俺の内心で警鐘が鳴り響く。
東方諸侯連合の心臓部からの切り崩し工作だ。
これを放置すれば、連合は内側から瓦解する。
俺は決断した。この城下町をただ通過するわけにはいかない。
翌日、俺は連合の使者を名乗り若き新領主への謁見を申し入れた。
通された謁見の間は、先代の趣味であろう華美な装飾が、今の主の心境を映すかのようにどこか虚しく色褪せて見えた。
玉座に座る若い領主は年の頃はまだ二十歳前後。
その顔は青白く、瞳はこれから起こるであろう全てのことから逃げ出したいとでも言うように虚ろに彷徨っていた。
そして玉座の影に、まるで操り人形師のように二人の黒いローブの男――静寂の使徒――が静かに控えていた。
「……連合の、使者だと?」
若い領主は力ない声で呟いた。
その声は使徒たちに囁かれるまま、ただ言葉を発しているだけのように聞こえた。
「父は連合を信じたばかりに殺された。その連合が今更何の用だ。我らはもはや貴方がたの争いには関わらぬ。ただ静かに、この領地の安寧を保つのみだ」
「安寧、だと?」
俺は静かに、しかし偽りの平和を切り裂くように言った。
「貴殿はそれを本気で信じておられるのか、領主殿」
俺は一歩前へ進み出た。
「貴殿の父君を殺めたのは”疾風”のフェンリラ。魔王軍四天王が一人だ。その背後には魔王ヴォルディガーンがいる。彼らがもたらすのは安寧ではない。ただ全てが無に帰す、絶対的な『静寂』だ。貴殿が今その甘言に耳を貸している者たちは、その静寂へと誘う死神の使いに他ならん」
俺の言葉に若い領主の肩がびくりと震えた。
だが彼の背後に控える使徒の一人がすっと前に進み出て、穏やかなしかし有無を言わせぬ口調で言った。
「これはこれは連合の使者殿。我らはただ傷つかれた若き領主様のお心を慰めているに過ぎませぬ。貴方がたのように戦と死ばかりを振りかざす者たちとは違うのです」
「黙れ」
俺はその言葉を氷のように冷たい一言で遮った。
そして若い領主の虚ろな瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「領主殿。少し、二人だけでお話をさせていただきたい。貴殿の父君が残された、この領地の『未来』に関わる極めて重要な話だ」
使徒たちが警戒の色を浮かべる。
だが若い領主は、俺の気迫と「父の遺志」という言葉に何かを感じ取ったのか、か細い声でしかし確かに頷いた。
人払いをさせた謁見の間で、俺は若い領主に向き直った。
その瞳にはもはや先ほどまでの穏やかさはない。
あるのはこの国の、そして大陸の未来を背負う王としての冷徹なまでの覚悟だった。
「領主殿。貴殿の相談役たちは魔王に帰順すれば安全だと囁いているそうだな。……実に甘美な響きだ。だが考えてもみろ」
俺の声は低く、そして残酷な真実を突きつける刃のように鋭かった
。
「 魔王にとって貴殿は駒ですらない。ただ使い捨ての便利な道具だ。用が済み、連合という盾を失った貴殿の領地は、真っ先にそして最も無慈悲に蹂躙されるだろう」
若い領主の顔からサッと血の気が引いた。
「その時誰が貴殿を助ける? 連合か? いや、裏切り者に手を差し伸べるほど我々はお人好しではない。帝国か? 現在の帝国の中枢にそんな力はない。帝国の力を持った領主たちは、貴殿の領地が焦土と化した後で、その土地を二束三文で買い叩くだけだ」
俺は最後の言葉を、彼の魂に直接刻み込むように告げた。
「よく聞け。貴殿の父君を殺したのは確かに魔王軍だ。だが貴殿が今ここで判断を誤れば、貴殿自身を殺すのは魔王ではない。―――この俺が、連合の盟主として貴殿を『裏切り者』として断罪することになる。あの風の刃が貴殿の父の首を刈ったように、今度は連合の刃が貴殿の首を刈ることになるだろう。人類を裏切って死ぬのか、魔王と戦って名誉を得て死ぬのか、よく考えることだ」
それは交渉ではない。脅迫であり、そしてあまりにも厳しい最後通牒だった。
若い領主はその場にわなわなと震え、やがて椅子から崩れ落ちるように床に膝をついた。
その瞳からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。
彼が頼った安寧はただの幻想であり、その先にあるのは四方八方からの絶対的な死だけ。
その真実を彼はようやく理解したのだ。
数時間後、城下町の門が再び開かれた。
若い領主は自らの親衛隊を率い、俺たちをまるで賓客であるかのように丁重に領地の境界まで見送った。
彼の背後では、領主から遠ざけられた静寂の使徒たちが、その計画が根底から覆されたことへの、燃えるような憎悪の視線を俺の背中に突き刺していた。
「……ボス。あんた、本当に悪魔みてえなこと言うんだな」
道中、ファムが呆れたように、しかしどこか感心したように言った。
「黙れ。あれが、政治だ」
俺はそう言って、再びキリキリと痛み始めた胃をそっと押さえた。
東方諸侯連合という砕け散ったガラスの破片を一つ、また一つと拾い集める。その作業はあまりにも血腥く、そして痛みを伴うものだった。
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