第百三十八話:砕かれた東方
リリアナ率いる第一部隊『賢者の手』が、崩壊した帝国の腐臭漂う大地を南へと進む頃。
アレクシオス・フォン・ロムグールが率いる第二部隊『星砕きの刃』は、ヤシマへと至る道、東方諸侯連合の領地へと足を踏み入れていた。
そこは帝国領とはまた異なる、しかし同様に深い絶望に支配された土地だった。
豊かな森と緩やかな丘陵地帯。大地そのものはまだ生命力を失っていない。
だが、その上を流れる空気は毒のように疑心暗鬼と恐怖に満ちていた。
(最悪の状況だな。プロジェクトのトップ同士で合意は取れても、現場の各部署が互いをスパイだと疑い一切の連携を拒否している状態か。これではどんな簡単なタスクも進むはずがない)
俺は馬上から眼下に広がる固く閉ざされた宿場町の門を眺め、前世の記憶に重なる光景に早くも胃のあたりに鈍い痛みを感じていた。
「ボス。この先、主要な街道は全てこんな調子だ」
木の枝から音もなく降り立ったファムが忌々しげに報告する。
「フェンリラに指導者を狩られた諸侯どもは完全にパニックに陥ってる。『隣の領主こそが、魔王と内通した裏切り者だ』ってな。互いにそう罵り合って領地の境を軒並み封鎖してやがる。これじゃヤシマどころか、隣の谷へ行くことすらままならねえ」
「……フェンリラの真の狙いはこれか」
俺は静かに呟いた。
「指導者を殺すだけではない。残された者たちの信頼を砕き、国を内側から麻痺させること。…あまりにも狡猾で効率的なやり方だ」
「……この先は霊的にも不安定な土地。フェンリラの呪詛の残滓が未だ気の流れを乱している。迂回路は存在せぬ。道は、斬り拓くのみ」
ヤシマの長クロガネが静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。
その言葉通り、俺たちは最初の関門であるこの宿場町を突破する必要があった。
町の城壁には古びてはいるが手入れの行き届いた弩が並び、その上には恐怖と猜疑心で目を血走らせた兵士たちの姿が見える。
彼らは蛮族や魔物ではなく、同じ連合に属するはずの「隣人」を最大の脅威として警戒していた。
俺は馬を降り、単身その門へと歩み寄った。
ファムたちがいつでも動けるよう、後方の森の影に息を潜めているのを感じる。
「止まれ! 何者だ!」
城壁の上から鋭い声が飛んでくる。
「我らは東へ向かう者だ。通行の許可を願いたい」
俺が穏やかな声で応じると、案の定、彼らの警戒はさらに増幅された。
「このご時世に東へだと? 貴様ら、隣のヴァイスラント侯爵が放った間者に違いあるまい!」
「そうだ! 我らが敬愛するアルトマイヤー公が暗殺されたのは、ヴァイスラントの奴らの裏切りに違いないのだ!」
(……ダメだ。恐怖が彼らの理性を完全に麻痺させている)
もはや小細工は通用しない。
そして、連合の盟主として、これ以上の内輪揉めを看過するわけにはいかない。
俺は腹を決め、城壁の上で弓に矢をつがえる兵士たちを、臆することなく真っ直ぐに見据えた。
「俺は、ロムグール国王アレクシオス・フォン・ロムグール。対魔王連合の盟主として、ヤシマへ向かう途上である」
その静かだが揺るぎない声。王としての、絶対的な名乗り。
城壁の上は一瞬、水を打ったように静まり返った。
指揮官格の男が、我に返ったように叫ぶ。
「馬鹿を言え! ロムグールの国王が、なぜこのような場所に! 供回りもろくに連れず、軽装で! 貴様、ロムグール国王の名を騙る不届き者か!」
「いかにも」
俺は静かに応じた。
「この旅は、魔王の目を欺くための隠密任務だ。大軍を率いて派手に街道を行けるほど、我々に余裕はない。そして、君たちの若き新当主も、王都で開かれた連合会議で、この任務への全面的な協力を誓われた。その報せは、まだ届いていないのか? それとも、フェンリラが植え付けた恐怖は、主君の命令すら届かぬほど、君たちの心を深く蝕んでしまったのか?」
俺の言葉は彼らの疑念の核心を的確に突いていた。
指揮官の男の顔に動揺が走る。
彼の脳裏では、目の前の男が本物の王であった場合の、あまりにも大きすぎるリスクが渦巻いているはずだ。
俺は、最後の楔を刺した。
「君たちの主君、アルトマイヤー公は、連合の未来を信じて王、そして凶刃に倒れた。その遺志を継ぐとは、恐怖に駆られて門を閉ざし、真の敵から目を背けることか? それとも、その悲しみを乗り越え、共に戦う者へ道を拓くことではないのか! 答えよ、アルトマイヤー公の兵士たち!」
その魂からの問いかけに、城壁の上は再び静まり返った。
指揮官の男は、俺の顔と、その後方に控える仲間たちの揺るぎない瞳を何度も見比べた。
そして、長く深い葛藤の末、ついに震える声で、しかし確かに決断を下した。
「…………門を、開けろ」
ギィィ、と重い音を立てて、町の門がゆっくりと開かれていった。
俺は兵士たちに一礼すると、仲間たちに合図を送る。
一行は、畏敬と未だ拭いきれぬ疑念の入り混じった兵士たちの視線を浴びながら、その町を静かに通り抜けていった。
その日の夜。
町を抜け、森の中で野営をしながら、ファムが呆れたように、しかしどこか感心したように言った。
「……ボス。あんた、本当に王様なんだな。あんな説教で、本当に門を開けさせちまうとは」
「あれが、王の責任だ」
俺はそう言って、再びキリキリと痛み始めた胃をそっと押さえた。
フェンリラはただ十数人の指導者を殺しただけではない。彼女が本当に殺したのは、人々が隣人を信じる「心」そのものだったのだ。
そのあまりにも深く陰湿な呪いを前に、俺はこれから始まる旅の本当の過酷さを改めて思い知らされていた。
ヤシマへの道は、あまりにも遠い。
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