第百三十七話:偽りの聖者、本物の善意
帝国の将軍が、守るべき民に石を投げつけられ町を追われる。
その衝撃的な光景は、第一部隊『賢者の手』のメンバーの心に重い影を落としていた。
夜の野営地は、焚火の爆ぜる音だけが響く沈黙に支配されていた。
ヴァレンティンは一人、闇の中で傷ついたプライドと故国の惨状を噛み締めている。
サー・レオンは騎士としての正義が通用しない現実に、その理想を揺さぶられていた。
「このまま、見過ごすわけにはいきません」
沈黙を破ったのは指揮官であるリリアナだった。
彼女の瞳には悔しさと、いかなる困難にも屈しない強い意志の光が宿っていた。
「彼らは騙されているだけです。飢えと絶望が、一時的に判断を狂わせているに過ぎません。私が行ってもう一度、説得を試みます。誠意をもって話せば、きっと……」
「無駄だ、リリアナ殿」
ヴァレンティンが闇の中から乾いた声で遮った。
「奴らはもはや論理で動く人間ではない。ただ目の前のパンと、耳障りの良い救いの言葉にすがるだけの飢えた獣だ。お前が行っても再び石を投げつけられるだけだ」
「それでも!」
リリアナは毅然として言い返した。
「何もしなければ、あの町は、あの民は、本当に『静寂の使徒』の手に落ちてしまいます! アレクシオス陛下なら、決して諦めはしないはずです!」
翌朝、リリアナはヴァレンティンの制止を振り切り、サー・レオンだけを伴って再び宿場町へと向かった。
他の者たちは万が一に備え後方で待機する。
田中樹も、今度は何も言わず、ただ黙ってその一行についてきていた。
町の入り口では、昨日よりも多くの「静寂の使徒」が民衆に教えを説いていた。
リリアナは意を決して彼らの前に進み出た。
「皆さん、どうか聞いてください!」
彼女の凛とした声が広場に響く。
「彼らの言う『救済』は偽りです! 配られる食料もいずれは尽きるでしょう! ですが我ら対魔王連合は、貴方がたが再び自らの手で豊かな実りを得られるよう、具体的な支援を約束します! ロムグールで成功した新しい農法を伝え、種籾を分け与え、水路を整備し……!」
リリアナは必死に、具体的な未来像を示して民衆を説得しようとした。
彼女の言葉は正しく、理路整然としていたが、飢えという絶対的な現実の前ではあまりにも無力だった。
「言葉だけなら何とでも言える!」
「そうだ、あんたたち貴族はいつもそうだ!」
「俺たちは今腹が減ってるんだ! 明日のパンより今日の粥だ!」
民衆の切実な声が、彼女の正しい言葉をかき消していく。
広場の空気は再び険悪なものになりつつあった。
その全てのやり取りを、田中樹は後方で居心地が悪そうに見ていた。
難しい話は分からない。
連合がどうとか、農法がどうとか、どうでもよかった。
彼の目に映っていたのは一つだけだった。
母親の汚れた服の裾を小さな手で握りしめ、声もなく、ただ大きな瞳に涙を溜めてじっとこちらを見つめている、一人の幼い少女の姿。
その瞳が、エルヴァンで死んだレオの、最後の眼差しと一瞬だけ重なった。
あの時も自分は何もできなかった。ただ守られていただけだった。
そして、彼は死んだ。
(……くそっ。またかよ……)
樹の胸に、これまで感じたことのないチリチリとした痛みが走る。
自らの無力さへの苛立ちであり、目の前の光景への純粋な、やり場のない怒りだった。
彼は舌打ちをすると、おもむろに自らが背負っていたなけなしの食料袋をがさごそと漁り始めた。
そして中から、携帯食の干し肉を無造作に掴み出すと、リリアナたちの輪を押し分け、少女の前へずかずかと歩み寄った。
「……おい」
樹は少女の前に無言でしゃがみ込んだ。
そして干し肉を、ぶっきらぼうに少女の小さな手の中へと押し付けた。
「……腹、減ってんなら、これ食えよ」
彼はそれだけ言うと、付け加えるように呟いた。
「……泣いてても、腹は、膨れねえだろ」
英雄の言葉ではない。聖者の行いでもない。
ただ目の前で腹を空かせている子供がいて、自分の手元に食い物があった。
そして、もう誰かが悲しむ顔を見たくなかった。
それだけの、あまりにも単純で、不器用な行動だった。
少女はきょとんとした顔で、自分の手に握りされた干し肉と、目の前の無愛想な少年の顔を交互に見比べた。
そしておずおずと、その干し肉を小さな口でかじった。
その真っ直ぐで計算のない善意。
光景を見ていた周囲の民衆の険しい顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……おい、あいつ……」
「……自分の、食料を……」
「……子供に……」
彼らはこれまで、貴族から施しは受けても、奪われることはあっても、貴族自身が自らのなけなしの食料を、見返りも求めずただ無言で分け与える姿など見たことがなかったのだ。
使徒が説く「救済」は常に魔王への信仰とセットだった。
目の前の少年の行動には何の思想も教義もなかった。
ただ「腹が減っているなら食え」という、それだけだった。
本物の善意が、彼らの疑心暗鬼で固まった心を、ほんの少しだけ、しかし確かに溶かした。
広場の険悪な空気が途切れる。
リリアナは千載一遇の好機を見逃さなかった。
彼女はまだきょとんとしている樹の腕を掴むと、一行に小さな声で、しかしきっぱりと命じた。
「……退きますわよ」
一行は誰に咎められることもなく、その場を後にすることができた。
その一部始終を、ヴァレンティンはただ言葉もなく見ていた。
自分の帝国将軍という権威も、リリアナの完璧な論理も、この民衆の心には届かなかった。
だが、このどうしようもなく愚かで、役立たずだと思っていた少年が、たった一つの干し肉で、彼らの心を動かした。
理解できない。
だが、それは紛れもない事実だった。
ヴァレンティンは先を行く、何事もなかったかのように、しかしどこか照れくさそうにしている勇者の背中と自らの手を交互に見比べ、この世界の、そして人の心のあまりの理不尽さに、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
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