第百三十六話:静寂の救済、揺らぐ民
旧ガルニア帝国領の荒野を旅すること、さらに数日。
一行は、旅人から伝え聞いた「奇妙な秩序に満ちた」という、比較的大きな宿場町へとたどり着いた。
これまでの荒廃した村々とは異なり、その町は、一見して、戦乱の傷跡を感じさせなかった。
町の入り口に、略奪を働く兵士の姿はない。代わりに、黒いローブを纏った者たちが、無言で立ち、行き交う人々を静かな目で見つめているだけだった。
町の広場は、さらに異様な光景を呈していた。
飢えで痩せこけた人々が、数百人という規模で、長い、しかし整然とした列を作っている。
その視線の先にあるのは、町の中心に立つ、かつては女神ルミナリアを祀っていたであろう教会の扉。
その扉の前で、黒いローブの者たちが、大きな鍋から温かい粥をよそい、一人一人に、静かに手渡していたのだ。
争う者も、怒号を上げる者もいない。ただ、救いを求める者たちの、静かな行列があるだけだった。
「……なんと」
シルヴァントの騎士、サー・レオンは、その光景に、思わずといった体で呟いた。
「この混沌とした帝国領で、これほどの秩序が保たれているとは……。彼らは、一体……」
「『静寂の使徒』…」
リリアナが、低い声で応じる。その瞳には、目の前の光景に対する、深い警戒の色が浮かんでいた。
「彼らは、飢えた民に食料を与え、独自の秩序をもたらすことで、救世主として、民衆の心を掌握しているのです。ですが、その教えは……」
その時、粥を配り終えた使徒の一人が、教会の階段の上に立ち、集まった民衆に向かって、穏やかな、しかし、よく通る声で語り始めた。
「嘆くことはありません、愛すべき同胞たちよ。貴方がたが飢え、苦しんだのは、傲慢な皇帝と、私腹を肥やす貴族たちが、貴方がたを見捨てたからです。ですが、その腐敗した帝国は、神罰によって滅びました。今こそ、真の救いが訪れるのです」
その言葉に、民衆は、まるで神の言葉でも聞くかのように、熱心に耳を傾けている。
「魔王ヴォルディガーン様がもたらす『大いなる静寂』こそが、我ら全てを、身分も、富も、全てのしがらみから解放し、等しく安らかなる魂の平穏へと導いてくださる。この粥は、その、大いなる救済の、ほんの始まりに過ぎません。さあ、共に祈りましょう。新たなる時代の夜明けを」
その、あまりにも甘美で、そして、冒涜的な説教。それを聞いた瞬間、それまで黙って馬上にいたヴァレンティンの、心の内で張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「―――そこまでだ、妖言惑衆の輩め!」
彼は、馬から飛び降りると、民衆の壁を押し分け、教会の階段の前へと躍り出た。
その全身からは、抑えきれない怒りと、そして、帝国将軍としての、最後の誇りが、オーラとなって立ち上っていた。
「俺の名は、ヴァレンティン・フォン・シュタイナー! ガルニア帝国が将軍である! 神聖なる女神の教会を占拠し、民を偽りの教えで惑わすこと、この俺が許さん! 直ちに、この町から立ち去れ!」
その、雷鳴のような声に、民衆は一瞬、怯んだように後ずさった。だが、それは、ほんの一瞬のことだった。
最初に声を上げたのは、粥を受け取ったばかりの、幼い子供を抱いた母親だった。
「……あんたたち貴族が、あたしたちを見捨てたんじゃないか!」
その声が、引き金だった。
「そうだ!」
「俺たちは、あんたたちに見殺しにされるところだったんだ!」
「この方々は、あたしたちを救ってくれたんだ! それを、邪魔しに来たのか!」
民衆の、恐怖と不安は、ヴァレンティンという、分かりやすい「過去の支配者」の登場によって、一斉に、怒りと敵意へと変わった。
彼らは、ヴァレンティンを、救世主から食料を奪おうとする「悪」として、認識したのだ。
「帰れ!」
「お前たちの居場所は、もうどこにもない!」
民衆は、使徒たちを守るように、ヴァレンティンとの間に、人の壁を作った。その瞳には、もはや、帝国将軍への敬意など、ひとかけらも残っていない。
「……な……」
ヴァレンティンは、言葉を失った。
自分が、守るべき民から、石を投げつけられる。
その、あまりにも残酷な現実に、彼の思考は、完全に停止した。
「将軍! お下がりください!」
リリアナの、悲痛な叫び声。
ライアスとサー・レオンが、ヴァレンティンを庇うように、その前に立ちはだかる。
だが、民衆の怒りは、収まらない。
やがて、誰かが、足元の石ころを拾い上げ、ヴァレンティンめがけて投げつけた。
カツン、と、乾いた音が、彼の、磨き上げられた鎧を打った。
それを合図とするかのように、次から次へと、石や、泥の塊が、一行へと投げつけられる。
「出ていけ!」
「悪魔の手先め!」
その罵声は、もはや、ヴァレンティンだけでなく、彼を守ろうとする、リリアナたちにも向けられていた。
「……退却します!」
リリアナは、指揮官として、非情な決断を下した。
「将軍、聞こえますか! 退くのです! 彼らと戦ってはなりませぬ!」
ライアスとレオンが、ヴァレンティンの腕を掴み、半ば強引に、その場から引きずっていく。
ヴァレンティンは、抵抗しなかった。
いや、できなかった。
彼は、ただ、呆然と、自分に石を投げつけ、憎悪の言葉を浴びせる、かつての自国民の顔を、一人、一人、その目に焼き付けているだけだった。
◇
その日の夜。
一行が、町から遠く離れた森の中で、静かに野営をしている時も、ヴァレンティンは、一人、焚火から離れた場所で、闇を見つめていた。
彼は、帝国の将軍として、民に拒絶された。
彼は、皇帝の一族として、民に石を投げつけられた。
彼が、その生涯をかけて信じてきた、帝国の秩序も、誇りも、その全てが、今、目の前で、完全に崩れ去ったのだ。
その、あまりにも深い絶望と、自らの無力さに、帝国の将軍は、なすすべもなく、ただ打ちひしがれることしかできなかった。
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