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第百三十五話:混沌の帝国領

 

 南へ向かう旅路は、ロムグール王国の国境を越えた頃から、その景色を一変させた。


 アレクシオス王の治世の下で整備された街道は、まるで文明の終わりを告げるかのように、唐突に途切れる。


 その先にあるのは、かつて大陸の覇権を誇ったガルニア帝国の、見るも無残な骸だった。


 轍に深くえぐられ、雨水が溜まってぬかるんだ道。打ち捨てられ、雑草に覆われた畑。


 そして、道端に点在する監視塔は、その多くが崩れ落ち、あるいは、素性の知れぬ武装した男たちの根城と化していた。


「……ひどい。これが、あの帝国の姿と申すのですか」

 第一部隊『賢者の手』を率いるリリアナは、馬上からその光景を目の当たりにし、息を呑んだ。


 彼女が知る帝国は、傲慢で、尊大で、しかし、揺るぎない秩序と圧倒的な豊かさの象徴だったはずだ。


 だが、今、目の前にあるのは、指導者を失い、ただ緩やかに崩壊していく巨人の亡骸に他ならなかった。


「ちぇっ、道はガタガタだし、空気はどんよりしてるし、最悪だな! こんなんじゃ、美味いメシも期待できそうにないじゃねえか!」

 田中樹が、いつもの調子で不平を垂れる。  


 だが、その声も、このあまりにも重い現実の前では、どこか空虚に響いた。


 リリアナの隣で、帝国の将軍ヴァレンティンは、ただ無言で、唇を固く結んでいた。


 その横顔からは、一切の感情が読み取れない。


 だが、彼が握りしめる手綱が、その指の関節が白くなるほどに強く握られていることだけが、彼の内心の激情を物語っていた。


 ここは、彼の故郷なのだ。


 ◇


 数日後、一行はかつて豊かな穀倉地帯であった平原を横断していた。だが、今そこに広がっていたのは、黄金色の麦畑ではない。


 領主を失い、あるいは新たな領主による苛烈な徴税から逃れるために、村人たちが自ら火を放ったという、黒く焼け爛れた大地だった。


 風が吹くたびに、灰が舞い上がり、一行の鎧やマントを黒く汚していく。


「なんということだ……」

 シルヴァラントの騎士、サー・レオンが、悲痛な声を漏らす。


「民が、自らの手で、恵みの大地を焼かねばならぬとは……。これほどの絶望が、この世にあってよいものか」


 ヴァレンティンは、その光景から目を逸らさなかった。


 彼の脳裏には、幼き日に父と共にこの地を訪れ、黄金の麦穂が風に揺れる様を「これぞ帝国の豊かさの象徴だ」と、誇らしげに教えられた記憶が蘇っていた。


 その記憶の美しさが、目の前の現実の醜さを、より一層、残酷なものとして彼の胸に突き刺した。


 さらに旅を続けると、一行は比較的大きな川のほとりにある、橋が落ちた町へとたどり着いた。


 町の人々は、自分たちで粗末な渡し舟を運営し、旅人から法外な渡し賃を巻き上げて生計を立てているようだった。


「橋は、どうしたのだ」

 ライアスが、渡し守の男に尋ねると、男は忌々しげに川の対岸を睨みつけながら吐き捨てた。


「対岸のクソ領主が、自分の兵を食わせるために、夜盗まがいのことを始めたんでな。こっちの村の若い衆と、あっちの村の連中とで、毎日のように殺し合いさ。橋なんざ、とうの昔に、お互いが落としちまったよ」

 かつては同じ帝国の民であった者たちが、僅かな食料と縄張りを巡り、互いに牙を剥いている。


 その、あまりにも醜い現実。


 ヴァレンティンは、ただ、黙って、その濁った川の流れを見つめていた。


 彼の誇りとした帝国軍は、もはやどこにもいない。民を守るべき盾は砕け散り、その破片が、今や互いを傷つけ合っている。


 その夜、野営の準備をする一行の中で、ヴァレンティンは一人、離れた岩の上に腰掛け、闇に沈む故国のシルエットを眺めていた。


(……これが、我が故郷の、成れの果てか)


 彼が誇りとした、帝国の秩序。彼が信じた、絶対的な力。


 その全てが、砂上の楼閣のように、脆くも崩れ去っていた。国を失った負け犬。


 柄の悪い兵士の言葉が、彼の脳裏で何度も反響する。


 怒り。


 屈辱。


 そして、何よりも、この惨状を前にして何もできない、自らへの深い深い無力感。


 それが、嵐のように、彼の心の中で吹き荒れていた。


(……ロムグールの、あの若造王は、これと、同じ絶望から、あの国を立て直したというのか……? 我らは、ロムグール王に……劣るとでも、いうのか……?)


 初めて、ヴァレンティン・フォン・シュタイナーは、為政者一族としての、自らの無力さと、その罪の重さを、骨の髄まで味わっていた。


「……将軍」

 静かな声に振り返ると、そこに、リリアナが、一杯の温かい茶を手に、立っていた。


「……何の用だ」


「いえ。ただ、貴方が、一人で何かを背負い込んでいるように、見えましたから」

 リリアナは、そう言うと、茶を彼の隣に置き、同じように、闇を見つめた。


「……陛下も、同じ目を、しておられました。この国の、あまりにも深い絶望を、その双肩に、たった一人で背負われて」


「……あの男と、俺を、一緒にするな」


「いいえ。貴方と陛下は、よく似ておいでです。あまりにも、多くのものを背負いすぎている。そして、あまりにも、不器用でいらっしゃる」

 リリアナのその意外な言葉に、ヴァレンティンは言葉を失った。


 彼女は、静かに続けた。


「ですが、陛下は、一人ではありませんでした。わたくしが、バルカス様が、そして、フィン殿や、ロザリアさんがいた。だから、陛下は、あの絶望の淵から、立ち上がることができたのです。……将軍。貴方も、もはや、一人ではありませぬ」

 その、あまりにも真っ直ぐな、そして温かい言葉。


 ヴァレンティンの、氷のように固く閉ざされていた心の壁が、ほんの少しだけ、しかし、確かに、音を立てて軋んだような気がした。


 翌日、一行は、旅人から奇妙な噂を耳にした。


 この先の、さらに大きな宿場町では、不思議なことに、飢えも争いもない、静かな秩序が保たれている、と。


「なんでも、黒い服を着た方たちが現れて、どこからか、尽きることのない食料を、民に分け与えているらしい」

 その噂は、この地獄のような帝国領において、唯一の希望の光のようにも聞こえた。


 だが、リリアナとヴァレンティンは、その話に、逆に、得体の知れない、深い闇の気配を感じ取るのだった。


 彼らは、覚悟を決め、その奇妙な秩序に満ちているという、次なる町へと、その歩みを進める。 


 その先で、彼らを待ち受けるものが、希望なのか、あるいは、より根深い絶望なのか。それはまだ、誰にも分からなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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