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第百三十四話:静寂の使徒

 

  

 魔王ヴォルディガーンが告げた「一年」という絶望的なタイムリミットは、大陸全土に等しく、しかし異なる形でその毒を流し始めていた。


 それは、武力による侵攻でも、天変地異でもない。もっと静かで、そして人の心の最も弱い部分――絶望に染まった魂の隙間に染み込む、甘美な囁きという名の呪いだった。


 東方諸侯連合、その中でも先のフェンリラによる暗殺劇で最も深い傷を負った小領地の一角。


 領主であった父を失い、十代の若さでその跡を継いだばかりの若き伯爵は、心労で青ざめた顔で、窓の外に広がる不穏な人だかりを睨んでいた。


「……また、奴らか」

 広場の中心にいる、襤褸をまとった、この土地の農民たち自身だった。


 その中心で声を張り上げているのは、先月まで村の教会で女神への祈りを捧げていた、人の良い初老の司祭だ。


 だが、今の彼の瞳には、慈愛ではなく、狂信的な光が宿っていた。


「聞け、嘆きの民よ!」

 司祭の声は、悲しみと怒りで震えている。


「なぜ、我らは苦しまねばならぬのか! なぜ、我らの父は、夫は、息子は、名誉もなき戦いで命を落とさねばならなかったのか! それは、この世界が、王侯貴族たちの欲望によって腐りきっているからだ! 我らが祈りを捧げた女神は、我らを見捨てたのだ!」

 その言葉に、先の戦で家族を失った民衆が、怒りと悲しみに満ちた声で応じる。


「そうだ!」


「我らの領主様は、連合の会議に出席したばかりに…!」


「その通り!」

 司祭は、大きく頷いた。


「ロムグールという驕った国の、成り上がりの王が仕掛けた、身の程知らずな権力争い。そのために、この土地は血に塗れた! 連合などという耳障りの良い言葉を信じた結果が、これだ!」


 それは、誰かに教えられたというよりは、彼らが自らの絶望の中から見つけ出してしまった、あまりにも単純で、そして危険な答えだった。


 そこへ、すっと、数人の黒いローブを纏った者たちが近づき、どこからか運び込んだのであろう、山のような黒パンと、温かいスープを配り始めた。


「……我らは、ただ、貴方がたの嘆きに寄り添う者」

 ローブの男の一人は、決して自らが教祖のように振る舞うことはしない。


 ただ、飢えた民に食料を与え、そして、絶望に燃える司祭の言葉に、静かに頷き、油を注ぐ。


「……魔王様は、救世主だ。その『大いなる静寂』の中にこそ、永遠の安寧はあるのだ、と…」

 その囁きは、いつしか司祭自身の言葉となり、民衆の心に、新たな、そしてあまりにも危険な信仰として、深く、深く根を下ろしていった。


 若き伯爵は、その光景になすすべもなく、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。



 同じ頃、秩序が完全に崩壊した旧ガルニア帝国領。帝都から逃れた難民たちが寄り集まってできた、巨大なキャンプ地。


 そこは、暴力と、飢えと、そして病が支配する、地獄そのものだった。


 そこでは、いくつもの終末思想が、まるで悪性の腫瘍のように、同時多発的に生まれていた。


「北の魔王こそが真の神! 全てを無に帰すことで我らは救われる!」


「否! 東の風こそが浄化の息吹! 全ての穢れを切り裂いてくださる!」


 自らを「預言者」と名乗る者たちが、それぞれに信者を集め、僅かな食料を奪い合い、時には血で血を洗う抗争を繰り広げている。


 魔王がもたらした絶望は、新たな絶望を生み出す、混沌の連鎖と化していた。


 その、地獄絵図の中を、一人の黒いローブの男が、静かに歩いていた。


 彼は、どの派閥にも与せず、ただ、最も声が大きく、最も信者を集め、最もカリスマ性のある「預言者」を、冷たい目で見定めている。


 そして、その預言者の元へ、そっと近づくと、耳元で囁く。


「……あなたの言葉は、真実だ。だが、力が足りない。我らが、ささやかながら『支援』をしよう。この金で、食料を買い、兵を雇い、他の愚かな偽預言者どもを、黙らせるのだ」

 男が、ずしりと重い金貨の袋を渡すと、預言者の目が、ギラリと欲望に輝いた。


 ギルドの残党たちは、混沌を支配しようとはしない。


 ただ、最も大きく燃え上がりそうな炎を選び、そこに、静かに油を注ぐだけ。混沌が、より大きな混沌を生むように。


 人間の、醜い争いそのものが、魔王の糧となるように。



「―――王都でも、数名の『静寂の使徒』を名乗る者を確認した。今のところ、目立った動きはないが、貧民街を中心に、ひそかに信者を増やしているようだ」

 ロムグール王国の司令室。宰相代行フィンは、大陸各地から集められた報告書を、忌々しげに机に叩きつけた。


「……これは、計算され尽くした心理戦じゃねえ。もっと、タチが悪い。自然発生した疫病みてえなもんだ。大陸中に、絶望っていう病原菌がばら撒かれて、それに『静寂の使徒』って名前が、後からくっついてやがる」

 彼の【パターン解析】スキルが、この一連の動きの、恐るべき本質を弾き出していた。


「発生地点は、いずれも先の戦で最も被害が大きかった場所。語られる教義も、土地ごとに微妙に違う。共通しているのは、『支配者への不信』と『魔王による救済』だけだ。単一の、巨大な組織の仕業じゃねえ。だが……」

 フィンは、金の流れを示す地図を指差した。


「……妙な金の流れがある。各地で、最も過激で、最も信者を集めている教団の指導者たちの懐にだけ、出所不明の金が流れ込んでやがる。間違いねえ。ギルドの残党だ。奴ら、この混沌を、裏から利用してやがる。自分たちが育てたわけじゃねえ。ただ、一番育ちのいい果実を、横からかっさらって、さらに毒を注入しているだけだ」


「……つまり」

 ロザリアが、青ざめた顔で呟く。


「敵は、組織ではない。民衆の、心そのものだというのですか……?」


「ああ。だから、タチが悪い」

 フィンの結論は、以前よりも、遥かに重く、そして厄介だった。


「蛇の頭を叩けば終わる、ってもんじゃねえ。頭は、無数にある。そして、その頭は、俺たちが守るべき、民衆自身なんだからな」

 その時、リリアナたちがいる南西の方角から、魔法伝書が届いた。


 フィンは、その羊皮紙に目を通すと、苦々しげに顔を歪めた。


「……リリアナたち、ついに帝国領に入ったか。そこは、今、大陸で一番、あの『疫病』が蔓延している場所だぜ……」

 盤上の戦いは、新たな局面を迎えていた。


 それは、剣と魔法がぶつかり合う戦場ではない。人の心を奪い合う、見えざる戦争。


 そして、その戦いにおいて、絶対的な武力を持つはずの英雄たちは、あまりにも、無力だったのかもしれない。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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