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幕間:『天才の胃袋と、大地の恵み』

 


 王城の一室、今や「戦時国家再建司令室」と化したその部屋の灯りは、夜が更けても、決して消えることはなかった。


 部屋の主であるフィンは、羊皮紙の山に埋もれ、その痩せた指先で、常人には理解不能な速度で計算を続けていた。


 壁に張り巡Tされた大陸地図と、各国の戦力、兵站ルート、そして、魔王が仕掛けた「呪いの種」の拡散予測データ。


 それらが、彼の頭脳の中で、無数の変数となって渦巻いている。


「……ダメだ、このルートじゃ効率が悪すぎる。東方諸侯の連中、まだ足並みが揃ってねえ。これじゃ、補給が間に合わなくなる可能性がある……」

 ぶつぶつと、独り言ともつかない呟きが漏れる。 


 食事も、睡眠も、二の次だった。彼の頭脳を動かす燃料は、ただ、冷めた紅茶と、時折口にする、携帯用の魔力回復薬だけ。



その、あまりにも不健康な生活が、彼の目の下の隈を、日に日に、深淵のような色へと変えていた。


「……フィンさん」


 静かな、そして、心配そうな声に、フィンは、計算に没頭していた意識を、現実へと引き戻された。


 顔を上げると、そこに、ロザリアが、湯気の立つ、温かい木の器を手に立っていた。


「……なんだ。俺は、今、忙しいんだが」

 フィンの声は、いつものように、ぶっきらぼうだった。邪魔をされたことへの、苛立ちが滲んでいる。


「ごめんなさい。でも……」ロザリアは、その刺々しい言葉にも怯むことなく、静かに、彼の机の、羊皮紙が積まれていない、僅かなスペースに、その器を置いた。


「フィンさん、もう、二日も、何も召し上がっていないと聞きましたから。これ、試験農場で採れた、新しいお芋です。少しだけ、バターも手に入ったので」


 器の中には、黄金色に輝くふかした芋が、優しい香りを立てていた。


その、あまりにも、場違いで、穏やかな香りが、この、数字とインクの匂いしかしない部屋の空気を、ほんの少しだけ、和らげた。


「……いらねえよ。そんな、非効率なもんを食ってる暇はねえ」

 フィンは、そう言って、再び羊皮紙へと視線を戻そうとした。


 だが、その時、ぐぅぅぅぅぅ……と。


 彼の腹の虫が、あまりにも、正直で、そして、盛大な音を立てた。


「…………」

 フィンは、固まった。その顔が、みるみるうちに、赤く染まっていく。


 ロザリアは、その光景に、思わず、くすりと小さな笑みを漏らした。


そして、何も言わずに、木の匙を、フィンの手に、そっと握らせた。


「……頭を、たくさん使うと、お腹が空くって、おばあちゃんが言っていました。それに、このお芋には、頭がすっきりする薬草も、少しだけ、混ぜてあるんです。きっと、フィンさんの、お力になれると、思います」


 その、あまりにも純粋な善意と、あまりにも美味そうな芋の香りを前に、フィンの、鉄壁であったはずの合理主義が、ついに陥落した。


 彼は、小さな声で「……分かったよ」と呟くと、しぶしぶ、その芋を、一口、口に運んだ。


 温かい。

 そして、甘い。


 その、あまりにも実直で優しい味が、彼の張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ、緩ませた。


「……そっちも、大変なんだろ」

 フィンが、ぽつりと呟いた。 


「いいえ。私にできることなんて、これくらいですから」ロザリアは、静かに首を振った。


「フィンさんこそ。宰相様がいらっしゃらなくなった今、この国を、陛下と、二人で支えてくださっているのは、貴方ですもの」


「……別に、俺は、国のためとか、そんな大層なことのためにやってるわけじゃねえ」

フィンは、芋をもう一口頬張りながら、そっぽを向いて言った。 


「ただ、目の前にある、非効率で、間違ってる数式を、正しい形に直してえだけだ。それが、俺の仕事だからな。……あのジジイにも、文句ばっか言われてたしな」


 その言葉には、亡きイデン宰相への、彼なりの複雑な思いが滲んでいた。ロザリアは、その繊細な響きを感じ取り、静かに相槌を打つ。


「宰相様も、きっと、フィンさんのことを、認めていらっしゃいましたよ。そうでなければ、最後に、あんな風に……」


「……やめろ。その話は」

 フィンは、ロザリアの言葉を、遮った。彼の脳裏に、あの日の光景が蘇る。


イデンの最後の言葉、その重み。それは、今もなお、彼の肩に、重くのしかかっていた。


 二人の間に、静かな沈黙が流れる。


 それは、互いの労をねぎらい、そして、同じ不安を共有する、仲間だけの、沈黙だった。


「……王様たち、大丈夫かな」


「……ええ、きっと。アレクシオス様は、必ず、戻ってこられますわ」

 ロザリアは、そう、自分に言い聞かせるように、言った。


 フィンは、何も言わずに、ただ、黙々とスープを口に運び続けた。


 その、無愛想な横顔が、ほんの少しだけ穏やかに見えたことを、ロザリアは、決して口には出さなかった。


 論理と効率の少年と、大地と生命を愛する少女。


 その、不器用で、しかし、心温まる交流は、王のいない王都で、二つの新たな希望の柱を、確かに支えていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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