幕間:『宰相の長い呪縛』
若き日のイデン・フォン・ロムグールは、光の中にいた。
彼の類まれなる才覚は、若くして宮廷に仕える官僚たちの中でも、ひときわ異彩を放っていた。
複雑な法案の矛盾点を瞬時に見抜き、絡み合った貴族間の利害関係を鮮やかに解きほぐす。
その手腕は、もはや天才の域に達しており、周囲からは畏敬と、そして嫉妬の念をもって「王家の至宝」と囁かれていた。
そして何より、彼には当時の国王――アレクシオスの祖父にあたる、賢君として名高い老王からの、絶大な信頼があった。
「イデンよ、またお前か。お前の報告書は、いつ読んでも無駄がなく、そして美しい。まるで、完成された詩のようだ。我が一族に、お前のような優秀な者がいて、誇らしいぞ」
老王は、病床に伏してからも、度々イデンを枕元に呼び、国政について語り合うのを何よりの楽しみとしていた。
イデンにとっても、自らの才覚を曇りなく認め、そして国の未来を真に憂うこの老王に仕えることは、無上の喜びであり、誇りだった。
だが、その光が強ければ強いほど、影もまた、濃くなる。
老王の唯一にして最大の憂いは、自らの息子――アレクシオスの父となる、次期国王の存在だった。
皇太子は、父王の賢明さを受け継ぐことなく、ただ己の欲望に忠実で、耳障りの良い言葉を弄する者だけを側に置く、凡庸で、そして危険な男だった。
その日も、イデンは老王の寝室に一人、招き入れられた。
窓の外では、王都に穏やかな夕暮れの光が満ちている。
だが、部屋の中は、死の匂いが、重く垂り込めていた。
老王の命の灯火が、もはや尽きかけていることを、誰もが知っていた。
「……イデンよ。よく、聞いてくれ」
老王の声は、もはや、か細い糸のようだった。
だが、その瞳だけは、未だ王としての、鋭い光を失っていない。
彼は、人払いをすると、若きイデンの手を、その骨張った手で、強く握った。
「わしの息子……次の王となる、あいつは……愚か者だ」
その言葉は、血を吐くような、父親としての、そして一国の王としての、痛切な告白だった。
「わしには、分かっておる。あいつは、王の器ではない。その気まぐれと、虚栄心で、いつか、必ず、この国を傾かせるだろう。……叶わぬことと分かってはおるがな。イデン、お前がわしの息子であったら、と……何度思ったことか」
老王の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「そして、お前のような、国を憂う、真の才を持つ者が、それに我慢ならず、いつか、奴を排除しようとすることもな」
「陛下……」
若きイデンは、言葉を失った。
「だが、それだけは、ならんのだ、イデン」
老王は、懇願するように、続けた。
「お前が動けば、国は内乱で二つに割れる。そうなれば、それこそ、この国は本当に滅びる。……だから頼む。わしの、最後の願いだ。あいつの代では、どうか、お前のその力で、この国を、支えてやってはくれぬか。お前が忠誠を誓うべきは、王個人ではない。この、ロムグールという国、そのものなのだから」
その、老王の血を吐くような願い。
それは、イデン・フォン・ロムグールにとって、生涯を縛る重い「呪い」となった。
老王が崩御し、凡庸な皇太子が新たな王として即位すると、ロムグール王国は、坂道を転がり落ちるように、腐敗と衰退の道へと突き進んでいった。
新王は、父王が寵愛したイデンの才覚を妬み、彼を遠ざけた。
代わりに、耳障りの良い言葉だけを囁く、レナード侯爵家のような、私利私欲にまみれた貴族たちを重用した。
国庫は、王の贅沢な宴と、取り巻きたちの不正な蓄財によって、みるみるうちに枯渇していく。
騎士団の規律は乱れ、民衆には重税が課せられ、国の至る所から、嘆きの声が上がった。
イデンは、耐えた。
彼は、ただ耐え忍んだ。
老王との、最後の約束を、その胸に深く刻みつけながら。
彼は、自らが持つ権謀術数の全てを駆使し、腐敗した貴族たちを互いに牽制させ、国が完全に崩壊することだけは、水面下で、必死に防ぎ続けた。
それは、誰にも知られることのない、孤独な戦いだった。
彼は、光の当たる場所から、自ら影の中へと身を投じ、国の「闇」を、その一身に引き受けることを選んだのだ。
やがて、その無能な王もまた世を去り、その息子であるアレクシオスが、新たな王として即位した。
イデンは、当初、この若い王に、ほんのわずかな期待を抱いていた。
祖父である賢君の血が、この若者の中に、少しでも流れているのではないか、と。
だが、その期待は、すぐに、絶望へと変わった。
若きアレクシオスは、父王以上に、愚かだった。
国政を顧みず、ただ酒と女に溺れる日々。
その瞳には、知性の光も、民を思う心も、何一つ宿ってはいなかった。
イデンの中で、何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。
(……もはや、これまでか。陛下、申し訳ございません。この国は、この王家の血では、もはや救えませぬ)
彼は、ついに、その「呪い」を、自らの手で断ち切ることを決意した。
この愚かな王を排除し、自らが、この国を、正しき道へと導くのだ、と。
しかし、王は変わった。
あの勇者を召喚したあの日、王も、文字通り人が変わったかのように、腐敗貴族の弾劾や財政問題、食糧問題等の国政改革を断行し始めた。
何があったのかはわからない。
王本人は、「獅子身中の虫をあぶり出すための演技だった」と言っていたようだが、リリアナのように、それを簡単に信じるような男ではない。
ただ、王の目は本気であった。
在野から、フィンという天才とロザリアという豊穣の女神を発掘した。
初めこそ、疑いの眼差しを向けていたが、今でこそは、この国を救う疑いもない人材たちと確信している。
―――そして、魔王ヴォルディガーンが、王都に降臨した、あの日。
魔王が提示した、あまりにも残酷な、気まぐれな選択。
『君が、その剣で、自ら命を絶つというのなら、この二人の命は、見逃してあげよう』
イデンは、その言葉を聞いた瞬間、不思議なほどの、安堵を覚えていた。
目の前には、国王アレクシオスが、その命を賭してでも守ろうとしている、この国の、新しい「未来」――フィンとロザリアがいる。
そして、その未来を、自らの、もはや老いさらばえた命一つで、守ることができる。
これほど、割の良い取引はない。
これほど、宰相として、そして、あの老王に忠誠を誓った臣下として、名誉ある死に場所はない。
(……陛下。わしは、ようやく、貴方様との約束を、本当の意味で、果たすことが、できそうですぞ)
彼は、ためらうことなく、自らの心臓へと、そのレイピアを、深々と突き立てた。
薄れゆく意識の中、彼の脳裏をよぎったのは、若き日の、あの夕暮れの寝室。
自分を信じ、この国の未来を託してくれた、賢君の、あの、温かい眼差しだった。
『お前が忠誠を誓うべきは、王個人ではない。この、ロムグールという国、そのものなのだから』
長い、長い呪縛だった。
だが、その呪縛こそが、彼を、最後までロムグール王国の気高き宰相たらしめた、唯一の誇りだったのかもしれない。
イデン・フォン・ロムグールの瞳から、光が、永遠に失われる。
その最期は、確かに、この国の未来を若き才能たちへと繋いで、静かに幕を閉じた。
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