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幕間:『折れた牙、宿る炎』

 

 薬草を煎じる、どこか甘く、そして苦い香りが、静寂に満たした石造りの一室を満たしていた。


 王都カドアテメ、その王城の一角に設けられた特別病室。そこは、大陸各地で繰り広げられ人間の命運を死闘で、最も深手を負った者たちが運び込まれる、祈りと沈黙の場所だった。


 窓から差し込む陽光が、空気中の埃をきらきらと照らし出す。


 その光の中を、一人の少女が、眠ることも忘れたかのように献身的に動き回っていた。


 亜麻色の髪を無造作に束ねたロザリアだ。


 彼女は、王都に残された「恵みの大地の癒し手」として、この部屋に運び込まれた二人の英雄の命を、その細腕一本で繋ぎ止めていた。


 部屋には、二つのベッドが並べられている。


 一つには、ロムグール王国騎士団総司令官、バルカスが横たわっていた。


 彼は現地での応急措置もそのままに、王都まで運び込まれた。


 北のエルヴァン要塞での死闘で負った傷は、彼の鋼の肉体ですら蝕み、その呼吸は浅く、苦しげだ。


 時折、夢の中で再び戦場を駆けているのか、その口からは「グレイデン…」「陛下…」と、うわ言が漏れた。


 そして、もう一つのベッド。


 そこに眠るのは、かつて王国最強の「牙」と謳われ、そして、最も危険な反逆者として地下牢に幽閉されていた男、レナード・フォン・ゲルツだった。


 魔王ヴォルディガーンが放った、ただの一撃。


 その絶対的なまでの力の奔流をその身に受けた彼の身体は、もはや生きているのが奇跡としか言いようのないほど、無惨に破壊されていた。


 ロザリアの【生命活性】の力がなければ、疾うの昔に、その魂は肉体を離れていたことだろう。


「……う……ぐ……っ」


 不意に、レナードのベッドから、苦悶の呻きが漏れた。


 固く閉じられていたその瞼が、ぴくりと痙攣する。


 ロザリアが、はっとしたように彼の元へ駆け寄った。


 幾日にも渡る昏睡から、ついに意識が浮上しようとしていた。


「……こ…こは……」


 レナードの唇から、か細く、乾いた声が漏れる。


 彼の視界は、まだ白く霞んでいた。


 だが、嗅覚は、薬草と血の匂いを確かに捉えている。


 そして、全身を苛む、骨という骨が軋むような激痛が、自分がまだ生きているという、信じがたい事実を叩きつけてきた。


(……俺は、生きている…のか…? あの、化け物の一撃を……受けて……?)


 脳裏に蘇るのは、絶対的な絶望。


 人差し指一本で、自らの最強の剣撃を止め、そして、まるで虫けらでも払うかのように、吹き飛ばされた、あの瞬間。


 自分の全てが、プライドも、力も、存在そのものすらもが、赤子の手をひねるように、無に帰された、あの屈辱。


「……レナード殿! お気づきになられましたか!」


 ロザリアの、安堵に満たした声。


 その声に導かれるように、レナードの視界が、ゆっくりと焦点を結んでいく。


 そして、彼は見た。隣のベッドで、同じように包帯に巻かれ、苦しげな寝息を立てている、一人の男の横顔を。 


 見間違えるはずもなかった。


 その厳つい顔も、鷲のような鼻も、そして、何よりもその男から放たれる、決して折れることのない、不屈の魂の気配も。


 自分が騎士団長の座から引きずり下ろし、そして、自分が最も妬み、恐れた男。 


 バルカス・オーブライト。


「……なぜ……貴様が……ここに……」


 レナードの声には、驚きと、そして、長年染み付いた侮蔑の色が混じっていた。


 その声に、バルカスもまた、ゆっくりと重い瞼を開いた。


「……目覚めたか、レナード。……随分と、長い朝寝だったな」


 バルカスの声は、ひどくかすれていた。だが、その口調だけは、いつものように、不器用で、そして、どこか相手を試すような響きがあった。


「……なぜ、助けた」


 レナードは、絞り出すように言った。


 その瞳には、純粋な疑問と、そして、宿敵に情けをかけられたことへの、屈辱が渦巻いていた。


「俺は、反逆者だぞ。国王を裏切り、この国を売り渡そうとした男だ。そんな俺を、なぜ、貴様が……」


「……勘違いするな」

 バルカスは、ゆっくりと首を横に振った。


「ある御方の遺言なのだ。お前を救えとのな……。」


「……遺言……だと……?」


「そうだ」

 バルカスは、天井を見上げたまま、静かに続けた。


「イデン宰相が、今際にそうお言葉を残された。『彼の剣は、まだこの国に必要だ』、と。それを伝え聞いた、国王陛下の指示でお前を救ったのだ」


 その言葉は、レナードにとって、二重の衝撃だった。


 自分を地下牢に幽閉し、粛清した張本人であるはずの、あの若き王が、自分の命を救えと命じた。


 そして、王国の忠実な信徒であったあの宰相が、かつて混乱をもたらせた私を……。


(……この俺を……必要だと……?)


 理解不能だった。彼の知る王侯貴族とは、あまりにもかけ離れた思考。


 彼の知る権力闘争とは、あまりにも異質な論理。


「……ふん。あの小僧……何を考えている……。俺のような危険な牙を、再び野に放つつもりか。それとも、助けた恩を売り、俺を、飼い犬にでもするつもりか……」


 レナードは、吐き捨てるように言った。


 だが、その言葉には、以前のような絶対的な自信はなく、ただ、戸惑いだけが滲んでいた。


「……さあな。陛下の、お考えの深さなぞ、この老いぼれには、到底計り知れんわ」


 バルカスは、そう言うと、ゆっくりと、レナードの方へと向き直った。


「だがな、レナード」


 その瞳は、レナードの、その魂の奥底までをも、見通すかのように、真っ直ぐだった。


「……俺は、嬉しかったぞ」


「……何?」


「陛下や、生き残った者たちから、報告を聞いた。お前が、あの司令室で、魔王が生み出したという化け物どもを、いとも容易く斬り捨てたと。……それを聞いた時、俺は、心の底から嬉しかった。ああ、こいつの剣は、まだ錆びついてはいなかった、と。腐り果ててなどいなかったのだ、と」


 その言葉は、レナードにとって、あまりにも、意外なものだった

 。

 彼の脳裏に、遠い昔の記憶が、蘇る。


 まだ、バルカスが騎士団長を務めていた頃、自分はただ若く純粋に、バルカスを目指し剣の腕を競い合っていた、騎士団の訓練場。


 背中を預け、数で勝る敵陣へと、共に斬り込んでいった、数々の戦場。


 あの頃、バルカスは、常に自分の前に立ち、そして、自分は、常にその背中を追いかけていた。いつか、この男を超えたいと、ただ、それだけを願っていた。


 だが、いつからか、道は分かれた。


 彼は、騎士としての誇りと忠誠を選び、自分は、貴族としての安寧と、権力への渇望を選んだ。


「……俺は、もう一度、お前と背中合わせで戦いたいと、ずっと思っていた」


 バルカスの、不器用な、しかし、一点の曇りもない、本心だった。 


 その言葉は、レナードが、長年、憎悪と野心という名の、分厚い氷で固めていた心の壁を、ほんの少しだけ、しかし、確かに溶かした。


「……ふん……」


 レナードは、悪態をつくように、鼻を鳴らした。


 そして、バルカスから顔を背けるように、反対側へと寝返りを打った。


「……勝手なことを、ぬかすな、老いぼれが。……俺は、まだ、貴様にも、あの小僧にも、屈したわけではない……」


 その声は、震えていた。


 それは、怒りからでも、屈辱からでもない。


 長い、長い、孤独の闇の果てに、ほんの一筋差し込んだ光に、戸惑っている者の震えだった。


 部屋には、再び、静寂が戻った。


 ただ、薬草を煎じる、甘く苦い香りだけが、漂っている。


 折れた牙と、傷ついた獅子。


 二人の騎士の間に流れる空気は、まだ、ぎこちない。


 だが、その空気の中には、確かに新しい時代の、そして、新たな絆の、微かな予感が宿っていた。


 ロザリアは、そんな二人の様子を、部屋の入り口から、静かに見守っていた。


 そして、その口元に、優しい、しかし、どこか、全てを理解したかのような、穏やかな笑みを浮かべた。


 この国の、本当の夜明けは、まだ、遠いのかもしれない。


 だが、確かな希望の炎は、今、最も暗いと思われた場所で、力強く再び灯されようとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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