第百三十一話:瓦礫の上の円卓
偽りの勝利は、あまりにも大きな爪痕を大陸全土に残した。
東方諸侯連合は、その心臓部を抉られていた。
”疾風”のフェンリラが駆け抜けた風は、死の刃となって諸侯の寝首を掻き、その数、実に十五名。
連合は指導者のほとんどを失い、政治機能は麻痺。
残された者たちと、急遽その重責を担うことになった、父や兄を失った若き当主たちは、ただ、目の前の巨大な現実に怯えることしかできなかった。
ガルニア帝国は、その誇りを、首都ごと粉砕されていた。
”千呪”のヘカテリオンが仕掛けた奇襲と、それによって開かれたゲートから雪崩を打って現れたおびただしい数の魔物たち。
その奇襲によって帝都の中枢は蹂躙され、天穹宮は陥落した。
皇帝と、国政を担っていた首脳陣の多くは、その混乱の渦中で、無念の最期を遂げていた。
アレクシオスたちがヘカテリオンの最後の自爆を食い止めた時、それは帝都の完全な消滅を防ぎはしたが、帝国の心臓は、既に止まっていたのだ。
大陸最強を誇った帝国は、今や頭のない巨人のように、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
北方、エルヴァン要塞は、その「不落」の名を失った。
”不動”のグラズニールが率いた黒鉄の軍勢によって城壁は無残に砕かれ、もはや早々に再建できる状態ではない。
戦闘終結時に立っていた兵士は、わずか数十名。
ただ、懸命な治療によって命が助かった兵士や、敗走した兵士の多くが数日をかけて帰還はしたが、彼らの心に刻まれた傷と、失われた仲間たちの数は、あまりにも甚大だった。
そして、ロムグール王国の王都カドアテメ。
魔王ヴォルディガーン本人の降臨という、悪夢のような厄災は、宰相イデン・フォン・ロムグールと、多数の忠実な衛兵たちの命を奪い去った。
王城には、今も深い悲しみの影が落ちている。
だが、その絶望の中にも、小さな光はあった。
魔王の分身と死闘を繰り広げ、その身を賭して国を守った元騎士団長レナード・フォン・ゲルツ。
彼は、誰もが死を覚悟したほどの深手を負いながらも、「恵みの大地の癒し手」ロザリアの、数日間に渡る不眠不休の、献身的な治癒によって、奇跡的に一命をとりとめていた。
そんな、大陸の全てが、等しく深い傷を負い、そして、魔王が告げた「一年」という絶望的な期限に怯える中。
王都カドアテメの王城、その最も大きな円卓会議室に、再び、代表たちが集結した。
アレクシオスは、その、あまりにも痛々しい「瓦礫の上の円卓」を見渡し、静かに口を開いた。
「皆、集まってくれたことに感謝する。……我々は、勝った。だが、勝利ではない。これは、我々人類が、ようやく、同じスタートラインに立ったというだけのことに過ぎない」
彼の言葉に、誰もが、重々しく頷く。
ヴァレンティンが、力なく、乾いた声で言った。
「……不可能だ、ロムグール王。帝都は、崩壊した。我が軍も、立て直しには、最低でも数年はかかる。その間に、呪いの種は、世界を蝕んでいく。……我らに、打つ手は、ない」
初めて、帝国の将軍が、完全な敗北を認めた。
その言葉が、会議室の絶望を、さらに深いものへと変える。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、砂漠の王国ザルバードの賢者、ジャファルだった。
「……アレクシオス王よ。そして、大陸の同胞たちよ。確かに、状況は絶望的じゃ」
ジャファルは、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃが、我がザルバードは、千年の間、一つの『希望』を、世界から隠し守り続けてきた。今こそ、その固く閉ざされた禁断の扉を、開ける時が来たようじゃ」
ジャファルの、その重い言葉に、会議室の全員が息を呑んだ。
「皆が知る歴史では、こうなっておる。千年前、魔王ヴォルディガーンは、一人の勇者と、一人の大賢者によって、相打ちの形で封印された、と。その大賢者の名は、セレヴィア・ル=メイラン。歴史上、最も偉大な賢者の一人じゃ」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「じゃが、それは、我らが祖先が、世界を守るためについた、千年に渡る『嘘』じゃ。―――大賢者セレヴィアは、生きておる」
「なっ……!?」
「大賢者が……生きている、だと!?」
会議室が、驚愕にどよめく。
「左様。彼女は、何らかの事情で、自らの意志で、現世との交わりを絶った。そして、我がザルバードの大砂漠の、その地下深くにある聖域で、永い眠りについておる。我らがザルバード王国は、その偉大なる賢者の安寧を守るため、そして、その力を悪用しようとする者から彼女を隠すため、千年間、あえて他国との交流を制限し、この秘密を守り続けてきたのじゃ」
ジャファルは、アレクシオスを、真っ直ぐに見据えた。
「じゃが、もはや、隠し通せる時代ではあるまい。魔王が復活し、世界が滅びの道を歩み始めた今、彼女の知識と力こそが、我らに残された、数少ない希望の一つ。彼女は、千年前の勇者と共に旅をした、唯一の生き残り。魔王の、そして、勇者の力の、その根源を、誰よりも知る者じゃ」
「その賢者こそが、魔王を倒すための、もう一つの『鍵』を、握っておる。彼女を味方にできれば、これほど心強いことはない。……もっとも、千年の眠りから覚めた彼女が、再び、我らに手を貸してくれる保証など、どこにもないがな。それは、希望か、あるいは、さらなる絶望か。わしにも、分からぬ。じゃが、もはや、我らに、選択の余地はない」
それは、あまりにも、不確かで、危険な賭け。
だが、絶望の淵に立たされた彼らにとって、それは、唯一、手を伸ばすことのできる、蜘蛛の糸だった。
その、ジャファルの言葉がもたらした、僅かな光。
それを、さらに、確かなものへと変えるように、これまで、ただ静かに瞑目していたもう一人の男が、ゆっくりとその口を開いた。
極東の島国、ヤシマの長、クロガネ。
「……もう一つ、道はある」
その、短く、しかし、鋼のように重い一言に、全ての視線が彼へと注がれた。
「魔王。その名は、我がヤシマにも、禁忌の伝承として遺されている。千年前、彼の者が、世界を支配しようとした時、一人の『異邦の剣士』が、それを阻んだ、と」
クロガネの言葉に、アレクシオスと、そして、眠りから覚め、なぜか真剣な顔で会議の様子を隅で聞いていた田中樹の肩が、ピクリと動いた。
「その剣士が、最後に手にしたという、一本の剣がある。星を読み、世界の理そのものを斬り裂く力を持つという、伝説の刃」
クロガネは、その、面布の奥の瞳で、真っ直ぐに、アレクシオスを見据えた。
「―――『星詠みの神剣』」
「その剣こそが、千年前、魔王ヴォルディガーンの魂を、不完全にではあるが、封じ込めた、唯一の武器。そして、その剣は今、我がヤシマの霊的結界の最奥で、主を待ち眠りについている」
二つの、鍵。
ザルバードの地下に眠る、千年前の「賢者」。
そして、ヤシマの聖地に眠る、魔王を討つための「神剣」。
絶望の闇の中に、二つの、確かな道筋が、示された。
会議室の空気が、一変する。
絶望は、具体的な「目的」と「希望」を前に、確かな「覚悟」へと、その姿を変えていた。
アレクシオスは、静かに立ち上がった。
彼の目の前には、大陸の地図が、そして、その上に置かれた、二つの「鍵」が、はっきりと見えていた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。