第百二十九話:鋼の咆哮
鋼と鋼がぶつかり、肉が裂け、骨が砕ける音が、断末魔の絶叫と混じり合い、エルヴァン要塞の最後の砦である本丸に、地獄の交響曲を奏でていた。
崩れ落ちた城門から、黒鉄の津波となってなだれ込んでくる魔王軍の重装歩兵部隊。
彼らは一体一体が、並の騎士では歯が立たないほどの屈強さを誇り、そして、何よりも、一切の感情を見せずに、ただ前進し、殺戮を繰り返す機械のようだった。
「持ちこたえろ! ここを抜かれたら終わりだぞ!」
若い騎士マルクは、倒れた仲間の亡骸を足場にし、必死に槍を突き出していた。
もはや彼の部隊は半数以下に減り、背後は本丸の、冷たい石の壁。
文字通り、もう一歩も下がることはできない。
壁際に追い詰められていた。
すぐ側では、司令官グレイデン・アストリアが、血と泥にまみれながら、鬼神の如く戦っていた。
だが、その動きは明らかに鈍り、呼吸は荒く、振るう剣は悲鳴のような軋みを上げていた。
彼の左肩には、オークの戦斧が深々と食い込んだ跡があり、そこから流れる血が、彼の鎧を赤黒く染めている。
「師よ!」
グレイデンの視線の先で、老獅子バルカスが、巨大なトロールの一撃をその身に受け、大きくよろめいた。
彼の自慢の大剣は、半ばから無残に折れている。それでもなお、彼は折れた剣を短剣のように握りしめ、敵の喉笛を掻き切ろうと足掻いていたが、その膝は、もはや限界を超えて笑っていた。
絶望。
誰もが、己の死を、そしてこの要塞の陥落を、確信していた。
敵は、勝利を確信し、最後の蹂躙を楽しんでいる。
黒鉄の壁が、じりじりと、しかし確実に、残された者たちを圧殺せんと、その距離を詰めてくる。
(……ここまで、か)
彼が、自らの敗北を、そして師と共にここで果てるという運命を、受け入れようとした、まさにその瞬間だった。
アオオオオオォォォーーーーーーーンッ!
戦場の喧騒、狼の咆哮、その全てを切り裂いて、一つの、あまりにも場違いな声が、谷全体に響き渡った。
空気を凍てつかせるかのような、長く、澄み切った、鋭い遠吠えだった。
それに呼応するように、周囲の谷間から、次々と、同じ遠吠えが重なり、天を震わす大合唱となっていく。
勝利を確信していたオークやトロールたちの獣じみた本能が、強烈な警鐘を鳴らした。
これは、自分たちの縄張りに、新たな狩人が現れたことを告げる、上位捕食者の咆哮。
未知の脅威の出現に、魔物の群れの動きが、明らかに鈍った。
そして、その混乱の中心から、雪崩のように突撃してくる、一団の騎馬隊の姿が見えた。
その数、およそ五百。グラズニールの軍勢に比べれば、あまりにも少ない。
だが、彼らが掲げる旗は、白銀の地に、月に向かって吠える一匹の狼を描いた、シルヴァラント公国の紋章旗。
そして、その騎馬隊の先頭を、馬と並走するように牙を剥いて駆ける、銀色の毛皮を持つ数十頭の巨大な軍狼たちの姿が……! その瞳は、薄暗い戦場で、冷たい光を放っている。
「……な、なんだ……? この音は……」
マルクが、呆然と顔を上げる。
その時、魔王軍の、その鉄壁であったはずの側面が、突如として、内側から爆ぜるように、崩れた。
「な、何事だ!?」
「側面から、奇襲だと!?」
その一団は、この地獄のような戦場には、あまりにも不釣り合いなほど、その銀の鎧を輝かせ、その動きには、一切の疲労も、絶望の色もなかった。
セレスティナ公女の、強い要請と、ロムグールへの信頼の証。
彼女が、連合の約束を果たすべく、最も速く、最も精鋭の騎馬隊だけを選りすぐり、昼夜を問わず、この極北の地へと送り出した、希望の援軍だった。
「我らは、シルヴァラント騎士団! ロムグールの同胞を、救いに来た!」
先頭に立つ、一人の騎士が、馬上から、雷鳴のような声を上げた。
その端正な顔立ちには、強い正義感が宿っている。サー・レオンだった。
「続け! 北の犬どもに、銀狼の牙を見せてやれ!」
彼の号令一下、シルヴァラントの騎士たちが、怒りと、仲間を救うという使命感を、その槍先に込めて、魔王軍の側面を、鋭く、そして、深く抉っていく。
完全に、不意を突かれた。
グラズニールの、完璧に統率された、しかし、それ故に、柔軟性を欠いた陣形は、この、あまりにも鮮やかな一点突破の奇襲を前に、初めて、その統制を乱した。
「今だああああああああああっっ!!」
その、千載一遇の好機を、グレイデンとバルカスが見逃すはずもなかった。
二人の獅子は、その目に、再び、闘志の炎を燃え上がらせた。
「立て! ロムグールの兵ども! 我らが友軍が、到着したぞ!」
「この機を逃すな! 押し返せ!」
二人の絶叫が、死の淵にいたロムグールの騎士たちの心に、最後の、そして、最強の火を灯した。
彼らは、雄叫びを上げ、それまで自分たちを壁際に追い詰めていた黒鉄の軍勢に、怒涛の反撃を開始した。
丘の上で、その光景を、グラズニールは、ただ、無感情に、見つめていた。
彼の、赤い一つ目が、激しく、明滅する。
計算が、狂った。
この、エルヴァン要塞の、これ以上の抵抗は、ありえないはずだった。
敵の援軍は、街道の状況から鑑みて、まだ数日はかかるはずだった。
だが、現実に、彼の完璧な包囲網は、内と外から、同時に食い破られ、その美しいはずの陣形は、無様に崩れ始めている。
ただ、あまりにも寡兵であり、このまま予備兵力を投入し戦闘を続ければ、この砦を落とすことはできるだろう。
だが、そのためには、この、想定外の援軍によって、自軍もまた、少なくない損害を被ることになる。
その時、彼の、機械じみた思考回路に、二つの想定外の報告が、ほぼ同時に、魔力リンクを通じて流れ込んできたのだ。
【報告:対象”千呪”のヘカテリオン、生命反応の完全消滅を確認】
【報告:対象”疾風”のフェンリラ、生命反応の完全消滅を確認】
三方面同時侵攻作戦。その、三つの刃のうち、二つが、砕かれた。
グラズニールの思考は、人間のそれではない。
そこに、仲間を失った「悲しみ」や、敵への「怒り」といった、非合理的な感情が入り込む余地は、一切なかった。
ただ、冷徹な計算だけが、猛烈な速度で、実行される。
彼の思考は、一瞬で、結論を弾き出す。
この戦場での、局地的な勝利に、もはや戦略的な価値はない、と。
彼は、ゆっくりとその巨大な腕を掲げた。
そして、ただ一言だけ全軍に命じた。
「―――撤退」
その、機械のように冷徹な号令。
勝利を目前にしていたはずの魔王軍は、再び、その足を止め、そして、何事もなかったかのように、整然と、魔の森の奥深くへと、その姿を消していった。
後に残されたのは、おびただしい数の亡骸と、そして、共に肩を組み、涙を流しながら、互いの生を確かめ合う、ロムグールとシルヴァラントの騎士たちの姿だった。
グレイデンとサー・レオンは、馬から降り、互いの、血と泥に汚れた手を、強く、固く、握り合った。
勝利の歓声が、今度こそ、エルヴァン要塞に、こだましていた。
それは、多くの犠牲の上に、しかし、確かに、仲間との絆がもたらした、本物の勝利だった。
かなり前のエピソードでも書きましたが、ギリギリ援軍が間に合うっての大好物なんです。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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