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第百二十七話:疾風、堕つ

 

 絶望には、匂いがある。


 血と、泥と、そして仲間が焼ける匂い。


 闇滅隊リーダー、ファムは、巨大な魔狼の前で、吹き飛ばされた衝撃に咳き込みながら、その事実を全身で理解していた。


 肺腑の奥底まで染み渡る鉄錆の味は、自らが流した血の味か、あるいはすぐ傍らで倒れるハヤテが吐き出したものか、もはや区別もつかない。


「がはっ……くそ……!」


 折れた肋骨が肺を突き上げるような激痛。


 だが、それ以上に彼女の心を蝕んでいたのは、圧倒的なまでの無力感だった。


 シズマは、仲間を守るために、その命を光に変えて散った。


 ハヤテは深手を負い、ナシルの魔力も尽きかけている。


 自分たちが、知恵と覚悟の全てを注ぎ込んで仕掛けた完璧なはずの罠は、より巨大な敵の掌の上で、子供の遊びのように、ただの茶番と化した。


(……ここまで、か)


 ファムの脳裏に、諦観という名の冷たい霧が立ち込め始めた、まさにその瞬間だった。


 瓦礫の陰で、仲間を庇うように横たわっていたナシルが持つ、小さな通信魔石が、悲鳴のような光を発して激しく震えだした。


 王都の司令室からの、最上級緊急通信。


『―――こちら王都司令室、フィンだ! 聞こえるか、闇滅隊!』


 ノイズ混じりの、ひどく切羽詰まった声。


 だが、その声の主を、ファムが間違うはずもなかった。


 若き天才補佐官、フィンの声だ。


『緊急事態だ! 王様たちが帝国へ向かっている隙を突き、魔王ヴォルディガーン本人が、王都に降臨した!』


「なっ……!?」


 フィンの言葉に、かろうじて意識を保っていたハヤテとナシルも息を呑む。


『……宰相イデンが、死んだ。俺とロザリアの命のために、たった一人で魔王に立ち向かった……。あのジジイ、最後の最後で、とんでもねえ置き土産を残しやがった……!』


 フィンの声は、激しいノイズの向こうで、悲しみと怒りに震えていた。


『王様とは、まだ連絡が取れねえ。だが、俺は、俺の判断で、全戦線にこの事実を伝えている。……いいか、ファム。てめえらが、ここで負けたら、あのジジイの死は、本当に犬死にだ。……分かってんだろ? こっちも、これから正念場だ。てめえらも、さっさとそっちの四天王を狩って、無事に帰ってこい! いいな! ……以上だ!』


 通信が切れる。


 後に残されたのは、重い沈黙と、自分たちの無力さを嘲笑うかのような、風の音だけ。


 だが、その報せは、ファムの心に立ち込めていた絶望の霧を、一瞬にして吹き飛ばした。


 代わりに燃え上がったのは、黒く、熱く、そして、どうしようもなく純粋な、怒りの炎だった。


「……そうかよ、あのジジイ。あんたでも、死ぬことがあるんだな」


 ファムは、ゆっくりと立ち上がった。


 その瞳には、もはや恐怖の色はない。あるのは、仲間を、そして遠い地で散った老獪な忠臣を弔うための、冷徹なまでの怒りだけだった。


 彼女は、目の前の「獣」を、改めて観察した。


 圧倒的な力、驚異的な再生能力。だが、その動きは、人であった時よりも、遥かに直線的で、本能に忠実だ。


(……獣は、どんなに強くても、獣だ。奴の強みは、その五感。なら、そこを突くしかねえ)


 ファムは、瓦礫の陰で荒い息をつく二人の仲間の元へ、低い姿勢で駆け寄った。


「おい、二人とも、聞こえるか。最後の博打だ」


 彼女の声は、か細いが、鋼のような意志が宿っていた。


「ナシル。てめえの鏡で、幻を見せられるか? 光じゃねえ。音だ。こいつの、主人の声とか、そういう、獣の忠誠心に直接訴えかけるような、幻聴を」


「……魔力が、ほとんど残っていない。だが、奴の意識に一瞬だけ、ノイズを走らせることなら……あるいは」ナシルは、血の気の引いた顔で頷いた。


「ハヤテ。お前、もう剣を振るう力はねえだろ。だが、死んでもいい。投げるくらいはできるはずだ。あいつが幻聴に気を取られた瞬間、剣を奴の目に向けて投げつけろ。」


「……承知」

 ハヤテは、血の滲む唇で、短く応えた。


「―――その一瞬で、俺がケリをつける」


「魔王様が、お一人で……。グルルルル……。それで君たちは、まだ、遊ぶ気かい? 健気で、哀れなネズミさんたち」


 王都の情勢を聞いた魔狼フェンリラは、彼女らが何をしようとしているのか、その光景を、心底楽しそうに見下ろしていた。


「待ってくれてありがとうよ!」


 ハヤテが、最後の力を振り絞り、立ち上がった。それは、もはや剣技ではない、ただの特攻。


「おおおおおおおっっ!!」


「無駄よ」


 フェンリラの巨大な爪が、ハヤテの身体を、虫けらのように薙ぎ払おうとした、まさにその瞬間。


『―――フェンリラ』


 彼女の脳内に、直接、声が響いた。


 懐かしい、主の声。


 魔王ヴォルディガーンの声。


 ナシルが、鏡の力を使い、フェンリラの記憶の残滓から作り出した、完璧な幻聴だった。


 普段なら騙されなかっただろう。 


 フィンからの知らせで魔王の名前が出たことによる意識付け。


「ッ!?」


 獣の本能が、その声に、絶対的な忠誠心と共に反応する。


 彼女は、一瞬、ほんの一瞬だけ、声のした方角――ハヤテとは逆の方向へと、その意識を向けた。


 その隙を、ハヤテは見逃さなかった。


 彼は、腕の骨が軋むのも構わず、霊刃を、回転させながらフェンリラめがけて全力で投げつけた。


 そこでも、恐るべき反射神経で霊刀を避けるフェンリラ。


「お前が狙いじゃない……!」


 フェンリラから逸れた霊刃が石畳に当たって砕ける、その瞬間に生まれる、強烈な閃光と破片。


「―――しまっ!」


 フェンリラが罠に気づいた時には、遅かった。


 霊刃は、彼女の目の前で石畳を砕き、おびただしい数の石の破片と、聖なる光の火花が、その両の眼球を無慈悲に襲った。


「ギイイイイイイイイアアアアアアッッ!!」


 視界を焼かれ、フェンリラが、苦痛と混乱に、咆哮する。


 その、仲間たちが命を賭して作り出した、たった数秒の好機。


 ファムは、すでに駆けていた。


(―――見てろよ、シズマ。イデンのジジイ。てめえらの死、俺が、最高の舞台で、弔ってやる!)


 彼女の身体が、これまでの人生で最も速く、そして、最も正確に、敵の核へと迫る。


 シズマの霊刃。


 血と泥に汚れたしまった霊刀。


 その切っ先に、彼女の、怒りと、悲しみと、そして仲間への感謝、その全てを込めて。


「もらったァ!」


 ファムの渾身の一撃が、視界を失い、無防備に咆哮する魔狼の、その喉元、獣としての最大の急所へと、深々と突き立てられた。


 その一撃は、再生能力の源である魔力の流れそのものを、内側から、完全に断ち切った。


「ガアアアアアアアアアアアア……ッ!」


 おぞましい絶叫と共に、フェンリラの巨体は、その維持を保てなくなり、急速に収縮していく。


 黒い邪気が霧散し、後に残されたのは、血と泥に汚れた、銀髪の、美しい女の姿だった。


 彼女は、自らの喉に突き刺さる短剣を見下ろし、そして、ファムの顔を見上げ、信じられないといった表情で立ち尽くしていた。


 しかし、その唇の端には、最後まで獲物を侮るかのような、冷たい笑みが浮かんでいた。


「……くくっ……やるじゃないかい、人間のネズミ……。だが、これで……終わりだと、思うなよ……。次の……風は……もっと、冷たい……ぞ……」


 それが、彼女の最後の言葉だった。


 フェンリラの身体は、光の粒子となって、夜の闇へと、静かに消えていった。


 後に残されたのは、おびただしい数の傷を負い、それでもなお、互いの身体を支え合うようにして、確かに立っている、三人の影だけだった。


 ファムは、自らの震える手を、強く、強く握りしめた。


「……帰るぞ。ボスが、待ってる」


 その声は、まだ、少しだけ震えていた。


 東の空が、ゆっくりと、白み始めていた。


 それは、あまりにも大きな代償の上に勝ち取った、血塗れの夜明けだった。


 闇滅隊の三人は、シズマとイデンの死を胸に、しかし、確かな勝利を手に、次なる戦場を見据えるのだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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