第百二十五話:宰相イデンの最後の忠義
最強の盾が、砕けた。
ロムグール王国が誇る最後の牙、レナード・フォン・ゲルツが、まるで子供のようにあしらわれ、壁際に崩れ落ちる。
その光景は、フィンとロザリアの心に、絶対的な絶望という名の、冷たい楔を打ち込んだ。
「さて、と」
玉座に腰掛けた魔王ヴォルディガーンは、満足げにその光景を見渡した。
「牙が折れた今、君たちに、何ができるのかな?」
絶望。
その一言だけが、その場を支配していた。
だが、その、絶対的な絶望を前に、一つの、老いた影が、ゆっくりと、立ち上がった。
「……まだ、終わってはおりませぬぞ、魔王」
宰相イデン・フォン・ロムグール。
「ほう?」
ヴォルディガーンは、初めて、イデンに興味を示したかのように、小首を傾げた。
「古い方の頭脳か。君が、その、錆びついた針で、僕を刺せるとでも?」
「いいえ」
イデンは、静かに首を横に振った。
「貴殿を、このわしが倒すことなど、できぬ相談。それは、重々、承知している」
彼の視線は、魔王ではなく、その後ろ、呆然と立ち尽くすフィンとロザリアへと向けられていた。
「このお二人は、陛下が、この国に残された、未来そのもの。ここで死なせるわけには、いかぬのだ」
「宰相……あんた……」
「わしは、宰相。国を守り、王に尽くすのが、わしの本分。―――たとえ、その身命を賭してでも、な」
イデンは、魔王へと向き直ると、そのレイピアを、中段に構えた。
その、あまりにも無謀な、しかし、あまりにも気高い、最後の抵抗の意志表示だった。
魔王は、その光景を、心底、楽しそうに眺めていた。
しばらく、イデンの、その揺るぎない覚悟を、まるで面白い芝居でも見るかのように観察していたが、やがて、ふと、思いついたように言った。
「……そうだ」
ヴォルディガーンは、その無邪気な笑みで、悪魔の提案を口にした。
「君が、その剣で、自ら命を絶つというのなら、この二人の命は、見逃してあげよう」
それは、魔王の、ほんの気まぐれ。
ただの、思いつき。
彼の退屈を紛らわすための、残酷で、しかし、抗いようのない、絶対的な選択肢。
「なっ……!?」
フィンが、絶句する。
「イデン様、いけません!」
ロザリアが、悲痛な声を上げる。
だが、イデンは、笑った。
その口元に、満足げな、そして、どこか安堵したかのような、笑みが浮かんでいた。
(……なるほど。そういうことか。この老いぼれの命一つで、この国の未来が二つ、救えるのであれば……これほど、割の良い取引はない)
彼は、一切の躊躇も、一瞬の間もなく、その構えていたレイピアの切っ先を、自らの胸へと、翻した。
その切っ先が、自身の胸に触れようとした、その瞬間。
イデンの脳裏に、遠い昔の記憶が、鮮やかに蘇った。
―――あれは、まだ彼が、その類まれなる才覚を認められ、王城の若き官僚として、国政の一端を担い始めた頃。
先々代の国王陛下、すなわち、アレクシオスの祖父君が、病の床に伏していた時のこと。
老王は、人払いをすると、病床から、若きイデンを、ただ一人枕元へと呼び寄せた。
『……イデンよ。よく、聞いてくれ。わしの息子……次の王となる、あいつは……愚か者だ』
老王の目には、涙が浮かんでいた。
『わしには、分かっておる。あいつは、王の器ではない。その気まぐれと、虚栄心で、いつか、必ず、この国を傾かせるだろう。……そして、おぬしのような、国を憂う、真の才を持つ者が、それに我慢ならず、いつか、奴を排除しようとすることもな』
「陛下……」
『だが、それだけは、ならんのだ、イデン』
老王は、懇願するように、続けた。
『王族のおぬしが動けば、国は、内乱で二つに割れる。そうなれば、それこそ、この国は、本当に、滅びる。……だから、頼む。わしの、最後の願いだ。あいつの代では、どうか、おぬしのその力で、この国を、支えてやってはくれぬか。おぬしが忠誠を誓うべきは、王個人ではない。この、ロムグールという国、そのものなのだから』
その、老王の、血を吐くような願い。
それは、若きイデンにとって、生涯を縛る、重い、重い「呪い」となった。
彼は、その約束を、忠実に守り続けた。
無能な先代王の、数々の愚行に、血の涙を流しながらも、耐え忍んだ。
彼が、ついに、その「呪い」を破る決意をしたのは、その息子である、転生前のアレクシオスまでもが、父と同じ、あるいはそれ以上の、愚か者であると、確信した時だったのだ。
―――そして、今。
目の前には、そのアレクシオスが、命を賭してでも守ろうとしている、この国の、新しい「未来」がある。
そして、その未来を、自らの命一つで、守ることができる。
(……先々代陛下。わしは、ようやく、貴方様との約束を、本当の意味で、果たすことが、できそうですぞ)
彼は、ためらうことなく、自らの心臓へと、そのレイピアを、深々と、突き立てた。
「やめろ、ジジイ!」
フィンが、手を伸ばす。
ゴフッ、と、イデンの口から、大量の血が、吐き出される。
だが、その顔は、不思議なほど、穏やかだった。
彼の身体は、糸が切れた人形のように、ゆっくりと、床に崩れ落ちた。
「……素晴らしい! 実に、見事な、即決だった!」
ヴォルディガーンは、その光景に、心から、楽しそうに、拍手を送った。
「約束通り、君たちの命は、見逃してあげよう。……まあ、今日は、もう、飽きたしね」
魔王は、そう言い残すと、満足げに、すっと、その場から姿を消した。
後に残されたのは、静まり返った司令室と、自らの命を、最後の交渉カードとして、国と、若き才能たちを守り抜いた、一人の、老宰相。
そして、その、あまりにも気高い自己犠牲を前に、ただ、立ち尽くすことしかできない、フィンとロザリアの、慟哭だけだった。
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