第百二十話:静寂の王都
王による親征。
その事実は、王都カドアテメの空気そのものを、重く、そしてどこか心もとないものに変えていた。
街には復興の槌音が響き、市場には活気が戻りつつある。
民衆は、国王アレクシオスが断行した改革の成果を肌で感じ、日々の暮らしに追われていた。
だが、誰もが知っている。
自分たちの王と、国の精鋭たちが、今、遠い三つの地で、大陸の命運を賭けた死闘を繰り広げていることを。
「東方の戦況は、依然、膠着状態……」
「北のエルヴァン要塞からは、数日前から連絡が途絶えていると……」
「帝国では、今も魔物が暴れ続けているらしい……」
酒場や井戸端で交わされる会話の端々には、隠しようのない不安が滲んでいた。
彼らは祈る。王の、そして、家族や友人である兵士たちの、無事の帰還を。
王城の一室。
部屋の主であるフィンは、目の下に深淵のような隈を作り、羊皮紙の山と、壁一面に広げられた巨大な大陸地図を、血走った目で見比べていた。
そして、その彼の隣。
豪奢な椅子に深く腰掛け、静かに茶をすすりながら、同じく地図を睨みつけている老人がいた。
宰相イデン・フォン・ロムグール。
王の不在を預かる、最高責任者である。
「……ちっ。東方諸侯連合の、あの強欲な商人どもめ。戦況の膠着をいいことに、我が国へ送る武具の値段を、また三割も吊り上げてきやがった。足元を見やがって」
フィンが、忌々しげに吐き捨てる。
「ふむ。オルデイン商会の、あの古狸のことか」
イデンは、茶碗を置くと、フィンを値踏みするように目を細めて言った。
「あの男は、欲も深いが、それ以上に面子と、家の古い伝統とやらを重んじる。陛下から預かっておる、王家の紋章入りの書状を一つ、送っておこう。『ロムグール王家は、古き良き友との絆を、何よりも大切にする』と、一筆添えてな。それだけで、価格は元に戻る」
「……へっ。あんたのやり方は、相変わらず悪辣だな、ジジイ」
「口の利き方に気をつけよ、若造。政治とは、そういうものだ。貴様のその数字は、確かに正しい。だが、人を動かすのは、数字だけではないぞ」
イデンはそう言って、別の報告書に目を移した。
その瞳は、まるで次の試験問題を出す教師のようだ。
「それよりも、貴様がまとめた、各貴族領からの徴兵リスト。南部のいくつかの爵家からの徴兵率が、目標を著しく下回っておるようだが、これはいかに。これも、数字とやらで解決できるのかな?」
「ああ、それか」フィンは顔をしかめた。
「あの連中、『領内の治安維持のため、兵は出せぬ』の一点張りだ。データを見る限り、奴らの領地じゃ、ここ数年、まともな盗賊騒ぎすら起きてねえ。単純に、自分の兵力を温存したいだけだ」
「そんなこと誰にでもわかっておる。では、どうするつもりかな? 王命であると、力でねじ伏せるか?」
イデンの試すような視線に、フィンは苛立ちを隠さずに答える。
「当たり前だ。王命に背く者は、反逆罪で処断すりゃいい」
「短慮である」
イデンは、フッと息を吐いた。
「貴様は、数字の計算はできても、人の心の計算は、まだまだのようだ。王が不在の今、力で押さえつければ、他の貴族たちに無用な警戒心と反発を招くだけ。それは論理ではなく、ただの自滅だ。彼らは数字では動かぬ。彼らを動かすのは、いつの時代も『名誉』と『体面』。……まあ、見ていろ。この老いぼれのやり方を」
イデンは、楽しむように、しかしその目は一切笑わずに、フィンを見下ろした。
「脅しでは、人は動かぬ。欲で釣るのだ、若造」
若き天才の、論理と効率に基づいた戦略。
そして、老練な宰相の、権謀術数と人脈を駆使した政治力。
相容れない二つの才能が、今は、王の不在という危機的状況下で、奇妙な連携を生み出していた。
一方、その頃。
王都の、かつて貧民街と呼ばれた一角に新設された、公共の炊き出し所兼診療所では、ロザリアが、柔和な、しかし、疲れの滲む笑顔で、民衆に接していた。
「はい、おばあちゃん、今日の分のお芋のスープよ。火傷に気をつけてね」
「坊や、まだ少し咳が出るのね。この薬草を煎じたお茶を、寝る前に、ゆっくり飲むのよ」
彼女が育てた「太陽の実」は、多くの民を飢えから救う。
そして、彼女が持つ薬草の知識は、先の呪詛事件で心身に傷を負った人々の、最後の拠り所となっていた。
彼女は、目の前の命を救いたい一心で、この数週間、ただ身を粉にして働き続けていた。
◇
その日の夜。
全ての喧騒が静まり、王城の食堂で、フィンは、味のしない黒パンを、機械のように口に運んでいた。思考は、まだ、兵站の数字の上をさまよっている。
「……フィンさん」
静かな声に顔を上げると、そこに、ロザリアが、湯気の立つ木の器を手に、立っていた。
「よかったら、これを。試験農場で採れた、新しいお芋です。少しだけ、バターも手に入ったので」
器の中には、黄金色に輝く、ふかした芋が、優しい香りを立てていた。
「……ああ」
フィンは、短く応えると、無言で、その芋を、一口食べた。
温かい。そして、甘い。
その、あまりにも、実直で、優しい味が、彼の、張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ、緩ませた。
「……そっちも、大変なんだろ」
フィンが、ぽつりと、呟いた。
「いいえ。私にできることなんて、これくらいですから」
ロザリアは、静かに首を振った。
「フィンさんこそ。宰相様と、この国を支えてくださっているのは、貴方ですもの」
二人の間に、静かな沈黙が流れる。
それは、互いの労をねぎらい、そして、同じ不安を共有する、仲間だけの、沈黙だった。
「……王様たち、大丈夫かな」
「……ええ、きっと。アレクシオス様は、必ず、戻ってこられますわ」
ロザリアは、そう、自分に言い聞かせるように、言った。
全ての喧騒が静まり、人々が、それぞれの不安と、僅かな希望を胸に、眠りについた、王都カドアテメ。
その、遥か上空。
天を覆う雲の、さらに上。
誰の目にも映らぬ、世界の理の外側で、一つの、人懐こい、無邪気な笑みを浮かべた「何か」が、楽しそうに、眼下の世界を感じ取っていた。
水鏡に映すまでもない。眠りにつく子供の、穏やかな寝息。
酒場で、明日を憂いながら杯を干す兵士の、かすかな溜息。
恋人たちの、他愛ない睦言。
その、ちっぽけで、健気な営みの、その全てが、彼にとっては、極上の娯楽だった。
「いいね。本当に、良い静けさだ」
彼は、その無数の光の一つ一つが、これから、自らが放つ、たった一つの『絶望』によって、どのような悲鳴を上げるのかを想像し、くつくつと、喉の奥で笑った。
「僕の、新しい世界に、ふさわしい」
その呟きと共に、王都の夜空に、誰も気づかぬ、不吉な流星が、一つ、音もなく、尾を引いた。
嵐の前の、最後の静寂は、もうすぐ、終わる。




