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第百十八話:不動の絶望

 

 命からがら、という言葉ですら生ぬるい。


 グレイデン・アストリア率いる残存部隊が、エルヴァン要塞の内門をくぐり抜け、その重い鉄の扉が背後で閉ざされた時、兵士たちの間から安堵の声は一切上がらなかった。


 代わりに、極度の緊張と消耗から解放された反動で、その場に崩れ落ちる者、仲間だったものの亡骸を抱えて、声もなく涙を流す者、そして、ただ虚空を見つめて呆然とする者。


 そこにあったのは、生還の喜びではなく、あまりにも大きな代償を払った、敗北にも似た静寂だった。


 副官のサンゼンが、血と泥に汚れた顔でグレイデンの元へ駆け寄る。


「司令官! 負傷者の収容を急がせておりますが、半数近くが深手です! 治癒師たちも、もはや魔力が……」


「……分かっている。やれるだけのことをやれ。死なせるな。一人でも多く、だ」

 グレイデンの声は、自分でも驚くほど、乾いて冷たく響いた。


 若い騎士マルクもまた、城壁に背を預け、震える手で兜を脱いだ。兜の内側には、父が持たせてくれた、小さな布製のお守りが縫い付けられている。


 彼は、それを固く握りしめた。脳裏に焼き付いて離れないのは、黒鉄の津波の中へと、笑いながら消えていった老獅子たちの、あまりにも壮絶な最後の姿だった。


 死の間際に仲間を突き飛ばし、笑っていたあの老騎士の顔が、自分のことのように思い出される。


(俺は、生き残ってしまった……。あの人たちが、命を賭して、俺たちを……)


 その事実は、彼に罪悪感と、そして言葉にできぬほどの無力感を植え付けていた。


 グレイデンは、誰に声をかけるでもなく、一人、よろめく足で、再び城壁の上へと登った。


 彼の視線は、眼下に広がる、静けさを取り戻した雪原に向けられている。


 つい先ほどまで、数万の軍勢がひしめき合っていた場所。


 今は、おびただしい数の亡骸と、破壊された攻城兵器の残骸が、その戦いの激しさを物語っていた。


 彼の右手には、ボロボロに引き裂かれ、血に染まった獅子の紋章旗が、固く握りしめられていた。


 師であり、父のようでもあった、バルカスが最後に掲げた旗。


『―――お前は、生きろ。そして、私の代わりに、王の、そしてこの国の、『盾となれ!』』


 師の最後の言葉が、耳の奥で、何度も何度も反響する。


 守ると誓ったはずの師は、もういない。


 代わりに、自分たちが生き残った。


 この、あまりにも重い現実に、グレイデンの心は張り裂けそうだった。


 脳裏に蘇るのは、騎士団に入団したばかりの頃の記憶。


 木剣を弾き飛ばされ、泥にまみれた自分に、師は容赦なく言い放った。


「その程度でへこたれるな、小僧! 騎士の盾とはな、ただ硬ければ良いのではない。受けた衝撃を、いかに殺し、いなし、そして次の一撃に繋げるかだ! 痛みも、絶望も、全てを力に変えてこそ、真の盾となる!」


 あの頃は、ただ厳しいだけだと思っていた言葉が、今、彼の骨身に染みた。


(痛みも、絶望も、力に変えろ、と……。師よ、貴方の最後の教え、あまりにも、厳しすぎますぞ……)


 だが、彼は司令官だった。


 悲しみに暮れることも、絶望に膝をつくことも、許されない。


 彼は、残された者たちを、この国を、守り抜かねばならない。


 グレイデンは、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳から、悲しみの色は消えていた。


 代わりに宿っていたのは、全てを失い、それでもなお、全てを背負うと決めた男の、氷のように冷たい、不動の覚悟だった。


(見ていてください、師よ。貴方が繋いでくださったこの命、必ずや、この北壁を守るための礎としてみせる)


 彼は、残った兵士たちに、矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。


 負傷者の収容、城門の応急処置、そして、残された武器と食料の再確認。


 その声は、師を失い、全ての責務をその双肩に負った、北壁の守護者としての、揺るぎない覚悟そのものであった。


 兵士たちもまた、司令官のその姿に、失いかけていた闘志を再び奮い立たせる。


 束の間の、静寂。


 だが、その静寂は、あまりにも唐突に、そして無慈悲に破られた。


 ザッ……ザッ……ザッ……。


 地の底から響くような、無機質な音。それは、地震ではない。数万の軍勢が、まるで一体の機械のように、寸分の狂いもなく歩調を合わせている音だった。


 見張り台の兵士が、恐怖に引きつった声で叫んだ。


「て、敵陣が……! 敵陣が、再編成を完了! 再び、こちらへ……!」


 グレイデンが城壁の狭間から眼下を見下ろすと、そこには予期していた、しかし認めたくなかった光景が広がっていた。


(やはり……こうなったか。我らの突撃は、奴の『不動』の仮面を剥がし、その焦りを誘った。だが、その代償は、これか……! 消耗戦を捨て、奴は、あの忌まわしき兵器で、我らを一息に叩き潰すことを選んだ……!)


 その考えを裏付けるかのように、それまで丘の上で微動だにしなかったグラズニールの本隊が、中央から二つに割れていく。


 そして、その間から、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で、一つの巨大な魔導兵器が姿を現したのだ。


 マルクは、隣にいた歴戦の騎士が、力なく盾を取り落とすのを見た。


「…終わりだ」

 その呟きは、誰に向けたものでもなかった。


 バルカス様たちが、命を賭して稼いだ時間が、この絶望の前では、あまりにも無力に感じられた。


 巨大な破城兵器は、ゆっくりと、その狙いを定める。


 その、巨大な魔石の切っ先が、寸分の狂いもなく、要塞全体を揺るがす不気味な振動に耐え、今にも崩れ落ちんばかりに軋みを上げるエルヴァン要塞の城門へと、真っ直ぐに向けられた。


 そして、その魔石が、おぞましい光を、その内部で、チャージし始めた。


 空気が、ビリビリと震え、魔力の奔流が、嵐のように渦を巻き始める。


 周囲の光が、まるで魔石に吸い取られるかのように、薄暗くなっていく。


 グレイデンは、ただ、その光景を、固唾をのんで見つめていた。


 その背中は、決して、揺るがなかった。


 彼の師が、その命を賭して守った、北壁の新たな「盾」として。


 不動の絶望が、今、まさに、その鉄槌を振り下ろそうとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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