第百十六話:偽りの本陣
夜明けは、まだ遠い。
エルヴァン要塞の城内は、死んだかのように静まり返っていた。
だが、その静寂は安らぎではなく、鋼が限界まできしむ音にも似た、張り詰めた緊張に満ちていた。
出撃を命じられた騎士たちは、それぞれの持ち場で、無言のまま、その時を待っていた。
ある者は、家族から送られた、擦り切れたお守りを固く握りしめ、
ある者は、震える手で、愛剣に最後の油を塗り込んでいる。
その誰もが、これから自分たちが向かう場所が、生きては戻れぬ死地であることを、理解していた。
新生騎士団の一員として、この極北の地に派遣された若き騎士マルクも、その一人だった。
彼は、父が打ってくれた、決して上等ではないが、頑丈な長剣の柄を、何度も何度も握り直した。
怖い。
死にたくない。だが、それ以上に、彼の心を満たしていたのは、不思議なほどの高揚感と、誇らしさだった。
あの、王都で見た、鬼のように厳しい、しかし、誰よりも国を憂う老将軍と、若き司令官。
彼らと共に、この国の、大陸の命運を賭けて戦える。騎士を志した者として、これ以上の誉れがあるだろうか。
彼の脳裏に、王都の練兵場で見た、あの奇妙な勇者の姿が浮かぶ。
泥だらけになりながら、悪態をつきながら、それでも、何度打ちのめされても立ち上がっていた、あの姿。
(勇者様だって、戦っている。俺も、負けてはいられない)
マルクは、そう心の中で呟くと、決意を固めた目で、分厚い城門を見据えた。
やがて、東の空が、血を滲ませるように、ゆっくりと白み始める。
ギギギ……と、巨大な鉄の城門が、断末魔のような軋みを上げて開かれていく。
その隙間から、極北の冷気が、決戦へと向かう騎士たちの頬を、刃のように打ちつけた。
「全軍、突撃ィィィッ!!」
グレイデンの、腹の底から絞り出した号令が、戦場に響き渡る。
それを合図に、バルカスとグレイデンが率いる二つの騎馬隊は、二本の、鋼の槍となって、眼下に広がる黒鉄の軍勢へと、雪崩を打って突き進んだ。
「「「うおおおおおおおっっ!!」」」
ロムグールの獅子たちの、死を覚悟した雄叫び。
マルクも、周りの騎士たちと共に、喉が張り裂けんばかりに叫びながら、愛馬の腹を蹴った。
大地が、数千の馬蹄に揺れる。
その振動が、恐怖を、興奮へと変えていく。
奇襲は、当初、成功しているかのように見えた。
陽動として、敵陣の左右の側面に突撃した二つの部隊は、凄まじい勢いで、敵の陣形を抉っていく。
「行けるぞ!」「道を開けろ!」
マルクは、ただ、無我夢中だった。
隣の騎士が、オークの振り下ろした巨大な戦斧に、馬ごと叩き潰される。返り血が、彼の頬を濡らした。
だが、悲しむ暇も、恐怖する暇もなかった。
目の前に現れた、新たな敵。
彼は、父から教わった通りの太刀筋で、ただ、必死に、剣を振るった。
グレイデンが率いる中央突破部隊は、敵陣の、まさに心臓部へと、鋭く切り込んでいく。
「見たか! 敵の陣形が乱れているぞ!」
副官のサンゼンが、歓喜の声を上げる。
その言葉通り、あれほど鉄壁に見えたグラズニールの軍勢は、この、あまりにも無謀な突撃を予測していなかったかのように、その陣形を乱し、後退を始めていた。
「よし! このまま、中央の本陣まで、一気に駆け抜けるぞ!」
グレイデンは、馬上から叫んだ。
彼の視線の先には、斥候が報告した通り、巨大な戦象に引かせた、あの黒曜石の台座が見える。
あれこそが、グラズニールの本陣。
あの『頭脳』を叩けば、この戦いは終わる。
だが、敵陣を深く切り進むにつれて、バルカスの、その歴戦の勘が、警鐘を鳴らし始めていた。
(……おかしい)
敵の抵抗が、あまりにも、弱すぎる。
こちらの突撃の勢いを、巧みに受け流し、まるで、望んだ場所へと、誘導しているかのようだ。
これは、敗走ではない。
秩序だった、後退。
いや、意図的な『誘引』だ。
「グレイデン! 待て、罠だ!」
バルカスが、叫んだ。
だが、その声は、鬨の声と、剣の交わる轟音の中に、かき消される。
突撃の勢いは、もはや、誰にも止められない。
そして、彼らが、ついに、黒曜石の台座まで、あと一歩という距離まで迫った、その瞬間だった。
台座の上に、グラズニールの姿は、なかった。
そこにあったのは、ただの、空っぽの鎧。
そして、その鎧が、くつくつ、と、嘲笑うかのように、紫黒の魔力を放って、霧散した。
幻影。
偽りの、本陣。
「しまっ……!」
グレイデンが、自らの誤算に気づいた時には、全てが、手遅れだった。
ブオオオオオオオオオオッ!!
地の底から響くような、おぞましい角笛の音が、戦場全体を揺るがした。
それは、反撃の合図。
罠が、発動した音だった。
それまで後退していたはずの敵兵が、一斉に、その足を止める。
そして、大地が、再び、震え始めた。
彼らが切り開いてきたはずの後方から、そして、これまで潜んでいた左右の森の中から、新たな、そして、より屈強な、黒鉄の重装歩兵部隊が、地を割って現れたのだ。
彼らは、ただ、無言で、巨大な盾を、寸分の隙間もなく、並べる。
それは、もはや軍隊ではない。
ロムグールの騎士たちを、完全に閉じ込めるための、鉄の、巨大な「檻」だった。
「か、囲まれた……!?」
「退路が……断たれている!」
騎士たちの顔から、血の気が引いていく。
狩人であったはずの彼らが、今、完全に、狩られる獲物へと、その立場を逆転させられていた。
マルクも、その絶望的な光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。あれほど、勝利を確信していたはずの空気が、一瞬にして、死の匂いが充満する、絶望のそれに変わる。
遥か遠く、丘の上に新しく築かれた、本物の本陣。
その、安全な場所から、”不動”のグラズニールは、自らが仕掛けた、完璧な罠にかかった獅子たちを、その、感情のない赤い光で、ただ、静かに見下ろしていた。
彼は、ただ一言だけ、誰にともなく呟いた。
「……愚か、な」
「……やられた、か」
包囲網の中心で、バルカスの口から、乾いた声が漏れた。
自分たちの、最後の希望であったはずの作戦。
それすらも、この、恐るべき敵の、掌の上で、踊らされていたに過ぎなかったのだ。
鉄の包囲網は、ゆっくりと、しかし、確実に、その輪を、狭め始めていた。
獅子たちの、断末魔の咆哮が、極北の冷たい空に、虚しく響き渡ろうとしていた。
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