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第百十三話:悪魔の心臓、魔王の器

 

「―――王手だ、ヘカテリオン」


 若き王アレクシオスの、その静かな、しかし絶対的な勝利宣言。


 それは、破壊され、静寂を取り戻した帝都の広場に確かに響き渡った。


 地に膝をつき、自らが流す黒い血を見下ろしていた”千呪”のヘカテリオンは、その言葉にゆっくりと顔を上げた。


 その、常に優雅な笑みをたたえていたはずの顔は、今はもう、見る影もない。


 衣服はズタズタに引き裂かれ、その瞳には、自らの完璧な計画が、最も愚かで、最も予測不能な形で打ち破られたことへの、純粋な驚愕と、底なしの怒りが渦巻いていた。


「王手……だと……?」

 ヘカテリオンは、絞り出すような声で、その言葉を繰り返した。


「この、私が……? 人間ごときに……? この、美しい私の芸術が、こんな、泥と、汗と、くだらない感傷にまみれた、獣のような暴力に……?」


 だが、その瞬間。


 ヘカテリオンの、絶望に歪んでいたはずの表情が、再び、狂気じみた、歓喜の笑みへと変貌した。


「ふ……ふふ……ああ、そうか。そうだったのか。私は、間違っていた。最高の芸術とは、鑑賞するものではない。演者が、自ら、そのものになることだったのだ!」


 彼は、よろめきながらも、その身を起こした。


 そして、両腕を、天へと大きく広げる。


「君たちは、確かに、私の『儀式』を破壊した。ならば、見せてやろう。この私自身が、最高の『作品』となり、この帝都に、永遠に忘れられぬ、滅びの傷を刻む、その瞬間を!」


 ヘカテリオンは、自らの胸に、その爪を深々と突き立てた。 


 彼の胸は、まるで門のように、黒い光を放ちながらゆっくりと開いていく。


「陛下、いけません!」

 リリアナが、戦慄に声を震わせる。


「彼が、この広場に残る全ての邪気を…ゲートの残骸を…いいえ、帝都に溜まった全てのエネルギーを、その身に集めています!」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


 凄まじい地響きと共に、破壊されたゲートの残骸から、大地に染み付いた呪詛から、そして、この戦いで死んでいった者たちの無念から、おびただしい量の黒い邪気が、奔流となってヘカテリオンの胸の「門」へと、吸い込まれていく。 


 彼の肉体が、おぞましい音を立てて、軋み、膨張していく。


 凝縮された、純粋な破壊のエネルギーだけを持つ、脈動する「悪魔の心臓」そのものだった。


 彼の身体そのものが、触媒となったのだ。


「まずい……! このエネルギーの集中は…! 奴は、帝都そのものを巻き込む気だ! 総員、退避!退避だ!」


 ヴァレンティンが、その軍人としての経験から、最悪の結末を予測し、避難する時間が残されていなことを悟りながらも、絶叫せざるを得なかった。


 もはや、誰も動けなかった。


 ただ、見ていることしかできない。


 世界が、再び、今度こそ、本当の絶望に飲み込まれていくのを。


 その、絶対的な死を前にした、極限の状況下。 


 ヘカテリオンの意識は、自らが集めたあまりにも巨大な負のエネルギーの奔流の中で、ある奇妙な「光」の存在に気づいた。


 それは、恐怖に震え泣きじゃくっている、あの役立たずな勇者から放たれている、微かな、しかし、あまりにも純粋な黄金の光だった。


(なんだ……? あの光は……? 聖なる力……? いや、違う……! この、私が集めた純粋な『破壊』のエネルギーと、同質の……!? そうか、ただ、向きが違うだけの……! 同じだけの、ポテンシャルを持つ、光……!)


 ヘカテリオンは、戦慄した。


 自らが、今、この瞬間、全てを喰らい、全てを滅ぼす「破壊神」へと至ろうとしているように。


 あの少年もまた、その気になれば、全てを救う「救世主」にも、そして、自分と全く同じだけの力を持つ「破壊神」にも、なりうるのだ。


(ああ、そうか。そういうことだったのか……! 勇者とは、魔王を倒すための、対の存在などではない……! 魔王と、同じだけの『器』を持つ、可能性のある、危険な存在……! あの少年は……我が主、ヴォルディガーン様にすら、届くかもしれない……!)


 それは、歓喜だった。


 自らの芸術が、矮小な人間の手によって汚されたのではなく、崇拝する魔王様と同格になりうる、神の領域の存在によって打ち破られたのだという、至上の歓喜。


 そして、恐怖だった。


 魔王様ですら、おそらく、気づいていない。


 この世界の、本当のバグ。


 制御不能の、危険因子。


 勇者という名の、次なる魔王の、誕生の可能性に。


(……許さない。この、世界の理を乱すバグの存在は、私が、この手で、今、ここで、消し去らねばならない。我が主の、完全なる静寂の世界の、唯一の瑕疵となる前に……!)


 ヘカテリオンの思考は、もはや、自らの敗北への怒りではない。


 自らが信じる神の世界を守るための、狂信的なまでの使命感に、切り替わっていた。


 彼の目的は、もう帝都の破壊ではない。

 

 この、危険すぎる「器」を、確実に破壊すること。


 そのための、最大限の爆発。


「はは……はははははっ! ああ、なんという宿命! なんという皮肉! この私が、世界の真の脅威を、我が主より先に見つけてしまうとは!」

 ヘカテリオンの意識は、もはやなく、ただ、脈動する悪魔の心臓が、最後の収縮を始めた。


 爆発まで、あと、数秒。


 その事実に気づいているのは、この場では、もはやヘカテリオンただ一人であった。


「アレクシオス王よ! 貴様は、とんでもないものを、この世に呼び覚ましてしまったのだ! 感謝するがいい! 私が、この世界と共に、その『失敗作』を、消し去ってやるのだからな!」


 その、最後の嘲笑と共に、彼の身体は、臨界点を超えた。


 絶対的な絶望が、帝都を、そして何も知らぬ勇者たちを飲み込もうとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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