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第百七話:死闘の始まり

 

 月明かりの下、巨大な魔狼の影が、地に倒れるファムの、その小さな身体を、完全に覆い尽くさんとしていた。


 その赤い瞳には、獲物をいたぶる、残酷な愉悦の色だけが浮かんでいる。


 とどめを刺さんと、巨大な爪が、ゆっくりと、しかし、抗いがたい力で、振り上げられる。


 その爪の先端が、月光を鈍く反射し、死神の鎌のように、見えた。


「―――させるかぁっ!!」


 ハヤテの、絶叫に似た咆哮が、響き渡った。


 彼は、深手を負った身体に鞭打ち、魔狼とファムとの間に、その身を滑り込ませていた。


 二振りの剣が、月光を浴びて、青白い光を放つ。


 その瞳には、もはや、個人的な復讐の炎はなかった。


 あるのは、残された、たった二人の仲間を、この腕で、守り抜くという純粋で、そして、鋼のような覚悟だけだった。


(シズマ……力を、貸せ。あいつらを、生きて、王の元へ帰すために!)


 不思議と彼の心を冷静にさせてくれた。


「グルルル……。まだ、立ち上がるか、しぶといネズミめ」

 フェンリラは、その、新たな獲物へと、その興味を移した。


 その、ほんの僅かな時間。


 それが、ファムにとって、最後の好機だった。


 彼女は、朦朧とする意識の中、口の中に広がる血の味と共に、最後の力を振り絞り叫んだ。


「……ナシル! ハヤテ! 聞け!」

 その声は、か細く、しかし、二人の仲間には確かに届いていた。


「シズマの刃だ……! あの刃は確かに奴の身体に届いた!! 一瞬でいい! 俺が、奴の懐に、潜り込む、その一瞬を、作れ!」


 その言葉の、意味を。 


 そして、その作戦が、どれほど、無謀であるかを。


 二人は、一瞬で、理解した。


 ナシルは、最後の魔力を、その指先に集中させる。


『真実の鏡』 の欠片が、彼の魔力に応え、眩いほどの光を、その内部に溜め込み始めた。


 彼の額には、玉のような汗が浮かび、その顔は極度の集中によって、蒼白になっている。


 そして、ハヤテは、魔狼へと向き直った。


 その口元には笑みが浮かんだ。


 それは、死を覚悟した、戦士だけが浮かべることのできる不敵な笑みだった。


「―――来いよ、化け物。ヤシマの剣士の、最後の舞、その目に、焼き付けていくがいい!」


 ハヤテが地を蹴った。


 それは、もはや、剣技の応酬ではなかった。


 ただ、時間稼ぎのためだけの、捨て身の舞だった。


 魔狼の、岩をも砕く爪が、轟音と共に、ハヤテがいた場所の石畳を抉る。


 彼は、それを紙一重でかわし、返す刀で、魔狼の巨体に、二振りの霊刃を叩きつける。


 甲高い金属音が響くが、その刃は、分厚い毛皮と、鋼の筋肉に、弾き返されるだけ。


 それでも、彼は止まらない。


 その身体を切り裂く牙を、刃で受け流し、衝撃で吹き飛ばされながらも、即座に体勢を立て直し、再び、突進する。


 一撃、一撃が、彼の鎧を砕き、その肉を裂いていく。


 だが、彼の心は、折れない。


 ただ、ひたすらに、目の前の巨大な敵の、その意識の全てを、自分一人に引きつけ続ける。


「ナシルッ! 今だッ!!」

 ハヤテが、自らの身体を、わざとがら空きにした。


 フェンリラは、その好機を見逃さなかった。


 勝利を確信し、その最も巨大な爪を、ハヤテの心臓めがけて振り下ろす。


「―――【閃光フラッシュ】ッ!!」


 ナシルの、全霊を込めた声と共に、世界が白に染まった。


『真実の鏡』から放たれた、凝縮された光の奔流が、魔狼の、その視覚を完全に焼き尽くした。


「ギイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアッッ!!」

 視覚を奪われ、魔狼が、苦痛と混乱に、咆哮する。


 ハヤテは、叫ばなかった。


 ただ歯を食いしばり、最後の力を込めて二振りの霊刃を地面に叩きつけ、凄まじい量の粉塵を巻き上げる。


 その、光と、闇と、混沌の中心を。


 ファムは、駆けた。


 時間が、引き伸ばされたかのように、遅くなる。


 折れた肋骨が、悲鳴を上げる。


 裂けた傷口から、命が、流れ出ていくのが分かる。


 だが、どうでもよかった。


 彼女の、血に霞む瞳が捉えるのは、ただ一つ。


 粉塵の向こうで、不気味に脈打つ敵の「核」。


 その手に握られた、シズマの形見の霊刃が冷たい。


 それが、まるで、シズマが、すぐそばにいるかのような錯覚を、彼女に与えた。


 彼女の脳裏に、シズマの、最後の言葉が蘇る。


『お前と、共に戦えて、良かった』


(……ああ、俺もだよ、馬鹿野郎)


 彼女の唇の端が、わずかに、吊り上がった。


 それは、獣のような、猛な、どこか満足げな笑みだった。


(……見てろよ、シズマ)


 最後の跳躍。


 復讐の刃が、月明かりを浴びて、静かに煌めいた。

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