第百六話:獣の本性
「なっ……!?」
ファムは、息を呑んだ。
フェンリラの、しなやかだった手足の骨が、内側から突き上げるように変形し、より太く、より逞しい、獣のものへと姿を変えていく。
絹のようだった銀髪は、鋼の針のように逆立ち、その美しい顔立ちは、長く鋭い吻部を持つ、獰猛な狼のそれへと、引き伸ばされていく。
その口からは、獲物の喉笛を、容易く食い千切れそうな、鋭い牙が、ずらりと覗いていた。
優雅な三日月刀は、もはや不要とばかりに、カラン、と音を立てて、石橋の上から谷底に捨てられる。
もはや、そこに、優雅な、女の姿はなかった。
その身の丈は、屈強な騎士の三倍近くにも達し、その全身からは、これまでの比ではない、おぞましい量の邪気が、黒いオーラとなって立ち上っていた。
「グルルルルルルルル……」
喉の奥から漏れる、地を這うような唸り声。
それは、もはや、普通のものではない。
その、燃えるような二つの赤い瞳が、眼下のちっぽけな「獲物」たちを捉えた。
「……まずい」
ナシルが、戦慄に声を震わせた。
「静寂の結界が……持たない!」
彼が張った、風を封じるための結界が、魔狼が放つ、純粋な魔力の圧力だけで、ガラスのように、ピシピシと、ひび割れていく。
そして、次の瞬間、結界は、甲高い音を立てて、粉々に砕け散った。
谷間に、再び、荒れ狂う風が、吹き荒れる。
「―――遊びは、終わりよ」
その声は、もはや声ではない。風そのものが、直接、三人の脳髄に、死の宣告を叩きつけているかのようだった。
魔狼が、地を蹴った。
そう見えた時には、それは、もはやどこにもいなかった。
「どこへ……!?」
「上だ!」
ナシルの絶叫と、ハヤテの動きはほぼ同時だった。
ハヤテは、咄嗟に、二振りの霊刃を、頭上で十字に交差させる。
直後、凄まじい衝撃と共に、魔狼の岩をも砕くほどの巨大な爪が、彼の刃を叩きつけた!
ガギイイイイイイインッ!!
火花ではない。
もはや、稲妻に近いほどの閃光が迸る。
ハヤテの身体が、その、あまりにも巨大な質量と、力の差に耐えきれず、まるで小石のように後方へと吹き飛ばされた。
「ぐ……あああああっ!」
彼は、物見櫓の崩れた壁に、その背中を叩きつけられ、口からおびただしい量の血を吐いた。
「ハヤテ!」
ファムが、叫ぶ。
だが、その彼女の視界の端で、魔狼は、すでに次なる行動へと移っていた。
それは、もはや、速さという概念ですらない。
瞬間移動、と呼ぶ方がふさわしかった。
魔狼は、ファムの背後に、音もなく回り込むと、その、巨大な顎を、大きく開いた。
「しまっ……!」
ファムは、死を覚悟した。
だが、その顎が、彼女の、その小柄な身体を、飲み込もうとした、まさにその瞬間。
数十本の、不可視の鋼線が、魔狼の、その巨体を、四方八方から縛り上げた!
ハヤテが、吹き飛ばされる、その直前に、最後の力を振り絞り放っていた、ヤシマの「縛りの陣」だった。
「グルルルアアアアアアアッ!」
魔狼は、苛立ちに、咆哮した。
鋼線は、その鋼のような筋肉に食い込み、動きをほんの一瞬だけ封じ込める。
だが、それだけで、十分だった。
「今だ、ファム!」
ナシルが叫ぶ。
ファムは、千載一遇の好機を見逃さなかった。
彼女は、シズマの形見である霊刃を、逆手に握りしめると、その全ての体重と、怒りを込めて、魔狼の、そのがら空きになった、脇腹へと突き立てた!
「おおおおおおおおっっ!!」
ザシュッ!
確かな、手応え。
霊刃は、分厚い毛皮と、鋼の筋肉を貫き、深く、深く、その肉体を抉った。
聖なる霊力が、魔の肉体を、内側から焼き、焦がしていく。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア-」
魔狼が、初めて、本物の苦痛に満ちた咆哮を上げた。
だが、次の瞬間、ファムは、信じられない光景を目にした。
深く突き刺さったはずの霊刃が、魔狼の、驚異的な再生能力によって、肉が盛り上がり、逆に、外へと押し出されていく。
傷口は、見る見るうちに、塞がっていく。
「……嘘、だろ……」
そして、激昂した魔狼は、その巨大な前足で、ファムの、その小柄な身体を、まるで虫けらでも払うかのように薙ぎ払った。
「がはっ……!」
ファムの身体が、くの字に折れ曲がり、石橋の欄干へと叩きつけられる。
口から鮮血が飛び散った。
意識が、遠のいていく。
「ファム!」
「ナシル、ファムを!」
ハヤテが、絶叫する。
だが、彼もまた深手を負い、立っているのがやっとだった。
ナシルは、力を振り絞り、ファムの元へと駆け寄る。
味方は、満身創痍。
敵は、傷一つなく、その怒りを、そして、その力を、さらに増していく。
絶対的な力の差。
ファムは、薄れゆく意識の中で、悟った。
(……ここまで、か)
自分たちの、知恵も、技も、そして、覚悟すらも。
この、本物の「怪物」の前では、何の意味もなさないのだ、と。
彼女は、今度こそ、本当の死を覚悟したい。
魔狼が、その赤い瞳を、ファムへと向けた。
そして、とどめを刺さんと、その巨大な身体を低く沈めた。
その、銀色の毛皮が、月明かりを浴びて、死の宣告のように、不気味に輝いていた。




