幕間:黒鉄の規律
俺、グルバシュは、オークだ。
俺の日常は、血と、酒と、そして、混沌の雄叫びと共にあった。
モルガドール様が、この谷を支配されていた頃、俺たちは、常に、互いに牙を剥き、強さを競い合っていた。
訓練とは名ばかりの、殺し合い寸前の殴り合い。手に入れた獲物は、力の強い者から、貪り食う。
弱いゴブリンは、俺たちの食い残しを、怯えた目で、漁る。
それが、俺たちの、誇りであり、理だった。
だが、今、その日常は、どこにもない。
夜明け前。
俺を、叩き起こしたのは、かつてのような、同族の、いびきや、寝言ではない。
谷全体に響き渡る、たった一度の、鋭い、金属質な角笛の音だった。
俺は、飛び起きる。寝床の仲間たちもまた、誰一人、文句を言う者なく、無言で、その身を起こす。
そこには、もはや、混沌の群れはいない。
ただ、静かに、そして、恐ろしいほどの速さで、武装を整える、「兵士」たちがいるだけだった。
練兵場は、地獄だった。
だが、それは、かつてのような、血沸き肉躍る、楽しい地獄ではない。
”不動”のグラズニール様の、腹心の部下であるという、巨大なミノタウロスの教官が、ただ、無言で俺たちを見下ろしている。
彼の前で、俺たちは、来る日も、来る日も、ただ、ひたすらに、同じ動きを繰り返させられた。
盾を、寸分の狂いもなく、構え続ける。
槍を、寸分の狂いもなく、突き出す。
歩調を、寸分の狂いもなく、合わせる。
昨日、俺の隣にいた、少しだけ動きの鈍かった反抗的なオークは、教官に、ただ、その鋼のような拳で、頭蓋を、一撃で砕かれた。
悲鳴も、怒号も、ない。
ただ、無言で、その亡骸が、引きずられていくだけ。
ここでは、個の強さなど、何の意味も持たない。
求められるのは、ただ、完全な、寸分の乱れもない、「規律」だけだった。
食事の時間ですら、変わってしまった。
かつてのように、獲物を奪い合う、楽しい時間は、もうない。
配給係の、小柄なインプたちが、全ての兵士に、全く同じ、味気ない、しかし、栄養だけは計算されているらしい、黒い練り物の塊を、一つずつ、配給していくだけ。
かつて、俺たちの氏族で、最も、ふんぞり返っていた、巨大なトロールの隊長ですら、今では、ゴブリンと同じ配給を、ただ、無言で、受け取っている。
誰も、文句は、言わない。
言えるはずが、ないのだ。
時折、あの、黒曜石の城の、一番高いバルコニーに、我らが『王』、ヴォルディガーン様が、そのお姿を、現されるからだ。
彼は、何も、おっしゃらない。
ただ、にこやかに、楽しそうに、俺たちの、この、地獄のような訓練を、眺めておられるだけ。
だが、その、視線を感じただけで、俺たちの身体は、鉛のように、重くなる。
呼吸が、浅くなる。
心臓が、凍りつく。
あの、美しく、そして、残酷な瞳に、「つまらない」と、思われた、その瞬間。
俺たちは、あの、ミノタウロスの教官に、塵のように、砕かれるのだ。
訓練が終わり、俺は、石の寝床に、倒れ込むように、横になった。
身体の、節々が、かつての戦いで負った、どんな傷よりも、鈍く、重く、痛んだ。
これは、戦士の痛みではない。ただの、歯車の、痛みだ。
俺は、岩の天井の、小さな亀裂から見える、三つの不気味な月を見上げた。
俺には、もう、分からない。
俺たちが、これから、どこへ向かうのか。
何を、させられるのか。
だが、一つだけ、確かなことがある。
次に、俺たちが、人間界へと向かう時。
人間どもが、対峙するのは、もはやモルガドール様が率いていた、野蛮で、混沌とした、獣の群れではない。
ただ一つの意志の下に、寸分の乱れもなく、死ぬことすらも許されずに、動き続ける、黒鉄の、巨大な「軍隊」なのだ。
そして、俺は、その、あまりにも、恐ろしい機械の、ただの、一つの、名もなき部品に、成り果てた。
その事実に、俺は、もはや、誇りも、喜びも、感じることが、できなかった。
ただ、底知れない、静かな、恐怖だけが、そこにあった。
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