第九十二話:英雄の帰還
聖都サンクトゥム・ルミナを後にした一行の帰路は、行きとは全く異なる重苦しい沈黙に包まれていた。
彼らは、確かに、聖都を蝕む巨大な悪を打ち破った。
だが、その心には、勝利の高揚感など、ひとかけらもなかった。
ただ、ヘカテリオンという、あまりにも格の違う絶対的な存在を前にした、深い絶望感と自らの無力さだけが、鉛のように重くのしかかっていた。
旅の途中、田中樹は、ほとんど言葉を発さなかった。
時折、彼を英雄と信じる村人たちから歓声が上がっても、力なく曖昧に手を振るだけ。
その瞳からは、以前のような、根拠のない自信と傲慢さは消え失せ、代わりに、自らが持つ、得体の知れない力への、戸惑いと恐怖の色が浮かんでいた。
数週間の、長い、長い旅路の果て。
一行の目の前に、ロムグール王国の王都カデアテメ、懐かしい城壁が見えてきた。
王城の門では、国王アレクシオスが、バルカス、フィン、そしてロザリアと共に、彼らの帰還を静かに出迎えた。
その顔に、祝祭の笑みはない。
ただ、全てを理解しているかのような、深く、そして、労りに満ちた王の眼差しがあった。
「―――ご苦労だった、皆。無事の帰還、何よりだ」
アレクシオスは、馬から降り立った、傷つき、疲弊しきった仲間たちの顔を、一人、一人、見渡した。
そして、最後に、うつむきがちに馬から降りてきた、樹の前に立った。
「……よく、帰ってきた、勇者殿」
その、静かな声に、樹の肩が、わずかに震えた。
その夜、王城の作戦司令室。
ライアスとリリアナから、聖都で起きたことの、その全てが、アレクシオスと、宰相イデン、フィン、ロザリア、その他国の重鎮たちに報告された。
枢機卿ヴァレリウスの裏切り、おぞましい儀式の計画、そして突如として現れた、四天王”千呪”のヘカテリオンという絶望的なまでの脅威。
報告が終わると、司令室は、重い沈黙に包まれた。
「……そうか。敵の、本当の姿が、ようやく見えてきたな。おそらく、そいつは『呪われ人』事件のときの奴だな。四天王”千呪”のヘカテリオン……か。」
アレクシオスは、静かに、しかし、その瞳の奥に燃えるような怒りの炎を宿して、そう言った。
彼は、その場の全員に向き直り、告げた。
「皆、疲れているところすまない。だが休んでいる暇はない。バルカス、ライアス、騎士団のさらなる飛躍と、聖都からの情報に基づく新たな防衛計画の策定を。リリアナ、フィン、ロザリア、連合会議の準備と、国内の立て直しをさらに加速させる。……ご苦労だった。今日のところは、下がって休んでくれ。」
彼の、その有無を言わせぬ王の言葉に、皆、静かに一礼し、部屋を退出していく。
「勇者殿。そなたは、残れ」
司令室に、アレクシオスと、樹、ただ二人だけが、残された。
「樹君」
アレクシオスは、王の仮面を外し、一人の同郷人として彼の名を呼んだ。
樹は、びくりと肩を震わせた。
「君自身の、言葉で聞かせてほしい。聖都で何があった? 君は何を感じ、何を思った?」
樹は、しばらく黙って床の一点を見つめていた。やがて彼は、おずおずと顔を上げた。
「……俺、分かんねえよ」
その声は、か細く震えていた。
「……俺のせいなんだ。リリアナが、傷ついたのも、みんなが、死にそうになったのも……。俺が、弱くて、何もできねえから……」
彼は、自らの両手を見つめた。
「あの、光……。あれは、俺の力なんだろ? でも、俺には、どうすることもできねえ。怖いんだ。また、あの力が暴走して、今度は、仲間を傷つけちまうんじゃないかって……」
それは、彼が、この世界に来て初めて、心の底から吐き出した、弱音だった。
(……レオの死、そして聖都での一件が、彼の心を、確かに変えた。だが、一体、何が、どのように……?)
アレクシオスは、目の前の少年の、その魂の根幹に起きた変化を、正確に知るべくスキルを発動させた。
【絶対分析】。
刹那、彼の脳内に、更新された情報が奔流となって流れ込んでくる。
【名前】田中 樹
【称号】聖勇者(ただし本人は半信半疑)
【職業】勇者(覚醒の兆し)
【ステータス】
** HP:52 → 75 (一般兵士レベル)**
** MP:12 → 40 (見習い魔術師レベル)**
** 筋力:11 → 14 (かろうじて訓練にはついていけるレベル)**
** 耐久力:9 → 15 (多少の無理は利くレベル)**
** 精神力:3 → 25 (劇的に向上。ただし極めて不安定)**
** 幸運:???**
【スキル】
** ・【神聖領域】(制御不能 → 意志への部分的感応を開始)**
** ・【誰かの為の力(覚醒済)】:他者を「守りたい」という強い意志に呼応し、【神聖領域】の力を、限定的に制御可能にする。所有者の精神的成長に伴い、さらなる能力が解放される可能性を秘める。
** ・【守護の光(小)】:【誰かの為の力】によって発現した、最も基本的な防御スキル。任意の対象に、一時的な聖なる守りの光を与えることができる(ただし、まだ制御は不完全で、発動は稀)。
** ・責任転嫁(消滅)**
** ・現実逃避(消滅)**
【総合評価】
** 自らの無力さと、力の意味に目覚め始めた、ひよこの勇者。その魂は、今、極めて不安定な、しかし、無限の可能性を秘めた変革期にある。今後の成長は、本人の意志と、周囲の導き、その全てにかかっている。**
(……消えている。あの、マイナススキルが。そして、何よりも、この精神力の伸びと、スキルの変化は……!)
アレクシオスは、驚愕の事実を胸にしまい、そんな彼の前に、静かに膝をついた。そして、その肩に力強く手を置いた。
「……樹君。君が怖がる気持ちは、分かる。だがな、それは、ただ危険なだけの力じゃない。仲間を、誰かを守りたいと強く願った、君自身の心の力が、形になったものだ。それは、何よりも尊い、正義の力だと、俺は思う」
その、真っ直ぐな王の言葉。
それは、樹の恐怖に固まった心を、優しく解きほぐしていくようだった。
「でも、俺は……弱い」
「ああ、弱いな。今の君は、あまりにも無力だ」
アレクシオスは、敢えて、その事実を、はっきりと告げた。
そして続けた。
「だが、それは、変わることができる。君が、本気で、そう望むのなら」
アレクシオスの言葉に、樹は、ハッと顔を上げた。彼は、アレクシオスのその真剣な瞳を見つめ、次に、部屋の外、練兵場があるであろう方角へと、視線を移した。
怖い。
あのジジイの訓練は、地獄だ。
だが、それ以上に、もう、嫌だった。
誰かの背中に隠れ、ただ守られているだけの、役立たずな自分が。
樹は、ゆっくりと立ち上がると、まっすぐに、扉へと向かった。
そして、部屋を出る直前、一度だけ、アレクシオスを振り返った。
「……ありがとよ。王様」
そう、小さな声で呟くと、彼は駆け出した。
向かった先は、夜の練兵場だった。
そこには、ただ一人、月明かりの下で、黙々と、剣の手入れをしている、老獅子の姿があった。バルカスだった。
樹は、その、あまりにも厳しい、鬼のような教官の前に立つと、意を決し、これまで、一度として見せたことのない、真剣な表情で、勢いよく、その頭を下げた。
「じじ―――いや、バルカスさん」
その、あまりに意外な呼び名と、その行動に、バルカスは、剣の手を止めわずかに目を見開いた。
「俺……俺、強くなりてえ。もう、誰にも守られてるだけの、役立たずは、嫌なんだ。自分の力で、あいつらを守れるようになりたい。だから……!」
樹は、顔を上げその瞳に初めて、本物の覚悟の光を宿して叫んだ。
「俺を、鍛えてください! お願いします!」
その、あまりにも真摯な、魂からの願い。
バルカスは、一瞬、言葉を失った。
彼は、目の前の、頭を下げる少年を見つめ、そして、彼が今しがた出てきた、王の執務室の方角を一瞥し、全てを悟った。
やがて、その、厳つい顔に、深い、深い、そして、どこか満足げな獰猛な笑みが浮かんだ。
「……ふん。その言葉、二度と、忘れるなよ、小僧」
その声は、厳しく、しかし、どこか温かかった。
「明日から、地獄を見ることになる。……覚悟は、できておるな?」
「……はい!」
樹の、力強い返事が、静かな夜の練兵場に、響き渡った。
それは、一人の少年が、自らの意志で、英雄へのあまりにも険しいその第一歩を、踏み出した瞬間だった。




