第八十五話:神を喰らう儀式
「まずは、貴女から、黙っていただきましょうか」
枢機卿ヴァレリウスが放った、純粋な闇の奔流。
それは、リリアナが、最後の魔力を振り絞って展開した、あまりにも脆い防御障壁を、赤子の手をひねるように、いとも容易く、飲み込もうとしていた。
死。
リリアナの脳裏に、その、冷たい一文字が浮かんだ。
だが、その闇の奔流が、彼女の障壁に到達する、寸前。
横合いから、音もなく、一つの影が割り込んだ。黒衣を纏った、帝国の諜報員、ヘルガだった。
彼女は、その身を盾にするでもなく、ただ、左腕に装着していた、奇妙な腕輪を、闇の奔流へと翳した。
腕輪に埋め込まれた、鈍い光を放つ魔石が、回転を始める。
すると、あれほど強大だった闇の魔術が、まるで渦に吸い込まれるかのように、その小さな魔石の中へと、みるみるうちに吸収されていったのだ。
「なっ……!?」
ヴァレリウスが、驚愕に目を見開く。
それは、彼の知らない、未知の魔道具。帝国の、恐るべき技術の産物だった。
ヘルガは、その表情を一切変えず、ただ、冷たい目でヴァレリウスを一瞥すると、再び、主であるヴァレンティンの元へと、影のように戻っていった。
「帝国……! この私に、弓を引くか!」
ヴァレリウスの顔が、怒りと焦燥によって、醜く歪んだ。
闇滅隊は、召喚陣を破壊しつつある。
ライアスたちは、堕ちた騎士たちを、圧倒し始めている。
そして、帝国の、予測不能な介入。
「……ええい、ままよ!」
彼は、狂ったように、甲高い笑い声を上げた。
「愚かな、愚かなる者どもめ! これで、全てを止めたつもりか! 違う! 貴様らは、ただ、新たなる神が降臨する、その時を、早めたに過ぎんのだ!」
ヴァレリウスは、その身を翻し黒曜石の祭壇へと向き直った。
「愚かなる者どもよ! 貴様らのその、教科書通りの、小さな正義で、この、腐りきった世界が救えるとでも思ったか! 私が、この手で、新たな秩序を、完全なる支配を、もたらすのだ!」
彼の声は、もはや、聖職者のものではない。自らが神となることを信じて疑わない、狂信者の、歪んだ絶叫だった。
彼は、その両手を、脈打つ黒曜石の祭壇へと、深々と突き刺した。
そして、これまでとは比較にならない、おぞましい量の魔力を、その身に注ぎ込み始める。
「そして、聖勇者イトゥキ! 貴様は、魔王復活のための贄などではない! その、穢れを知らぬ、純粋で、そして、あまりにも愚かな魂は……!」
ヴァレリウスは、血走った目で、祭壇の麓で、怯える樹を睨みつけた。
「この、聖都サンクトゥム・ルミナに満ちる、女神への信仰エネルギー、その全てを暴走させ、反転させ、そして、この我が身へと注ぎ込むための、究極の『雷管』なのだよ!」
彼の言葉と共に、祭壇が、断末魔のような、凄まじい唸り声を上げた。
樹に絡みついていた影の鎖が、今度は、彼の身体から、エネルギーを吸い上げるのではない。逆に、祭壇に渦巻く、反転した、負のエネルギーを、彼の魂へと、無理やり、注ぎ込み始めたのだ!
「ぐ……ぎ……あああああああああああああああああっっ!!」
樹の絶叫が、これまでとは比較にならないほどの、苦痛と、そして、理解不能な力への、恐怖に満ちたものへと変わる。
彼の身体から、黄金の聖なる光が、その意思とは無関係に、奔流となって、溢れ出した。
その、制御不能な聖なる力が、祭壇の、負のエネルギーと、激しく衝突する。
「魔王なんぞ、この力があれば……!私が神になれば……!!!」
光と闇が、互いを喰らい合うように、儀式場の中心で、渦を巻き始めた。
大聖堂全体が、激しく揺れる。壁のステンドグラスが、次々と砕け散り、天井からは、巨大な石材が、雨のように降り注ぎ始めた。
聖都の、その土台そのものが、今、悲鳴を上げていた。
「やめなさい……! やめて……!」
かろうじて身を起こしたリリアナが、涙ながらに叫ぶ。
「そんなことをすれば、貴方も、イトゥキ様も……! この聖都そのものが、消滅してしまいます!」
だが、その声は、狂気の渦の中にあるヴァレリウスには、届かない。
神を喰らい、自らが神となるための、冒涜的な儀式。
その、最後の引き金が、今、引かれようとしていた。




