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第1話 名前も知らない君へ

朝の通学電車は、私にとって一日の始まりを告げる時間。でも、ただ学校に行くだけじゃなくて、もうひとつ大事な目的がある。


今日も、あの人がいるかどうか。それが、朝の私の最大の関心事だ。


ドアが開くと、いつものように私は少しドキドキしながら車内を見渡す。吊革にぶら下がっているサラリーマン、スマホをいじる高校生たち。いつもと変わらない風景が広がっている。


――いた!


すぐに、目に飛び込んできた。あの人。今日も他の高校の制服を着て、静かに座っている。端正な顔立ち、すっと通った鼻筋、そして少し伏せがちなまつ毛の長い目が、ぼんやり窓の外を見つめている。眠たそうに見えるけど、その無防備な表情さえもどこか魅力的に映る。


肩に自然にかかる黒髪が、まるで風に流されるようにさらりと整っていて、時折顔にかかるのを軽く手で払う仕草も、無意識に惹きつけられる。

背は高くて、長い足を少し投げ出して座る姿が、どことなく余裕を感じさせる。制服のシャツがピシッとしていて、無造作に見えるけどどこか洗練された雰囲気を纏っている。今も変わらず、静かに窓の外を見つめているその姿が、映画のワンシーンみたいに完璧で、私は目が離せなくなる。


私の心臓は、彼を見た瞬間から少しずつ早くなっていく。まるで、自分の体が彼の存在に反応してしまうみたいに。気づかれたくないのに、気づかれたい。その狭間でドキドキする心臓の音が、耳の奥で響いているのを感じながら、つい、口元が緩んでしまう。抑えなきゃと思っても、どうしようもない。だって、ただ彼を見ているだけで、私の朝がほんの少し特別に感じるんだから。


目が合ったわけでも、笑いかけてもらったわけでもない。それでも、そこに彼がいて、彼を見つめられるだけで、何かが満たされていく気がする。私の世界は、それだけで十分に輝くのだ。話したこともない。名前だって知らない。彼がどんな人なのか、全くわからない。でも、そんなことは関係なくて、この瞬間が大事なんだ。彼を見つけて、彼を感じて、ただそれだけでいい。


そう、目の保養。自分ではそう思っている。電車で彼を見かけるだけで、私の一日が少しだけ明るくなる。それで十分だって、そう自分に言い聞かせてる。


でも、心のどこかで思っている。どうにかして話しかけられたらいいのに。名前を知りたいし、声も聞いてみたい。どんな声なんだろう? きっと優しい声に違いない。


「いやいや、無理だよ。突然話しかけたら、ただの変な人だと思われるに決まってる」


そう思い直して、私はまた遠くから彼を見つめるだけ。いつも通り、話しかける勇気なんてない。


今日もまた、ただ彼を見るだけで満足することにしよう。うん、それでいい。電車は発車して、少し揺れた。揺れに合わせて私の足下にペットボトルが転がってきた。誰か踏むと危ないからと私はそれを拾い上げた。そしえ彼の背中を見ながら、私は窓の外に視線を移す。


でも、もし明日こそ話しかけられたら――なんて、ちょっとだけ思ってしまう自分がいる。


++++++++++


「ねえ、最近、なんか変わったことあった?」


友達の真由は、私の隣で昼ご飯を食べながら、じっと私を見つめてきた。お弁当の卵焼きをつまみながら、私は何でもないふりをしてみせたけど、なんとなく胸の奥がチクリとする。だって、真由の勘は鋭い。


「別に、何もないよ」


そう答えたけど、自分でも無理があるのはわかってた。実は、毎朝電車で見かける彼のことが頭から離れなくなっていて、そんな話をしたらどうなるんだろうって思いながら、ずっと黙っていた。でも、どうやら真由にはバレバレだったみたい。


「うそだ~。なんかあるでしょ? 顔に出てるよ」


そう言われた瞬間、私は慌てて飲みかけの牛乳パックを引っ張ったら、ストローがポンッと飛び出して、顔に直撃した。思わず「痛っ」と小さく叫んで、周りを気にしてストローを慌てて元に戻す。真由は、そんな私を見て、明らかに笑いをこらえてる。


「なんか…ホントにあるんじゃないの? ほら、隠さないで教えてよ~」

真由の笑顔は、もう隠しきれない。


私は頬を赤くしながら、心の中で何度も「あーあ」とため息をつく。ごまかすつもりが、逆に余計に怪しい動きしちゃったな…でも、もう逃げられないかも。そう思いながら、深くため息をついて打ち明けることにした。


「……実は、毎朝同じ電車に乗ってる男の子がいて、なんか気になってるんだよね」


打ち明けた後も、気まずくて手元をいじりながら、真由の反応を待つ。牛乳パックを握りつぶしそうになるくらい緊張しているのを、なんとか落ち着けようとするけど、完全に顔が赤くなってるのがわかる。


その瞬間、真由の目がキラリと光った。


「それって恋じゃん! どうして今まで黙ってたの? もう、話しかけなきゃ!」


「いやいや、話しかけるなんて無理だよ。名前も知らないし、突然声かけるとか恥ずかしいし、何を話せばいいかもわかんない」


そう言いながらも、心のどこかで彼と話したいという気持ちが日に日に大きくなっているのは自覚していた。けど、やっぱり勇気が出ない。どうしたら自然に話しかけられるんだろう?


真由は大きなため息をついて、私の肩を軽く叩いた。


「凜、行動しなきゃ後悔するよ。いつまでも遠くから見てるだけじゃ、彼のこと何もわからないままだよ」


「でも……」


「もし今何もしないで、このままずっと何も変わらなかったら、どうする? それってめちゃくちゃもったいなくない?」


真由の言葉が胸に深く響いた。何も行動しないままでいたら、彼のことを何も知らないまま終わってしまうのかもしれない。そんな想像をしただけで、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。どうしよう。このままでいいのかな……?


++++++++++


その日の夜、私はベッドに横たわりながら、真由の言葉を反芻していた。


「何か行動しなきゃ、後悔するよ……」


確かに、その通りだ。毎朝彼を見つけては、心臓が少し早くなって、でも何もできずに終わる。話しかけたい。名前を知りたい。もっと彼のことを知りたい。でも、怖い。もしも、変な目で見られたら? もし話しかけて、何も話が続かなかったら? 失敗したらどうしよう、って考えが頭の中でぐるぐると回る。


ベッドの上で、私は何度もため息をつく。


「話しかけるだけなんて、簡単じゃない」


そんな風に考えていたけど、もし何もしなかったら、本当にこのまま終わってしまうのかもしれない。遠くから見ているだけで終わるのは嫌だ。それに、毎朝彼を見ているうちに、少しずつ彼に話しかけたいって気持ちが膨らんできているのも事実だ。


――私、どうしよう……。


次の日の朝、電車に乗り込んだ私は、彼を見つけた瞬間、いつもと違う感覚を覚えた。何かを変えなきゃ、という気持ちが心の中で高まっていく。彼は、いつものように窓の外をぼんやり眺めている。今日も、話しかけられないまま終わるんだろうか。


――話しかけたい。でも、できない……


私の中でその思いがせめぎ合い続ける。勇気が出ないまま、電車が駅に近づいていく。でも、このままでいいのかな? 今日こそ、少しだけでも話せたら、何かが変わるのかもしれない。


心臓がバクバクする。手が震えて、息がうまくできない。でも、何もしないままじゃ、ダメだってわかってる。


彼の姿をじっと見つめながら、私は心の中でそっと決意した。


ーー少しずつでも、彼に近づこう……


その決意が心に染み渡った瞬間、突然思い出した。


「あっ……やばい、宿題!」


一気に現実に引き戻された私は、思わず声に出してしまった。頭の中に、ずっと放置していた明日提出の数学の宿題が、まるで赤信号のように点滅し始める。そうだ、あれ、手もつけてないじゃん!


「いやいやいや、なんで今思い出すの!?」


決意したばかりの胸の高鳴りが、一瞬で冷める。さっきまで彼のことでいっぱいだった私の頭は、今では宿題パニックでいっぱいだ。心の中で「ごめん、明日の私!」と叫びながら、急いでカバンの中のノートを探す。


「くそっ、やるしかない……!」


ベッドに転がりながら、私はノートを開いて問題を睨むけど、まるで数字の羅列が呪文に見えてくる。どんなに焦っても、数学の問題は私のテンションとシンクロしないのだ。


「こんなときに限って、なんでこんな難しいの……」


決意したばかりのはずの自分が、今は宿題の海で溺れかけている。だけど、とにかくやるしかない。私は頭を抱えながら、必死に宿題に取り組むことにした。

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