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子供のいない老王妃、実は世界の調整者

作者: 重田いの

子供のいない老王妃、実は世界の調整者



カリェラは顔を上げた。舞踏会は順調に進み、今は最大の山場である王子のダンスの相手が決まらんとするところだった。


「王妃様はいつまでもお美しい。あやかりたいものですわ。どんなお化粧水を使ってらっしゃるの?」


と話しかけてきたのはブロウィー夫人で、年はまだ三十を超えたか超えないか。金髪に脱色した髪を複雑に結い上げ、小さな真珠を縫い込んだメッシュで覆い、その上に小麦粉を散らした豪奢な髪型にカリェラは一瞬、気を取られた。だから答えるのが若干、遅れ、


「そんな大したことはしておりませんの」


と微笑んだ頃には、夫人はすっかり勢いこんでころころ笑い声を上げる。豪奢なドレスは花嫁のウエディングドレスのように真っ白で、これは礼儀に反することだ。このような通常の夜会において結婚を意識させる白を纏うのは、逆に不吉とされているからだ。けれど髪飾りと同じくちりばめられた大量の真珠、そしてなにより夫人が王の寵愛を得て王子を産んだ寵妃であることが、彼女の礼儀知らずを何もかも認めざるを得なくさせるのだった。


「まあ! まあまあまあ! なんてこと! なぁんてことなんでしょうねぇ! ねえ皆様、お聞きあそばしまして? 王妃様は飾らないお方だこと。生来の魅力でお立ち合いあそばされるのだわ。なんてまあ、高貴なお血筋の方はお考えからして違うこと。わたくしのような卑賤の女には眩しいくらいですわ」


とまあ、謙遜も度がすぎれば嫌味、ましてやカリェラは王の正妃である。ブロウィー夫人の強烈なあてこすりは、カリェラを侮辱する意図を隠しもしないものだった。


カリェラが王と結婚したのは十六のときだったが、子に恵まれず、寵妃が宮廷を牛耳るのを許した。無力な王妃。ただそこにいるだけの王妃、かわいそうなお方。元はと言えば隣国の王家の正当なるお姫様だったのに――というのが、貴族社会におけるカリェラの評価だった。


周囲の評価とは真逆なことに、カリェラはそうした自分の立場を気にしたことはない。彼女にはもっと別の、果たすべき義務があった。子を産むことではなく。それを表立って口にできないのは確かに悔しいことだったが――


カリェラは扇をぱらりと広げ、口元を隠す。優雅に見えるよう計算して膨らませたスカートをちょっぴり、つま先で揺らした。深い海の青黒い色のドレスは、彼女の白いものが混じり始めた黒髪とサファイア色の目を引き立てた。


「おかげさまで、結構なことですわ。――まあ、王子がお選びになったのは伯爵令嬢ですわね」


とわざとらしく小首をかしげる。夫人は鬼の形相になった。というのも彼女が息子の相手にと押していたのはとある男爵令嬢であって、断じて伯爵令嬢ではなかったからである。


男爵令嬢は利発そうな碧の目をした小娘で、くすくす笑ってくるくる踊る。見るひとがみれば若い頃の夫人にそっくりだと言ったことだろう。夫人が気に入ったのはそういうところなのらしかった。


一方伯爵令嬢はというとよくいえば物静かで大人びた、悪く言えば辛気臭い地味な娘であり、実のところ密かにその身に流れる古代王家の血筋を除けば、見るべきところなどないような娘だった。


けれど王子は伯爵令嬢の手を取り、今夜ともに踊るのだった。この舞踏会は取るに足らないたくさんの夜会のひとつであるが、ある政治的な分岐点にあって、ここで王子が踊った相手が次期王妃になるのだと、なんとなく貴族社会全体に共有されていた。


夫人が行ってしまったので、その取りまきの貴婦人たちもそっちについていってしまう。お待ちになって、ブロウィー夫人! カン高い声はまったく中年女に似つかわしくなく、カリェラは再び扇の裏でにこやかにするより他はなかった。彼女たちがいつまでも自分が若く、自分こそが中心であると思っている間に、時代は移り変わりつつある。


ふと、誰も目もくれない夜会より一段上にしつらえられた王妃の座に、小さな影が落ちた。舞台袖のような使用人用の通路を見やったカリェラは、そこに夫の姿を見つけた。


「ま、」


と立ち上がり礼をしようとした妻を制して、国王は何か思い詰めたようなため息をついた。そこに女の、若い女のにおいが混じっているのを、敏感なカリェラの鼻は感じとる。いやだわ、この人また若い娘とどこかでしけこんで。それは王の病気のようなものだった。今更どうしようもなく、カリェラも見逃すというよりは呆れて許容している悪癖だった。


「王子は自分の好いた女を選んだか…」


息子の勝手を嘆く父親というよりは、己の手にできないものを手にしている同じ男を羨望する男、という声音であった。王は憎々し気にカリェラを睨んだ。


「なんと自由なことだ、鳥のように。のう王妃、我らには許されなかったことだ、愛する相手を伴侶に選ぶなど!」


と、まるで憎悪の目。彼の不幸のなにもかもがカリェラの策略だと言わんばかり。


カリェラは困惑してしまう。貴族、王族に生まれた以上、婚姻の自由などない。カリェラとて愛する相手を見つけることさえ自制して、定められた通りこの王の元へ嫁いできたのである。恋知らぬ十六の娘の操と心のすべてを捧げたというのに、それらは無惨にも投げ捨てられたが、それを恨むこともなかった。そういうものだから。人の世とは。


なんと言っていいかわからないとき、ただにっこり笑って扇をかざすのがカリェラの癖だ。今もそうした。すると王は、分厚いカーテンで夜会の目から遮られているのを好機と見てとったらしかった。すっかり年老いてしわくちゃの顔を歪めに歪め、けれどきっちり採寸されてたるんだ腹を隠す正装のまま、ぐわりと口を開けてカリェラに捲し立てた。むわり、ひどいにおいがした。年老いた男の口のにおい。


「私にはなかった、なにもなかった。私は愛する相手を見つけることさえ許されず、牛馬の交配のようにお前に娶されたのだ。あとになってから若い女を囲ったところでなんになろう。若いあの頃、青春のあのときに、私は私の手で愛する女を見つけたかったのに! 何もかもお前のせいだ。お前が意気揚々と嫁いできたせいで、私の自由も青春もお前に奪われたのだっ!」


それはね、とカリェラが口を開こうとしたときだった。


ドン。とそれは大きな、地響きだった。


城全体が揺れた。きゃあ、と悲鳴をあげた伯爵令嬢を王子は抱きとめた。今まさに伯爵令嬢に掴み掛かろうとしていたブロウィー夫人、その子飼いの男爵令嬢も動きを止めた。


シャンデリアは大きく揺れ動き、大小のそれは互いに連動してやまない。ぱらぱらクリスタルが落ちる。そのひとつひとつに宿り、灯りの役目を果たしていた発光小妖精がキイキイわめきながら飛び回るものだから、目まぐるしく点滅する光に気分を悪くするものさえ出たよう。


「…まあっ」


と、まっさきに平静を取り戻したのはカリェラである。


彼女は慌てて王妃の座から飛び降りると、まっしぐらに外を目指して駆け出した。王妃がそんなに俊敏に、若々しく動くところを見たものはいなかったから、貴族たちは目を丸くする。


「どこへゆくーっ、王妃ぃ! これはおまえの差金か⁉︎」


と王が取り乱して叫ぶので、腹心たちが慌てて駆け寄り、気付け薬を嗅がせるだの襟元を緩めるだの忙しくなった。結局のところ、この国において一番重要なのは王に気に入られること、およびその結果任命された官位によって私服を肥やすことにある。貴族たちはいっせいに王を取り囲み、口々に心配を述べて彼の気をひこうとする。


そうしたすべてのあれこれも、カリェラの関心の外である。


(アルム、ルキア、ソヴァン、アルシュレド!)


と彼女はバルコニーに躍り出ながら、襟元を苦しく締め上げていた黄金のブローチを引きちぎり、投げ捨てながら、髪の毛を纏めていた鼈甲のバレッタを鬱陶しく引き抜き、簪やら耳飾りやら、数々の宝石つきの宝をあちこちに散らばせながら、


「城をお守り‼︎ 私が出るから‼︎」


そう――叫んだ。


使用人たちはおのおの主人の元に馳せ参じるところで、その途中にあったものから順番に、王妃の異変に気づいた。


彼女は年老いた、何も物言わぬ、おとなしいだけが取り柄の子なしの老女だった。王の妻ではあったが、実質的な権力は何ひとつ持たなかった、いや、持たせてもらえなかった。そうするに足りるだけの信頼も、愛のひとつも王から勝ち得ることはなく、よってそれらすべてを寵妃に奪われて、それでも笑っているだけの女。使用人すら、時折彼女のことをこっそり馬鹿にして、その予算や食事の一部を掠め取ったものだった、権力のないものなどいくら血筋がよくったって、生きている意味などないのだから。


その、王妃がである。バルコニーに立ち上がった王妃の背丈が、ぐんと伸びたかに思われた。漆黒の髪は流れるままに波打ち、それはこの国において長い喪に服するものがする髪型だった。煌めく海の深いところの色をしたドレスが、丈はそのままにぐんと色のあわいを増して、不思議と小さな煌めきを集めていく。発光小妖精よりなお小さなそれは、目に見えないほど微細な、魔力を集める石のかけらだ。使用人につられてバルコニーを覗いた貴族の一人が叫んだ。


「お、おい王妃様が……!」


言葉は最後、声にはならず。


城を覆う黒い夜の天蓋の向こうから、巨大なドラゴンが出現した。


ぎゃあああああ、金切り声は誰のものだったのだろう。あらゆる人間、王も貴族も悲鳴をあげ、腰を抜かし、へたり込み、城下町に住まうあらゆる平民たちもまた、それを目にした。


黒い天蓋に、白銀のドラゴンはみごとに映えた。その長い牙。真っ赤な瞳はらんらんと城と町を見据えている。それは遠い遠い、まだ魔王がいた時代にたびたび王国を襲った魔獣。勇者に魔王が討伐される寸前、他国へ飛んで逃げたという……やつだ。帰ってきたのだ、再びこの国を襲いに!


すでに夜会などどこかへ飛んで、室内は右往左往逃げ惑う人間でいっぱいである。バルコニーにもどこそこの令息だの侯爵だの姫だのが雪崩を打って飛び込んできては、王妃のただならぬ姿を見て泣き喚くなり室内に戻るなり、思い思いにしている。


ドラゴンの爪がぐわしと城壁を掴んだ。巨石と泥で頑丈に積み上げたはずの壁は、砂糖細工かのようにぼろぼろと崩れる。


優秀な指揮官がいるのだろう、兵士たちが鬨の声をあげ、松明を手にして監視塔から火矢を射掛けるのが城からも見えた。


「ダメよ。それでは効かないわ――それはバグなの! こっちのプログラムからは干渉できないのよ!」


と、王妃は続けて叫ぶ。両手を夜空に掲げ、祈るように――


「おいで、ナタク‼︎」


そう、相棒を呼んだ。


それに応えて彼は顕現した。普段は城の地下であって地下でないところ、お堀の水面に映るかげろうの中に身を潜めて眠っていたのである。けれど相棒が、他ならぬただひとりのパイロット、百二十六年前に別れたっきりの愛しい哀れで惨めな小娘が彼を呼ぶというのなら、応えてやらねば大戦戦略兵器イ-男型三号機ではない!


ナタクは素直に、ぱらりと、朝食の卵の殻を破るようになんてことなく、城の影から顕現した。ありえないところからありえない質量が、すうっと出てきて城の上に停滞した。その姿。


角のある頭は人ではない形だが、それは兜を被っているからだ。装甲じみたそれに覆われていない中央の部分は、不思議と人の顔に似ている。すんなりした身体は腹の部分でくっと深くくびれていた。腰からしゅるんと伸びる蛇のしっぽ。なめらかな鱗。


両足にあたる部分があるとすれば、足首のところに小さな車輪がついていてそれはしゅるしゅると回っている。あまりに早く回るので、彼の足元にたまたま位置していた尖塔が、風圧で徐々に崩れていく。


幾万もの鱗粉が彼の身体を覆っていた。青じろく光る光の理屈はわからなくても、どうやって浮いているのかさだかではなくても、万民は納得した。なぜなら彼の姿は神話に残っていたからだ。


人々はさんざめく。恐怖、憧憬、あるいは恍惚の域からその機体を仰ぎ見る。な、なたく……! なたく、なたくだあっ! と叫ぶ姿に、もはや貴賤や性別や年齢の別はなかった。


ドラゴンは静止していた。その機体もまた、しんと城の上に浮かんでいる。


王妃は真上をふり仰ぎ、愛しいロボットと目線を合わせた。もはや彼女を老女というものは誰もいないだろう。白髪など一本も混じらない漆黒の髪はたっぷりと風に煽られ翻り、深い青ぐろいドレスはその一本一本の繊維が自在に光信号を発する。それは交信していた。大事な大事な彼女のロボット。たったひとつの兵器。ナタクの人間でいう脳髄の位置にある、合成金属繊維を織り交ぜた電脳と。


にやっ、と王妃は笑み崩れ、ナタクはばっと手を差し伸べた。


王妃が跳躍した。人間にはできない距離を高さを、人間にはできない力強さで駆け上がる。そのとき彼女が踏み壊したバリスタ塔の屋根の穴は、こんにちでも残っている。そこに詰めていた兵士は確かに聞いたと主張する、したたたっ、と人間あらざる速さで駆け登っていく王妃の足音を。


「――ナタク! 私のかわいいぼうや!」


『ようよう、お袋さんよう‼︎ 恋人よ! 我が妻、我が姉、我が妹よ。敵に先手を許すなんてあんたらしくねぇぞぉっ!』


と、気風の良い若い男のような声を、確かに聞いた人々は多数いた。


王妃がナタクの手のひらに収まると、ナタクの腰のくびれた部分が昆虫の足のようにぎゅおっと開いて、あっという間に王妃はそこに取り込まれた。どこかって? パイロットの居場所といったら一つしかない、コックピットだよ。


さて、王妃が懐かしくもかぐわしき、人体の子宮を模したコックピットに収まるなり、ドラゴンは移動を始めた。なんてことだ、やつは飛べるというのにこちらを舐めくさって、わざわざ数多の家や川や道や城壁をぶち壊しながら、這うようにナタクと王妃を目指したのだった。


王妃はぱっと両手を開き、死体に這い寄るミミズのように己の脳味噌目指して突進してくる幾万の電子繊維を、受け入れた。両手、足の裏、それから耳の穴。生存に支障のない部分、それから人格を保つのにそこまで重要でないとされた部分から、ナタクは王妃に侵入し、ふたりは一体となった。ナタクは王妃の人生の情報を受け取って、できることなら顔を歪めてチッと舌打ちしたかった。俺の女を足蹴にしやがって。王妃はナタクが眠っていた間の夢を見て、そのあまりの懐かしさに泣きたいところだった。ああ、私のいた戦場、確かにそこにあった宇宙戦争。


(おかえりなさい、マスター!)


と、通信がクリアに聞こえてきた。ナタクを介して王妃はようやっと、信頼する部下たちの声を聞き取れたのだった。


(長いお留守でしたね。きっちり土地はお守りしましたよ)


(人造人間たちが騒がしい。集団ヒステリーだ)


(マスター、ああ、おねえさま! お会いしたかったですう)


王妃は笑った。大声で。


「アルム、ルキア、ソヴァン、アルシュレド!――うふふふっ、久しぶりねえ! あはははははははははっ‼︎」


コックピットにそれは反響して、まったく夜会の小娘どもとひとつも変わらない姦しさ。


ナタクと王妃はリンクしていたから、ナタクもまた、大声に相当する起動音を響かせて、笑い声に等しいエンジンの唸りを上げる。


地を這ってやってきたドラゴンが、びゅんっとジャンプして月を背後に躍り上がった。それで怯むようではカリェラは今、ここにいない。


ここは太陽系第三惑星地球型電脳世界。ソラを征く艦に眠る人が見る夢の世界にして、ファンタジア型中世ヨーロッパ相当世界。彼女こそが調整担当、バグ取り第一特殊作戦部所属、カリェラ・アルムルキア・ソヴァ・アルシュレド!


ナタクは突きこまれたドラゴンのしっぽをひょいと首だけの動きで交わした。そのまま、手にはもうブレードがある。顕現ではない。元々機体に備えつけられていたのだ。両腕の内側に細い溝、その中に仕込まれた超合金の片刃のブレード。


「アルム、ルキア、ソヴァン、アルシュレド! おまえたち、コードを守りなさい!」


(はあい、もうやってるよう!)


(ええ、ええ、いかようにも)


(今の所異常なしですっ)


(ああ、ご加勢したい、おねえさまぁ……)


カリェラは返ってきた答えに満足した。それで、目の前の戦いに集中することにした。ナタクは直感と神経反射で操る機体だ。つまりは感情と理性以外のすべてを動員するべきなのだ。


ドラゴンは上空の優位を取るつもりになったようだ。じゃあ最初からやれ、と思うカリェラの目の前で、さらに羽ばたこうと翼を力強く打った、その一瞬の隙をついてブレードがドラゴンの足を叩き切った。愚かにも地を這っていたせいで、土や泥や人体やもろもろの汚れがその爪や鱗の隙間に入り込み、ほんのわずかだけ、魔獣の身体は重くなっていたのだ。


悲鳴はあらゆる家の窓ガラスを振動させ、薄いものは粉砕された。のたうち回る巨体に町が潰されるのを避けねばならない。カリェラとナタクは力を合わせて機体を動かした。ドラゴンの腹に肩から突進し、そのまま城壁の外まで押し出したのだった。


城壁の外とは、世界の外ということである。ゼロが広がる虚無の世界だが、ひとまずささやかなテクスチャが敷かれている。黒の沼地だの闇の泥だのと呼ばれるそれに、かつてカリェラは手を叩いたものだった。へえ、人造人間にも面白いことを考える人がいるじゃない。


もんどりうったドラゴンは、それでもさすがの魔獣。咄嗟に小さな前足だけで虚無に身体を引っ掛けると、火を吹こうと口を開けた。その瞬間、カリェラはすべての身体感覚を手放す。ナタクに神経のすべてを捧げ、機体は最高速度を誇る。


ナタクが両手を合わせ、二本のブレードは違いに合成金属繊維を絡みつかせて一本の剣になる。剣にいかずちが溜まる、最初から帯電していたすべての電力が、百二十六年の間、怒りとともに集めてきたすべての電力が、城のあらゆる発光小妖精、町のあらゆる発電大精霊、その街頭や死骸から徴収され続けたなにもかもが、一気に刀身に宿る。


ドラゴンの口の奥で火花が見えた、と思ったときにはもはや決着はついている。


莫大にして圧倒的ないかずちは、そのままドラゴンへ光の速さで飛び、頭蓋骨ごとその頭を砕き潰した。


人々のどよめきは、カリェラにもナタクにも、アルム、ルキア、ソヴァン、アルシュレドにも届くことはない。歓声も、手を叩き足を踏み鳴らす音も。


そうして戦いは終わった。


ドラゴンの身体はぐらりと揺れ、どうっと虚無の中に倒れ込んだ。暗い暗い、あらゆる光を反射しない黒が、その肉体の原子の一粒に至るまでを飲み込んだ。




+++++




「記憶の消去が不可能って……そんなこと、いったいどうしてあるのかしら?」


カリェラは自室で疲労困憊、長椅子に寝転がっている。もう起き上がることもできなさそう。ようやく一人になれたのだった。


ナタクを城のかげろうに再び見送って、城に戻ったカリェラはいつも通りの日常に戻る予定だった。つまり、なんの価値もない王妃として立場に沿った仕事だけをして、あらゆる人々に軽んじられながらも自由に生きる、である。自由。そうとも、使える予算がまあまああって、子供はおらず姑も死に夫は他の女に夢中ともなれば愛する気苦労もいらず、実のところ彼女は彼女なりにのほほんと生きていたのである。


確かに他人から馬鹿にされるのは鬱陶しいものであったが、そこはそれ、


「本当の意味で人間ではないというのに、どうして感情なんてつけたのよ。なんて不便なのかしら」


と、彼女にとって城にいようが城下町にいようが、彼らは人間ではない。一度ならずも肌を合わせた経験のある夫の国王でさえ。カリェラにとって人間は、ナタクとアルム、ルキア、ソヴァン、アルシュレド。ほんとうの世界から連れてきた、愛しい仲間たちだけ。


最初はこうではなかったのだ。彼らを人造人間なんて蔑むこともなかった、と思う。ただあんまりにも長い年月が経って――百二十六年が経って、もう、彼らを愛することができそうにないのだった。


とそこで、コンコンと扉がノックされた。カリェラは身を起こした。召使いも誰もかれも下げてしまったものだから、自分で扉を開けに行く。


「まあ、いらっしゃい伯爵令嬢。お入りなさいな」


カリェラはぱあっと微笑んで、さっと手にした扇を室内に向けて振った。まさか王妃じきじきに扉を開け、しかも横にどいて通そうとしてくれるなんて、令嬢は思いもしなかったに違いない。緊張でがちがちになった伯爵令嬢は更にすくみあがり、まるで今にも殺されそうな小娘の顔をしている。


ここで伯爵令嬢のことを説明しよう。名前はアロマ・ジュエル・キャラメリゼ。


琥珀色の髪にピンクの目。どこかおどおどとした目つきは、それでもカリェラを見ればきゅっと定まった。手足が細長く、それなりに背も高い。すんなりした身体を今日は簡素なベージュのドレスに包んでいる。目上の女性に面会するにふさわしい、質素で清楚な装いだ。


「どうぞ、おかけなさいな」


とカリェラは彼女をさっきまで寝ていた長椅子の方に誘導した。豪奢な皮張りの長椅子ふたつ、膝の高さの卓がひとつ。絨毯はふかふかして足首まで沈みそう。大きな天井までの窓は開け放たれ、レースのカーテンごしに中庭の平穏な日の光が入る。


伯爵令嬢はハッと必死に息を整え、膝を折る正式な礼をした。


「……恐れ入りまする、王妃様。キャラメリゼ伯爵家息女、アロマ・ジュエルでございます。お召しに従い参上いたしました。お招きに感謝いたします」


「上出来よ。さあさあ、ほんとうに礼儀や遠慮はいらないわ。おかけなさい、さあ。目の前に」


「はい。失礼いたします」


それで彼女は楚々として腰かけた。あのドラゴン襲撃の夜、王子は彼女を己の腕で庇って会場を脱出したそうだ。素晴らしいことだった、真に愛する女の子相手ならば、男の子はなんだってできるのだ。


カリェラは紅茶を令嬢に勧め、二人は背筋をのばして上質の茶の香りと味を楽しんだ。


カリェラの姿はすでに、老女のそれに戻っている。髪の毛は半分、白い。ドレスは海色だが今日のところは色合いが薄い。手にも顔にも皺があり、目は相応にしょぼしょぼしている。それでも令嬢をはじめとするすべての人々が、彼女があの夜なにをしたのか知っている。どう接するべきなのかもわからないでいる、王国の歴史において、こんなことは記されていないからだ。


王妃はコトリとカップを紫檀の卓に置いた。


「あれから大変だったのよ。国王陛下は私をひっ捕らえて尋問すべきとご主張なさるし、すると大司教殿がこれは世界創世神話にあられる機械竜を操る女神様の化身、けっしておろそかになさいますな、なんて憤りなさるし」


「はっ、はい。――王妃様がお忙しくなさっておりますのは、わたくしどもにも耳に入っておりました……」


「だから、そう硬くならないで。ふふ。――さあ王子、もういいわよ。出ていらっしゃい、いるんでしょう?」


「えっ?」


と少女が腰を浮かせたそのときに、どっすんばたんと情けない音を立てて使用人用の控え小部屋のドアが開いた。ばつが悪そうな顔をして、王子は意味なく服をパンパン払いながらやってくる。


彼の顔はとても国王に似ていたが、表情や歩き方、身体つきは違っていた。止まっていたら父親似だけれども、動き出すとなにもかもが違う。実の母親のブロウィー夫人にも。父の奇矯さも疑り深さも偏屈さも、母の派手好きも他人を見下すところも傲慢さも、悪いところだけを受け継がなかった、あるいは若すぎてまだそうした欠点が発揮されていない、そんなみずみずしい年ごろだ。


「まあ、殿下――」


「アロマ……あ、いや。キャラメリゼ伯爵令嬢」


若い恋人たちは手に手を取り合い、たくても王妃に気兼ねして、ただ間近に立ち上がってきらきらお互いを見つめた。


カリェラは目を細めながら、


「それじゃ、気になっていることをご説明差し上げるわね」


あくまで陽気に、扇を振りつつ浮かれて笑った。年若いふたりがほほえましかったのである。


恋人たちはぱっと距離を取り、顔を見合わせる。王子は令嬢の隣に、手を握りあわんばかりの近さで座る。カリェラは若いふたりを交互に見やって、扇の裏でにっこりした。


「この世界はほんとうの世界ではありません。創世神話が成立したのは百二十六年と七か月前になります。つまりこの世界ができてから、まだたったの百二十六年ちょっとしか経っていないの。あなたたちの身体は艦の中でコールドスリープ状態にあります。人類は太陽系を捨て、新たな定住可能な星を目指して星間飛行中なのです。艦隊は地球脱出時で五十八機、旅をする仲間は二億八千万人いましたが、今ではその数を減らして三十二機、一億六千万人が残っています」


王妃はぽかんとするふたりに再び紅茶を勧める。


「いいのよ、わからなくて。でも最後まで聞いてちょうだい。――そう、紅茶、この紅茶もデータベースから再構築されたものよ。あなたたちの味蕾は今ごろ味を感じているのでしょう。電脳刺激が伝達されるから……その刺激によって、人は狂わないでいられるのよ。仮想現実で生きることによってようやく、コールドスリープに耐えられる。

そう、人類は狂うの。コールドスリープもあまりに長いと、どうやら肉体は健全でも魂というものが狂ってしまうらしいの。人間に魂と呼ばれる器官があるというのが、科学的に発見、立証されたのは、人類が地球を捨てて旅立つ直前のことでした。だから艦のヌシ――マザーコンピューターは決めたのです。人間たちの意識を電脳世界に遊ばせてやることを。魂が疲弊した人間が静かに死んでいく前に。生命維持装置をもってしても生き長らえさせることが不可能になる前に」


王妃は小さな焼き菓子を口にぽいっと放り込む。こくん、と飲み下したあと、


「ねえ、わたくしの生家は隣国の王家だわね?」


「は、はい。存じております」


「はい、僕も。いつも母から聞かされました」


とふたりは答える、この人はなにを言っているんだろうと顔に書いてある。もしかして、今日ここに来たのは間違いだったのではないだろうか。貴族社会も下々の人々も、あの影の薄い王妃が世界を守ったのだと大騒ぎだけれど。だからこそ、このお召しに参上したのだけれど。ひょっとして彼女は今まで言われていた通り、なんの価値もない年老いた女に過ぎなくて、自分たちが足を運んだ意味もまたないのでは――


「それではその国の名前を私に言ってみてちょうだい?」


と王妃は言った。いつも通りの笑顔、いつも通りのすとんとしたたたずまいで。


「えっ」


「あっ」


それでふたり行き詰った。思い出すことはなかったが、確かな違和感。


――隣国の名前を彼らは知らなかった。


そんなことがあるはずはない。支配階級に属するものがそんな簡単なことさえわからないなんて。カリェラはあくまでにこやかに、畳みかける。


「わたくしの父王の名は? わたくしの嫁ぐ前の家名は? そもそもわたくしは、どうやってこの国に嫁いできたというのかしら? ああ、もちろんあなたたちは生まれる前でしたから、知らないのは当然です。でも聞いていたことはあったでしょう。わたくしは壮麗なる六頭の白馬に率いられた花で満載の馬車に乗って、この国に現れたわ。城門を潜る前は祖国の兵士たちに護衛され、国内に入ってのちは我が国の兵士が護衛を引き継いだ。そのときの事務書類はあるのかしら? 探せば出てくるでしょう。でもそこに書かれた人物は実在しません。そしてそのことを疑問に思うことさえ、マザーはあなたたちに禁じたのです。これがこの世界の限界。城壁に囲まれたこの範囲だけが世界で、それ以外は存在しません。虚無の世界のことを、あなたたちは黒の沼地だの闇の泥だのと呼ぶそうね? 言えて妙だわ。そこはまさしく、世界の果てですもの」


沈黙はいつまでも続いた。絶句する二人の前にカリェラは手を突き出す。シャンデリアのクリスタルからふわり、一体の発光小妖精が舞い降りてきた。超小型カメラの概念を夢に投影したもので、これがある種の監視役となって、この世界とプログラム管理システムを結ぶのだ。


「そのお話がほんとうなら……」


と、ようやく口をきいたのは王子の方。もはや恥も外聞もなく、妻であった伯爵令嬢に寄り添う。彼女は彼の手を握り返す。


「どうして、僕らにそんな話をしたんです? ええ、ええ。理解はまだ及びません。僕はあなたの言葉を信じ切ることはできない。この国の王子だから。僕は国を守る義務があって、確かにあなたの言う通り、この世界には数々の矛盾が存在するのでしょう。ですから王妃陛下、あなたが呆れていらっしゃることが僕にはわかります。あなたはいつも、僕たちを見下し、憎んでいらっしゃったから。けれど今のお話を聞いて得心がいきました。あなたは――あなたは、この世界より一段上にいらっしゃった」


その横でこくこく、伯爵令嬢は首を縦に振った。ためらいがちにちいさな唇を開き、


「それでもわたくしは、王妃様を尊敬しております。あの大いなる機械の神を駆り立てて戦いあそばされたからじゃありませんわ。この王国で、宮廷で、どれほど不憫に扱われなさっても決して首を垂れることなく、凛としていらっしゃったからです。百もご承知かもしれませんけれど……」


伯爵令嬢の声が震えた。


「王子様のおっしゃる通り、わたくしにも王妃様のお話は何が何やらわかりませんわ。でも、あえて今、わたくしたちにこのことをお話になりました理由を聞きとうございます」


カリェラは苦笑せざるを得なかった。こんな若い世代にさえ、彼女の自己憐憫とその裏返しの攻撃性は見抜かれていたわけである。そりゃ、夫に敵視されるのも当然であれば、貴族社会で爪弾きになるのも偶然ではなかった。彼女の居心地の悪さは彼女自身が作り上げたものだった。


(だってあんまりにも長かったんですもの、百二十六年と七か月は――)


と胸中に言い訳してみたところで、自分がやったことは変えられない。ともあれ、反省はあとだ。彼女は気持ちを切り替えた。


カリェラはたたずまいを直し、彼らをそっと見つめた。彼女は気づかないが、それは母親じみた顔だった。


「あえて今、あなたたちにこのことをお知らせしたのは、どうしても頼みたいことがあったからなの。どうか聞き届けてください。私はもうすぐ死にます。この世界の平均寿命までしばらくあるけれど、ナタクを駆ることは寿命を縮めますから」


「そんな、」


と、優しくたおやかな伯爵令嬢は目をうるませた。


カリェラが使用するこの仮想肉体は、ナタクとの神経接続に耐えられる精度のものではない。今もコールドスリープのさなかにある本物の肉体の方もまた、人類が地球を見捨てる原因になった宇宙戦争で疲弊している。


「大戦戦略兵器というのです……機械の神は、人の手には余るのです」


束の間、カリェラは宇宙戦争を思い出した。ぶるり、わななきに近い震えが背筋を走る。ナタクをはじめ、たくさんのロボットたちがあの戦争のために造り出され、そして壊れた。たくさんの人間が死んだ。家族、恋人、友人、同僚をなくした。カリェラは静かに目を閉じた。


「けれど私は再びこの世界に帰ってきます。この狭い世界のどこかに、私であることを自覚せぬ私として生れ落ちる。そしてある程度の年齢になれば、再び私としての使命を思い出すでしょう。この世界を守るために。そのことをどうか覚えておいてください。そして有事の際に私を利用することができるよう、私の所在を把握しておいてください」


「……なぜ、」


とさすが王子は冷静である。すでに伯爵令嬢は王妃に心酔し、その覚悟に打ち震えているというのに。お似合いのふたりだ、とカリェラはますます微笑ましい。ああ、これだから私はこの世界を完全に見捨てることなんてできないのだ――人造人間だって、馬鹿にしてきたくせになによ、って話だけれども。この仮想現実はほとんど現実並みに造りこまれている。世界が現実ならば、仮想肉体に魂が受肉した時点で人造人間はほとんど人間なのだ。


「なぜ、そこまで手の内をばらすんですか? 僕はどこまであなたを信用していいのでしょうか?」


目をむく伯爵令嬢に、カリェラはいっそ愉快になってころころ笑い声を立てた。


「創世神話をご存じないの? 機械の神はこの世を守るためにいますのよ。ならばその駆り手たる私、カリェラ・アルムルキア・ソヴァ・アルシュレドもまた、世界を守るため何度でも転生してきます」


「王子様、この方は女神様なんですわ! 機械の神のただ一人のつがいの……そんな、人の分を超えた言い方ですわ。あんまりです。王妃様がみんなを守ってくださったのは自明の理ですのに」


泡を喰った勢いで伯爵令嬢が王子に縋る。彼女はとても信心深く、穏やかで一途な信仰を持つ人なのだった。


「実のところ――マザーコンピューターは焦っています」


とカリェラが種明かししてしまったのは、あるいはもう一度、世界を信じてみようと思い立ったからかもしれなかった。この人々を。若い王子が王となり、作り上げられるもう一つの現実を。


「永住の星はいまだ見つかりそうにありません。酸素発生装置や原子力発電が、少しずつ綻びつつあります。当初の計画ではこちらの現実は早々に破綻するはずだった、細かいところが杜撰すぎますものね。ここはコールドスリープに飽きた人間の魂を遊ばせる、いっときの遊園地であるはずでした。けれどこの世界はまだ存続しています。百二十六年も。あなたたちこの現実を生きる人々の意識が、あんまりにも強固だったからです。だからマザーも、ここをより重要視しはじめているのですよ」


「……ほんとうに? それだけ? あなたが神とも呼ぶその女性がの意図が、僕らの生存を握っていると?」


王子の苦悶はよくわかる。しかしカリェラは答えない。これ以上の問答は規約に反するし、何よりこの世界には出口がない。堂々巡りの煩悶を続けさせるためだけに、王子にすべてを教えてなんになるだろう。畢竟、カリェラは王子の言う通り、この世界の一段階上に立つ役回りだった。良くも悪くも。望もうが望まざるまいが、その役目が振り分けられたときからずっと。


彼女は立ち上がり、スカートをつまみ、深々と頭を下げる。若き王子とその将来の妻に正式な礼をした。


「どうかそのようになさると、約束してください。私は嘘は申しておりません。これっぽっちも」


それは本当だった。すべてが嘘で固められた世界の真実をこそ、王妃カリェラは若き王子に託したのだった。


その年の暮れ、予言通りカリェラは死に、王子は王に即位した。老いてますます偏屈に、不条理な王命を出すばかりになった父親を、なかば武力で脅して隠居に追いやったのだった。贅沢好きな実の母親、その取り巻きをも辺境の小さな館に閉じ込めて、若き王は世界をよりよくするために政治に乗り出す。かたわらには常に、古代王家の血が流れる信心深く清楚な王妃の姿があった。


やがて田舎町の片隅で一人の娘が産声をあげる。


彼女が己の使命を自覚する日も、王と王妃が彼女を見出す日も、今はまだ遠い。


この世界はひとつの世界だ。小さかろうが虚無に取り囲まれていようが、そんなことは関係ない。ここに生きる人々には、この世界で生きる権利がある。


早々に伝説となった機械の神の降臨。ドラゴンとの戦闘。その陰に隠れた女神の存在が、人々の希望となり新たな信仰を生み出すのは、もう少し後の話である。


【完】


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